大人の味

田原かける

大人の味

 生まれて初めて人を殴った。別にそれがどうしようもないいじめっ子が次は僕をターゲットにしただとか、救いようのない不良に絡まれたって状況なら何もこんなに動揺することはないし、むしろそんな奴にならもう一発お見舞いしてやるところだよ。だけど僕のことを馬鹿にされてたわけではないし、何かちょっかいを出された訳でもない、つまりなぜ殴ったかと先生や両親に聞かれたら「そんなの僕が一番知りたいよ」、って言って泣き出したいくらい自分でもよく分からない状況だから困っているんだ。本当だよ。神様に聞かれてもそう答えるね。もしかしたらこれは夢なのかもしれないって考えてもみたし、実際そうであってほしいよ。そしたら、「今日の夢の中でたっくんのこと殴っちまった、ごめんな!」なんて話のネタのひとつになって終わるだけなのに。だけど殴った右の拳はまだずきずき痛むし、心臓がはち切れるんじゃないかってくらい激しく脈を打って息が苦しい。多分たっくんを殴ってしまったのは事実なのであろう。たっくんってのは小学校からずっと仲良くしているいわば親友とも言えるやつで、家が近いからよく遊んでるんだ。小学生のころは帰り道にザリガニを捕ってかえって二人してお母さんに帰りが遅いってよく怒られてたし、中三になった今も家で毎日のようにスマブラをしてる。これだけ遊んでいるのに喧嘩のひとつもしたことがないんだから相当気が合うんだろうな。 そんな関係の相手からいきなり右ストレートを食らった日には、びっくりしすぎて言葉のひとつも出ないくらい固まってしまうのも当然だよね、そりゃあそうだ。逆の立場だったとしたら、僕なら状況を冷静に理解するまでに丸一日かかるだろうね、もちろん殴られた左頬を手で押さえた姿勢のまんまね。

 幸か不幸か今回僕は、殴った側だったので殴られた側よりもいくらか頭が回ったのかもしれない。この上なく悪いことをしてしまった気がして怖くなってきたんだ。そして次に何をしたと思う?彼に謝りもせずにその場から逃げ出しちゃったんだよ。今思うと相当頭がイカレタ奴だよね。いきなり友達を殴って何も言わずにその場から逃げ出すなんて。

 僕はそのまま家まで走ってきて一時間くらい経ったんだけど、まだたけちゃんの親や学校から電話が来てない。もしかすると、あいつはまだ殴られたことを誰にも言ってないのかな。いや、学校で一番怖い相沢なんか連れて金属バット片手に家に乗り込んで来る途中かもしれない。あいつのことだからそれはないと思うけど。おそらくは、何で殴られたのか分からないまま、殴られたところをさすりながら帰っているか、あるいは、先生や両親に高田にいきなり殴られたってちくっているところのどっちかだろうな。

 ただこれだけは信じてほしい。僕は別に気の短い方ではないし。むしろ穏やかなほうだ。今回殴ったことも本当に悪いことをしたと思っているよ。昔誰かに、机の中にミミズを入れられた事があったけど、犯人を見つけてやり返そうとも思わなかったし、そもそも怒りもしなかった。そっと校庭に連れて行ってみみずを外に帰してあげた。もちろんこれがいじめだって分からないほど馬鹿じゃない。ただ、そのくらい僕は何をされても頭にこない人間であったし、やり返せるくらいの根性のない人間でもあった。根っからの平和主義者なのかもしれない。そんな僕が人を殴るなんて、僕自身も未だに信じられないけど、やってしまった事実は変わらないので、怒られたときの言い訳でも考えておこうかな。残念なことに僕は嘘をつくのが絶望的に下手なので、すぐにばれると思うけど。

 そんなことを考えているうちに気がつけば寝てしまっていた。母親に夕食の時間だと起こされるまで二時間ほど寝ていた。普段昼寝などまったくしないので、相当疲れていたんだろうな。

