Million Ways=One Destination

猫柳蝉丸

本編

 会社帰りにコンビニで買ったビールを飲んでいると、部屋の外に人の気配を感じた。

 俺の部屋の前で足音が止まらなかったという事は、隣の部屋に用があるんだろう。

 放っておいてもよかったが、終わらないノックで騒がしくされるのも困る。

 俺は小さく嘆息してから、缶ビールを手に持ったまま玄関の扉を開いた。

 隣の部屋の玄関前には高校生くらいの優男が立っていた。線の細い美少年ってやつだ。

 俺と優男の視線が交錯する。

 生憎、男と見つめ合っている趣味は俺には無い。

「隣の姉ちゃんなら、引っ越したぞ」

 俺が伝えるべきことを伝えると、優男は安堵したような、それでいて寂しそうな複雑極まりない表情を浮かべた。何て顔しやがるんだ、まだ若そうなくせして。

「そう……ですか」

「ああ、だから何度もノックして呼びかける真似なんてしないでくれよ。こんな時間に騒がしくされちゃ近所迷惑だからな。勿論、俺だって迷惑だ」

「はい……」

 激しく問い詰められるかと何となく想像していたのだが、意外にもそういうことは無さそうだった。優男はひたすらに諦念に塗れている、そんな様子に見えた。だからかもしれない、余計な事を聞いてみようという気分になっちまったのは。

「隣の姉ちゃんに何か用があったのか?」

「あ、はい、ずっと話したい事があって探していた人なんです。それでやっと居場所を見つけて訪ねてみたんですが、今回も空振りだったみたいですね……」

「今回もって事はずっと続けてるのか?」

「ええ、まあ……」

 優男は言葉を濁した。特に関係も無い上に倍以上は年上だろう俺がどうしてそこまで踏み込むのか不審に思ったのだろう。無理も無い。逆の立場だったら俺だって不審に思うに違いない。

「悪いな、単なる好奇心だよ。言いにくかったら無理して話さなくてもいい」

 その言葉で俺と優男の縁はこれきり切れるはずだった。当然だ。赤の他人なんだから。

 だが、優男の口から出たのは少し予想外の言葉だった。

「いえ、もしよければ、オレの話を聞いてくれますか、おじさん」

「あ、ああ、お前さんさえよかったらな。どうせ暇なんだ、付き合ってやる。ただ……」

「ただ?」

「おじさんじゃない。俺には児玉一郎って名前がある」

「分かりました、児玉さん。あっ、オレは庭野忠雄って言います」

 そう言うと優男……、庭野は軽く微笑んだ。思ったより可愛らしい笑顔だった。

 いや、それより庭野と言えば確か隣の部屋の表札に……。

 その疑問を口にすると庭野は真剣な視線を俺に向けた。

「そうです、児玉さんの隣に住んでいた女の人は庭野みずき……、オレの母さんなんです」

「母さん? 姉さんじゃなくてか?」

「はい、かなり若く見えると思いますけど母さんなんです。生憎、オレ自身は最近の母さんの姿を写真でしか見た事がないんですけど……」

「まあ、それはいい。それでお前さんは若作りの母さんに会ってどんな用があるんだ? まさか母さんが借金を作って逃げてるって言うんじゃないだろうな?」

「いいえ、そうじゃないんです。それより先に児玉さん、児玉さんは母さんの事をどれくらい知っていますか?」

「単なる隣人って程度だ。すれ違えば挨拶はするが、その程度だな。お前さんの母さんのみずきって下の名前を知ったのも今日が初めてなくらいだよ。確か、そう、あれは3年前のことだったか。うちのアパートには珍しく若い姉ちゃんが引っ越して来たなって思ったのだけは覚えてる。まさかこんな大きな息子が居るような歳だとは思わなかったよ」

