第8話 甘い香りを邪魔する腋臭臭はだれの仕業だ
その日も、電車に乗るや否やぎゅうぎゅうと押し込まれるようにして、あっという間に入り口から奥の方へと追いやられた。
仄かに甘くていい香りが漂っており、ついつい息を大きく吸い込んだら、だれかの腋臭らしきものが混じって僕の鼻腔が襲撃された。
思わずウッとなって発生源を突き止めるべく周囲を見渡すと、なんと僕の隣に見つけてしまった。
と言ってもしかしそれは、間違いなく甘い香りの方の発生源だ。かの高嶺の花、羽深さんその人だった。
早朝の登校で二人になれる時間を失ってからというもの、スクールカーストの頂点に位置する彼女とは、話すことはおろか挨拶を交わす機会すら皆無の生活となっていた。
その羽深さんが今満員電車の中ですぐ隣にいるだと!?
僕は、思い余って再び妄想を拗らせているのだろうか? いや、同じ轍を二度も踏むものか。現実ってヤツは時にこんないたずらを仕掛けてくるもののようだ。以前の僕はそんなことありえないと思って受け入れられずに失敗したんだ。
僕は羽深さんの方にもう一度目を向けると、どうにも様子がおかしい。青白い顔をして心なしか震えているようにも見受けられる。
それを見て僕は少なからずまたどんよりとした気持ちになる。羽深さんは満員電車で僕と隣り合わせになってしまったことをそこまで不快に思っているのか……。
『またぁーーーっ。どうしたら仲良くしてもらえるのかなぁ……? わたしこれでも結構頑張ってるんだよぉ?』
またあの日の羽深さんの言葉が頭の中で虚しくこだまする。何度も何度も言葉がリフレインするうちに苦い気持ちが沸き起こる。
あぁ、以前のように逃げ出してしまいたいけど、あいにく今は満員電車の中だ。どこにも逃げ出すことは叶わない。これも戒めか。彼女にこんな顔をさせているのに何もできないなんて、なんていう苦行だよ。
そんなことを堂々巡りで考えていたら、ふと、袖口を引っ張られているのに気づいた。
人が密集している状況で、自分の腕を目視することすらできないが、位置関係から判断して僕の袖口を引っ張っているのは羽深さんしか考えられない。
一体何事かと思い、再度羽深さんを見ても相変わらず青ざめた顔で震えているのは変わらない。強張った表情で瞑った目がさらにぎゅっと閉じられると同時に、僕の袖を引く力も強まった。
その羽深さんの肩越しにニヤニヤといやらしくにやけたおっさんが目に入った。
こいつが原因か……腋臭の発生源。まったくぅ。羽深さんの発する清らかな空気を汚しおってからに……。
あ、この臭いのせいか? だから羽深さん、こんなに辛そうなんじゃないか? 僕のせいだったら僕の袖口掴んだりしないよな。
あぁ、ちょっと安心した……。
羽深さんとこんなに密着するなんて、たとえ妄想の中ですらしたことなかったけど、羽深さんにこんな顔させてるのは気の毒だ。早くこの満員電車から解放してあげたいなぁ。
そんな気持ちで羽深さんを見ていると、そっと片目を開いた羽深さんと目が合ってしまった。羽深さんは不思議なことに僕にすがるような目をして口をパクパクしている。
ん? 何だろう……?
『た・す・け・て』
助けて? そう言ったのか?
と言われても僕には消臭効果はないし、うーん、窓を開けることもできないし、助けろって言われても……。
羽深さんを見ながら考えていると、さっきより息を荒くしている腋臭のおっさんが目障りに僕の視界に入ってくる。天使のような羽深さんの背景に映り込むなんて目障りにもほどがある。
が、ふと鼻息を荒くしているいやらしそうににやけたおっさんと、羽深さんの恐怖に引きつった顔の関係性を結びつけるシーンにぴーんときた。
満員電車のこのシチュエーション。
痴漢!?
僕はその瞬間、カーッとなって何も考えずに、気がつけば、羽深さんを抱えるようにして彼女とポジションを入れ替わっていた。もちろんすぐに彼女からは手を離したけど。
羽深さんは俯いたまま、無言で僕の胸に顔をつけている。よほどの恐怖だったのだろうけど、僕の心臓が猛烈にバクバク鳴ってるので、間違いなく羽深さんにはその鼓動が伝わっちゃってるはずだ。恥ずかしくて堪らないんだが、羽深さんが経験した恐怖を考えたら、自分のことなんて大事の前の小事だ。しかし大事の前の小事には二つの意味があるらしいからな。小事は大事でもあるのだ。
羽深さんの右手はずっと僕の袖口を掴んだままだ。先程から僕の心臓はズキューーンされまくりでもう蜂の巣状態に違いない。それなのに相変わらず激しく打ち付ける鼓動は止むことを知らない。
僕は苦し紛れに腋臭のおっさんの靴を思い切り踏みつけてやった。これは羽深さんの分、と右足で。これは腋臭の分、と左足で。
羽深さん、こんなことじゃあとても羽深さんが受けた仕打ちと見合いませんが、一応やってやりましたぜ。だから元気を出して。
あとはそのまま学校の最寄駅に到着すると、腋臭のおっさんがどうなったのか知る由もなく激流に流されるようにしてホームに降り立った。
気がつけば僕は駅のホームで羽深さんと向き合って突っ立っている。
羽深さんは相変わらず僕の右袖を掴んだまま俯いている。相当な恐怖だったのだろう。
しかし学校の最寄駅だけに生徒たちがたくさんいるので、この状況は非常にまずいのでは?
万に一つも二人の関係性を疑われるような可能性はないと思うが、僕が粗相をして羽深さんを困らせているという風になら俄然疑われる可能性大だ。
「あの……大丈夫ですか、羽深さん……?」
その直後、羽深さんは真っ赤な顔を上げて僕のことを見上げた。
「やっと名前呼んでくれた……」
それは誰かに届けるというより、自分に言い聞かせるような呟きだった。
「だけど敬語だったからやり直しっ!」
今度は明らかに僕に対して放たれたダメ出しの声だった。
まるで捨て台詞のように僕に向かってそんな言葉を言い捨てると、羽深さんは早足で逃げるように僕の元を離れていった。
嵐に舞う枯れ葉のように心を翻弄され、僕はしばらくの間ホームに立ち尽くしていた。
————やり直しのチャンス、まだあるってことか……。
僕はゆっくりと歩き出し、学校に向けて徐々に足取りが軽くなって行くのを感じた。
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