 夕食の席に行くと、父親が帰ってきていた。今日は鮭のホイル焼きだった。コンソメで味付けて、バターもよくきいており僕の好物のひとつでもある。三人で「いただいます」と言って食べ始めたが、どうも食欲がわかない。僕のお母さんは細かいことでもすぐ怒るので、たっくんを殴ったことを知っているなら寝ていたとしてもたたき起こして説教されているはずだから、まだ知られていないか誰にも言ってないんだろう。今日怒られる心配はなくなったけれど、鮭の骨は取ったはずなのにのどに引っかかるし、いつもなら少ししょっぱいくらいの味も今日はスポンジを噛んでるみたいに味がしない。このまま食べてもあとでトイレでもどしてしまいそうなので、それではせっかくの好物がもったいなと思い、食欲がないのからあとで食べるよとだけ言って席を立った。当然両親は「具合が悪いの?」、と心配するわけだけど、本当にどこも悪くないので、大丈夫と一言だけ言ってそのまま席を立ちそのまま風呂へ向かった。湯船につかる気分でもないので、シャワーだけで済ませた。体を洗っているときに右手で力を入れようとするとまだ痛むことが、よっぽど強く殴ったことを自覚させて本当に申し訳なくなる反面、なぜだか自分に対してはとんでもなく腹が立つので、全身の皮膚がほとんどとれるんじゃなかってくらい強くこすった。半分はとれたんじゃないかって頃に上がって、体をタオルで拭き、髪を乾かそうと思ったけど、今度は鏡に映る自分を見たくなくなった。だって今にも泣き出しそうで、自分の顔なのに二、三発ぶち込んでやりたほど不甲斐ない顔をしてやがるんだ。これ以上見てると本当に鏡に対して殴りかかりそうだったので、濡れた髪のまんま部屋へ向かいベッドに飛び込んだ。

 まったくとんだ一日だった。そして今日の僕はかなりおかしい。友達のことは殴ってしまうし、ご飯がのどを通らないし、いらいらする。

 「谷川美麗が赤塚歩と付き合い始めた」

 このことを聞いたのは昼休みのことだった。クラスの女子が大声でその話題を話しているもんだから、嫌でも耳に入ってきたよ。廊下を歩いててもみんなその話ばかりするんだ。今日中に学校全体にも広がったことだろうね。別に特別なことなんかじゃないんだ。中学三年にもなると、誰が誰と付き合い始めたなんて話しょっちゅう聞くし、実際学年にもカップルが何組もいる。一年生の頃ならそんな話を耳にするだけで僕までドキドキしたもんだけど、今となってはどうってことないね。そんなのを聞かされるくらいならイヤホンをしてお気に入りのバンドを聞いた方が何倍もいい。いつものように右から左に流れて終わると思ってたけど、なんだか今回ばかりはそわそわして落ち着かない。

 確かに美麗は僕の幼稚園からの幼なじみだ。それこそ親同士も仲がいいし、家族同士で出かけた事なんて一度や二度ではない。それがただの幼なじみならいいんだけど、美麗といったら顔は名前負けしないほど美人で、スタイルもすらっとしてて、そのくせ美人な事を決して鼻にかけたりしないで愛嬌のある、学校に一人いるかどうかのまさしく憧れの的のような女の子なんだよ。彼女を見て惚れない男なんていないんじゃないかな。僕の一年分のお小遣いをかけてもいいよ。まあ、そのくらい美人でしかも話しても楽しいやつなんだ。もちろん僕も美麗と付き合えたらなってそりゃあ思うよ。でも、僕じゃ到底彼女とは釣り合わないね。現に僕がクラスで話している時ですら「なんであいつが美麗ちゃんと話してるんだよ」ってどこからから聞こえてくるんだ。これがもし付き合って駅前でデートして日には、後ろから刺されかれないね。相当モテるであろう彼女が僕を選ぶ事なんて、僕がアイドルになるくらいあり得ないし、それこそジャニーズみたいにかっこいい奴と付き合って結婚するに違いない。きっとそう思うよ。

 まあ、彼女が誰と付き合おうが彼女の勝手なんだけれど、赤塚歩、あいつとだけは絶対に認めたくない。自分の娘があんなやつを連れてきたら確実にちゃぶ台をひっくり返して追い払うね。確かに顔はかっこいい方なんだよ、顔はね。だけど中身が本当に最悪なんだ。学校にだってろくに来やしないし、口を開けば、中学生のくせに酒がうまいだとか、女とどこまでやったとかそういうことしか言わないような奴なんだ。本当に実際に会ってみてほしいくらいだよ。そしたら、奴がいかにゲスな野郎か一目で分かるからね。いい噂なんて何一つ聞かないような本当に最悪な男なんだ。