「そうですか……。あ、質問ついでにもう一つだけ訊かせてください。母さんがいつ頃引っ越していったか児玉さんは知っていますか?」

「さあな……。気が付けば居なくなっていた。先月末くらいに表札が無くなっていたからそれくらいに引っ越したんだろうとは思うんだが」

「気付かれたのかもしれませんね、オレが母さんに近付いてることを……」

「つまり、俺のさっきの言葉もあながち間違ってなかったってことか」

「そうです。母さんはオレから逃げて10年前に姿を消しました。原因は借金じゃないんですけど」

「借金じゃないなら何なんだ? お前さんと相性でも悪かったってのか?」

「逆なんです、児玉さん」

「逆?」

「相性が良過ぎたんです。だから、母さんはオレの前から姿を消したんです」

「どういうことなんだ?」

 庭野は視線を落として言葉を躊躇った。俺に話していいものか迷っているに違いない。

 しかし、数秒後には決心した力強い表情を浮かべていた。

 恐らく、いや、きっと、いつかは誰かに聞いてほしい話だったのだろう。

「児玉さんは前世って信じますか?」

「……ふざけてるわけじゃないよな?」

「はい、真面目に訊いています」

「どうだろうな。あまりオカルトを信じる方じゃないが、そういうこともあるかもしれないというくらいには信じているってところか。前世って言うとメルヘンだが、輪廻転生と言い換えると有り得そうな気もしてくるしな」

「オレと母さんがそれなんですって言ったら笑いますか?」

「……輪廻転生か?」

「はい」

「何とも言えないが、前世の知り合い同士が生まれ変わって巡り会えたんならロマンチックなんじゃないか? 信じたい分には何の害も無いと思うが」

「そうですね、前世で単なる知り合いだったのなら。でも、オレと母さんは前世で恋人同士だったんです。お互いに想い合った相思相愛の関係。そんな二人が母子として生まれ変わって、しかも前世の記憶をお互いに持っていたとしたらどうなると思います?」

「それは……」

 その明確な答えを庭野に与えてやることが、俺には出来なかった。

 冗談のような話だが庭野の表情はあくまで真剣だった。真剣過ぎて痛々しいくらいに。

 少なくともたまに耳にする電波系などとは一線を画しているように思える。

「オレの前世は古代エジプトのムスタファという名前の男でした。母さんはネフェルタリという女。完全に憶えてるわけじゃありません。それでもオレは母さんを見ていると思い出すんです、オレがムスタファであった頃のこと。ネフェルタリと深く深く愛し合ったこと。戦争で引き離されそうになったオレ達だけれど、死後の楽園アアルでこそ永遠に結ばれようと誓い合ったこと。そんな愛しくて切ない前世のことを」

「その誓いが今更になって果たされたって言いたいわけか?」

「オレの事、おかしいと思いますか?」

「悪魔の証明だな」

「えっ?」

「悪魔の実在が証明できないように前世の実在も証明できない。もしも前世が実在していたとしても、実在していなかったとしても大した違いは無い。お前さんとお前さんの母さんが自分達の前世を信じているのなら、俺にはそれを否定することができない。お前さん達は信じているんだろう、前世ってやつを。それならお前さん達の中には確かに前世が存在してるってことになる」

「……児玉さんって不思議な人ですね」

「そうか? 普通のおっさんだと自分では思うが」

「いいえ、不思議ですよ。前世の話を信じてくれる人が居るなんて思いませんでした」

「それなら、どうして俺に話したんだ?」

「どうして……でしょうね……?」

 どうやら本当に庭野自身にも分からないようだった。

 俺は苦笑して助け舟を出してやることにする。

「きっと俺もお前さん達の前世の知り合いだったんだよ。そういうことにしておこう。まあ、お前さんの記憶に残るようなタイプではなかったんだろうが」

「そう……ですね。そういうことにしましょうか」

「それでだ、庭野君」

「はい」

「お前さんはお母さんを捜してどうするつもりなんだ。いや、そもそも前世の記憶が残っていたとしても、どうしてお前さんの母さんは姿を消して逃げ回っているんだ。たかが前世の記憶じゃないのか?」

「たかが……じゃなかったんですよ、オレも、母さんも。前世のムスタファとネフェルタリは愛し合っていたんです。想像以上に愛し合っていたんです。四六時中相手の事しか考えられないくらいに。さっき言ったように永遠の愛を誓うくらいに」

「でも、前世の話じゃないか」

「恥を忍んで言いますよ、児玉さん。ムスタファとネフェルタリは男女として愛し合っていたんです。つまり肉体関係だって何回も、何十回も結んでるってことなんですよ。その感触まではっきりと思い出せるんです、オレと母さんは。それでどうなると思います?」

