第7話 覆水盆に返らずとはこのことよ

 翌朝、そういえば昨日はびっくりして結局羽深さんにお礼を言えないままになってたので、今日こそはきちんとお礼を言わなきゃ、なんて思いつつ早朝の学校までの道を急いだ。


……それに……。


 今日はちゃんと羽深さんとのやりとりが現実だってことを受け止めないとな。

 そう考えたら羽深さんの言葉や表情、仕草がつぶさに思い起こされて火がついたみたいに顔が熱くなった。


 そんな調子で教室に到着すると、そこは誰もいない伽藍堂がらんどうだった。ギャランドゥならまだしも、伽藍堂なんて言葉を脳内ですら使ったのは初めてだ。


 閑散とした教室で、僕はしばらく主人不在の机と椅子をぼーっと見つめていた。

 てっきり、今日もここに来たら羽深さんが元気におはようって言ってくれて、敬語の疑問形になってしまう僕の挨拶にツッコミを入れるんだと想像してた。

 羽深さんとのそんなやりとりが現実だったと認識した途端にこれ。

 僕は再び、昨日までのことが、僕の脳内でだけ起こっている妄想の賜物だったのかと疑わねばならなくなった。

 というより羽深さん、本当に具合が悪かったのか……と今更ながら心配する。

 僕に腹を立てるあまり気分を害して帰っちゃったんじゃあるまいなと思ったりもしていたのだ。それで、心のどこかで、僕が原因じゃなくて体調の問題だったことにホッとしている自分がいる。

 そもそも僕なんかにそれほどの影響力があるわけがないじゃないか。思い上がるのもいい加減にしろよ。

……っていや、そうじゃない。僕は最低のヤツだ。羽深さんのこと好きなくせに、実際には自分の心配ばっかりしている。好きな人のことを一番に思いやれないなんて、これだから底辺は……。


 羽深さんもいない教室に独りぼっちでいたってしょうがない。彼女がいなければ、こんな朝早くからのこのこ登校してくることなんて、途端に意味を失ってしまう。

 自販機のある場所まで行ってコーヒーを飲みながら、早朝でほとんど生徒のいない中庭をぼんやり眺めた。


 そんなことをしているうちに、そろそろみんな登校してくる時間になったようだ。それを見ても何となくまだ戻る気になれず、朝礼に間に合うギリギリの時間になってから教室を目指した。


 あ……。

 教室に戻ると、いつもの通り取り巻きに囲まれて楽しそうにしている羽深さんがいた。

 なんだ、元気そうじゃん。よかった……。

 心の中でそう呟いたのとは裏腹に、胸が締め付けられるような、何かがのしかかるような、なんとも言えない苦しさが僕を覆った。

 いつもみたいに朝教室に来ていなかったのは、要するに僕に会うのを避けたってことだろう。

 僕が早い時間に来るようになって、羽深さんとしても精一杯の社交辞令を示そうという義務感で頑張ってくれていたんだろう。


『またぁーーーっ。どうしたら仲良くしてもらえるのかなぁ……? わたしこれでも結構頑張ってるんだよぉ?』


 羽深さんの言葉が脳裏に甦って何度もこだまする。そうだよね。頑張ってるってそういう意味だよ。

 羽深さんがこんな底辺にも差別せずに頑張ってくれてたのに、僕と来たらその苦労も知らずに一方的にテンパっちゃって、とても現実とは思えずにその場から逃げ去ってしまったんだ。

 さすがに羽深さんもこんなヤツと二人っきりで教室にいることに嫌気がさして耐えられなくなったってことか……。

 はぁ……やっぱり僕は調子に乗ってたんだ。調子に乗ると最悪な結果を招くとあれだけ自分を戒めてたのになぁ……。


 その日は一日ダウナーなままに過ぎていった。帰宅後も何も手につかず、ボーッとしていたらやがて朝になっていた。


 それでその日も、その次の日も今までのように朝早く登校してみたのだが、結局羽深さんがその時間に教室に来ていることはなく、僕は自販機の缶コーヒーが温くなるまで時間を潰してから教室へ戻るというのをまた繰り返した。

 その間に一度だけ、前みたいに偶然目が合ったことがあったんだけど、羽深さんはすぐに目を逸らしてしまって、前みたいに微笑んでくれることはなかった。


 はぁ……。覆水盆に返らずというのはこのことか。今更ながら僕はやらかしちゃったんだな……。そんな後悔も今となっては手遅れだ。

 何もなくても朝の時間を二人だけで共有するだけで幸福だった。

 それが挨拶以上の会話をするようになった途端、僕がパニクってぶち壊してしまった。壊れるくらいなら最初から何もなかった方がまだマシだったのに……。

 高嶺の花は手の届かないところにあって見てるだけのものだ。それを身近に置くなんてことはできないことだったんだ。


 それ以来僕は早朝の登校をやめて、満員電車のラッシュに辟易しながら登校することに甘んじる生活へと戻った。

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