 美麗がそんな奴とどうして付き合ったかは謎だけれど、どうやら、彼女は男を見る目がない節があるようなんだ。彼女は相当モテるはずなんだけど、中学の間に付き合った人はたったの一人だけらしい。その男がこれまた本当に最悪で、一緒に帰らないだけで怒鳴ったり、花火大会の時に、美麗のことは立たせて自分だけ座るような奴なんだよ。そのくせ、デートの度にホテルにだけは必死に誘うんだから、人間の皮を被った野生の猿かなんかだと思ったね。もちろん美麗はホテルなんかにホイホイついて行かないと思うし、本人もそう言ってた。当然その話を美麗から聞いたときに僕は「そんな男分かれた方がいいよ。もっといい男いっぱいいるなんじゃないかはずだ。」ってちゃんと言ってやったよ。そしたら美麗の奴なんて言ったと思う?「でも、いいところもたくさんあるんだよ」だってさ。ほんとに参っちゃうよね。結果的に一ヶ月後に浮気されて分かれたらしいけれど、そらみろ、やっぱりろくな奴じゃないじゃないか。

 まあでも、美麗にまともな男があんまり寄ってこないのにはちゃんと理由があるんだ。誰かが、多分彼女のことを目の敵にしてるどこかの女子のグループが、美麗が男をとっかえひっかえして遊んでるなんて噂を流しているらしいんだ。そのことを美麗から相談を受けたんだけど、僕がやり返せって言ってもそれは嫌だって言うんだ。本当にどこまでもいいやつなんだ。ただ帰り際に、美麗、少しだけ泣いていたんだよ。それを見て僕は噂を流した奴のことが生まれてから一番ってくらいに頭にきたね。こんな人を泣かせるなんて絶対に許せない。今すぐ犯人を見つけ出して土下座でもさせて謝らせたかったけど美麗はそんなこと望んでないし、小心者の僕にそんなことできる訳がなかった。ただただ話を聞いて「そんなこと無いのにね」って慰めることしかできなかった。

 今でも学校にいれば三日に一回は、美麗が「他の中学の奴らを何人も手篭めにしてる」だとか「隣の高校の先輩からお金をもらって付き合って」話を聞くし、ひとつ否定したところでまたすぐ次の噂がぽんぽん出てくるんだ。たけちゃんですらすっかり信じちゃってるし、もううんざりだよ。あんまりでしゃばると今度は僕の変な噂まで立ちかねないので聞き流してしまうようになってしまった。一回本気で否定した時なんて「あいつは、美麗ちゃんにそそのかされたに違いない」ってみんなに後ろ指を指されたんだ。あのときは本当に最悪だったね。

 殴る前にたけちゃんが話してたのは「あのビッチは次に歩と付き合うのか、墜ちたもんだ」って感じのことだったんだけど、慣れたとはいえそりゃあむかついたよ。でもいつものように我慢して聞き流そうとしたんだけど、信じられないことに、本当に、本当に無意識に手が出てしまったんだ。それこそ右手が勝手にといった具合にね。今まで人に手を出したことなんて一度もなかったのに。もちろん右手が勝手に動いたとはいえ謝らなきゃいけないけど、殴りたくて殴ったんじゃないなんて言い訳したらそれこそ一生口をきいてもらえないだろうね。それは絶対に嫌なんだ。ずっと遊んできた友達をこんな形で失いたくない。だから、理由はどうであれ殴ったことは絶対に謝らなくちゃならないんだけど、ラインで「今日はごめんね」って送るのがどこか腑に落ちなくて打っては消している。やっぱりラインで謝るのは気に入らない。結局明日の朝、直接謝ることにした。殴った言い訳は、明日の朝までに考えればいいや。殴った理由を聞かれてもうまく説明できないし、ひたすら謝ることしかできないのは目に見えてるけど。

 諦めて寝ようとしてたら、携帯から通知音が鳴った。美麗からだった。見ないでそのまま寝てしまおうかと思ったけど、どうしても気になる。散々悩んだけど結局見てしまった。後悔したね。「新しい彼氏ができたの!一組の赤塚歩くん!」だってさ。まったくほんとにのんきな奴だよ。こっちはそのせいで付き合いの長い友達を殴ったっていうのに。