「困る……だろうな」

「ええ、困ります。前世の記憶に先に気付いたのは母さんでした。オレを産んですぐ前世の記憶が甦ったそうです。それだけなら気のせいで済むかもしれませんが、物心が付いたばかりのオレまで前世の記憶を語り始めたせいで、気のせいでは済ませられなくなってしまった。前世の最愛の人が、永遠の愛を誓った人が、自分の息子になってしまったんですよ。それで前世と今世、どちらを優先させるべきか分からなくなってしまったんです、母さんは」

「それでお前さんの前から姿を消したと?」

「はい、母子相姦なんて洒落になりませんからね。それを拒絶する理性くらいは母さんにも残っていたんです。例え前世の誓いを踏み躙る事になったとしても」

「だとしたら……」

「はい?」

「だとしたら、お前さんはどうして母さんを捜しているんだ? 母子相姦なんて洒落にならないんだろう?」

「分かっています。分かっているんです。けれど、オレは母さんに会いたいんです。だって実の母さんなんですよ? 話したいことなんていくらでもあるじゃないですか。側に居たいじゃないですか、家族なんだから」

「その結果、母さんか、お前さんの最後の理性が消え去ることになるかもしれないぞ」

「それでも……、それでもオレは……」

 それ以上庭野は何も言わなかった。

 自分自身でも分かっていないのだろう、自らの本当の気持ちを。

 俺は嘆息して、すっかり温くなってしまったビールで喉を潤した。



     *



 全てを語り終わった後、庭野は存外すっきりした表情で去っていった。

 どんな形にしろ、前世の話を聞いてもらえてすっきりしたのだろう。

 俺は自室の窓から身を乗り出し、星を眺めて呟く。

「キセキのチカラだな」

 間違いない。ひどいキセキのチカラだ。

 俺は知っている。ムスタファとネフェルタリが誓ったことを。

 奴等は誓った。死んだ後も永遠に変わらぬ関係と愛を続けることを。

 それを叶えてやったのだ、公平無私の神様って奴がキセキのチカラで。

 俺は知っている。ムスタファとネフェルタリが今の庭野達と同じく母と子であったことを。母と子で愛し合って母子相姦の関係になっていたことを。母子相姦なんて古代ではよくあったことだ。よくあったことだからムスタファとネフェルタリも永遠に変わらぬ愛を誓った。母子で永遠に愛し合うことにも疑問なんて抱かなかった。まさか世界の価値観と禁忌自体が変わってしまうなんて想像もしないで。

 庭野は自分達の前世も母子であったことに気付いているのだろうか。庭野みずきの方は気付いているのかもしれない。それで母親が逃げて息子が追う図式が成立してしまっているのかもしれない。いや、どうでもいいことか。

 それにしてもひどい罰だと実感させられる。

 庭野達ではなく俺の罰の話だ。

 庭野には言わなかったが、俺にも前世の記憶がある。古代エジプトより遥か昔、人類が農耕を始めた頃の俺の前世は家族を殺した。その理由なんて憶えちゃいないがとにかく殺した。その罰なのだろう。俺が自分と他人の前世が分かるようになっちまったのは。

 前世が分かるなんて便利だと思ったのは最初だけだった。

 分からされてしまうのだ、人が多かれ少なかれ前世に影響されてしまっていることを。庭野だけじゃない。人は前世で深く繋がっていた人間と今世でも深く繋がることがほとんどだった。それはロマンチックなんかじゃない。自分の意思じゃなく前世に操られていることに他ならない。

 人は過ちを繰り返す。どうしてか?

 簡単だ。前世に操られているからだ。前世の前世に操られているからだ。軽はずみに永遠の愛の誓いなんてのをしてしまって、お節介な神様がそれを叶えてくれるからだ。そこに自分の意思なんて存在しない。全ての人間が神様の意思に突き動かされているだけだ。それを分からされて絶望させられるのだ。

 俺はそうして絶望して生きていく。前世も、今世も、恐らくは来世も。

 庭野達と同じく前世に雁字搦めに縛られて。

 今だけはそれを考えたくなかった。

 俺は星を仰いで缶ビールを呷り、全ての思考を脳内から追い払った。

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