 僕はまわりくどく聞くのも聞かれるのも好きじゃないので、気になることをストレートに聞いた。

「友達から聞いてたよ、おめでとう。ちなみに奴のどこがいいの。あんまりいい噂聞かないんだけど」

「そんなこと言わないでよー、えっとね、おとなっぽくて、強そうで守ってくれそうなところ。」

 何が大人っぽくて強そうなんだよ。二十歳でもないのにして酒を飲んで、女といやらしいことして大人ぶってるだけじゃないか。確かに身長は僕よりも高いし、イカツイ髪型をしてるから強そうではあるけど。女の子ってのはあんな男に惹かれるもんなんかな。本当に不思議だよ。今頃は美麗といやらしいことをする妄想を繰り広げているところだろうよ。本当にそんなやつなんだ。寒気がするよ。

 ただ、これ以上彼について美麗にやかく言っても僕が嫌われてしまいそうだし、なんて返信したらいいかまったく思いつかないから、まだ九時だけど寝ることにした。

 一度は寝付くことができたのだけれど、昼寝もしてせいか朝まで眠ることはできなかった。目が覚めたのは深夜二時を過ぎた頃、もう一度眠ろうと思っても、夕飯を食べなかったのでお腹が空いているし、目をつぶっていても美麗や赤塚歩のことが頭にちらつくし、いつもなら気にならない時計の秒針が動く音が今日は10倍くらいに聞こえるもんだからもう一回寝れそうにもそうにもない。とりあえずお腹を満たすために冷蔵庫に向かうことにした。こんな時間なので両親は当然眠ってたし、大きな音を立てなければ起きやしないだろう。足音をあまり立てないよう慎重に両親の部屋の前を通り過ぎ、台所にある冷蔵庫にたどり着いた。中には僕がほとんど手をつけずに残して夕飯がラップをして入っていた。チンして食べようと取り出していたら奥のほうに置いてある銀色の缶に目がとまった。お父さんが飲んでるビールが一本だけ奥の方に入っている。取り出してラベルを見たけどやっぱりお酒は二十歳からって書いてある。中学生の僕は飲むべきではないし飲んでもおいしくないけど、大人やあの赤塚歩はうまいって飲んでいるやつだ。以前お父さんのを一回だけほんのちょっとだけ舐めたことがあるけど、一滴でも本当にひどい味だった。オレンジジュースの方が百倍はうまいね。

 飲むつもりもないのでしまおうと思ったけど赤塚歩の顔がどうも頭にちらつく。時代遅れの不良みたいな面で、そんなのも飲めないのかって心の底から馬鹿にするような顔をしている。あんまり馬鹿にするなって意地になり、プルタブを引いた。

 ぷしゅっと小気味よい音が誰もいないリビングに響く。

 これを飲んだら大人に近づけるわけでも、噂の犯人を見つけて謝らせることができるくらい度胸がつく訳でもない。だけど、飲まないと何かに負けるような気がした。赤塚歩を否定できない気がした。

 決心して一口飲む。

 信じられないくらいまずい。苦いしそのうえ炭酸は強いし、先にご飯を食べていたら間違えなくトイレで吐いているよ。一口でやめればいのに、何かにそそのかされるようにもう一口もう一口と気合いでお腹に押し込んでいった。軽い拷問を受けている気分だった。半分くらい飲んだところで全身が熱くなったきたんだ。それでも我慢してもう一口飲んでみる。どれだけ飲んでもやっぱり苦い。前にお父さんが、「最初は苦いんだよ。だんだん慣れてくる。そのうち、苦いからおいしいなんて言えるようになるさ」って言ってたけど、やっぱり僕にはまだおいしいって言うにはまだ早いみたいだ。

 そういえばお酒を飲むと泣く人もいるって聞いたことがあるけれど、どうやら僕はそのタイプなのかもしれない。不思議と涙が止まらないんだ。普段泣いたことなんてほとんど無いのだけど。

 いくら飲み進めても決しておいしいとは思えなかった。最後の一口も飲んでもひどい味は変わらない。苦くて飲み込むのが辛い、そんな味だった。

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大人の味 田原かける @sora_no_ao

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