第6話 名前を呼んでくれないの
「楠木ぃー。おーい、楠木ぃー」
……?
「おぉ、なんだメグ、いたのか」
「ひでぇっ。大丈夫か、お前?」
メグが、僕の顔を覗き込みながら心配そうに訊いてくる。
「何が?」
「何がって、お前いつにも増してボケーっとしてっからさぁ。例のレコーディングの日程決まったっていうから知らせに来たんだけど、そしたら俺の呼びかけにも気づかないくらい上の空だったからさ。お前ヤバい薬とかに手出してないよな?」
「んー、それな。自分でもなんかヤバいのやってんじゃないかって心配してるとこ……」
「はぁっ!? お前マジでそれだけはやめとけよ!?」
「んー、多分やってはいないはずだと思うんだけど」
「おいおい、大丈夫か、本当に!?」
なんか本気で心配されてる気がするけど、僕大丈夫だよね? やってないよね?
「最近妄想と現実の境目がおぼろげでな。僕って現実に存在してる人だよね?」
「怖っ。楠木怖っ。取り敢えず病院行け、お前は! そんなんでレコーディング大丈夫なのか?」
「それな。取り敢えず、昨日練習してみた。録音聴いてみる?」
「おぉ、そこはちゃんとしてるのな」
僕が昨日録音した自分の演奏をミックスした音源をメグのAirDropでシェアすると、彼はイヤホンをはめて早速聴いている。
結構ノッているようで、さながらベースを弾いてるみたいに指を動かしている。実際に自分もセッションしているのをイメージしながら聴いているのだろうな。
「なんだよこれ……」
あれ、なんかダメだったかな? 自分じゃ結構いいじゃんと思ったんだけど……。
「めっちゃいいじゃん! いつもよりかいいくらいだよ!」
「お、やっぱり?」
「いいよこれ。すんげぇグルーブ感あるわ。マジでお前薬キメて演奏したとかじゃないよな!?」
「多分……」
そんなもんとは縁がないはずなんだけど。最近羽深さんとのやりとりが現実なのか妄想なのか、認識が曖昧になってきてるからちょっと不安。
机の中にしまってある羽深さんがくれた紙袋に触れて、間違いなくこれが幻覚ではなく現実であることを確認する。大丈夫だ。これは夢じゃない。羽深さん謹製のビスコッティが証拠だ。
「それで? レコーディングはいつの予定だって?」
メグが言うには、レコーディングの手伝いは来月の頭ということだったので、ちょっとだけまだ余裕がある。さらにいい演奏ができるようにブラッシュアップしていこう。
さて、今日僕はまたもや新たな悩みを抱えることとなった。羽深さんから
これについてお礼を言うには、食べてその感想とともに感謝の言葉を伝える、というのが一般的な礼儀かと思う。それに僕だって羽深さんの手作りだなどと聞かされたんじゃあ、食べたいという欲求が溢れかえるってえものだ。
ところがだ。僕が欲望の赴くままこの貴重なお菓子を食べてしまったら、これを下賜されたこと自体が現実なのかどうかを証しするものが何にも無くなってしまうわけだ。それじゃあまたまた現実だか夢だか自信がなくなって、結局妄想だったかもと結論づけることになっては困る。
食べるべきか、食べざるべきか、それが問題だ。
結局、いつものごとく僕は悩みに悩んで眠れない夜を送り、そろそろ陽も昇ろうかという段になってやっと思いついたアイディアというのが、記録に残すことだった。つまり僕はお菓子を写真に撮り、食べる様子を動画で自撮りすることで記録を残すことにしたわけだ。そんな簡単なことなら最初に思いつけばいいのに、また時間を無駄にしてしまった。
そうしてまたもや睡眠不足のまま朝を迎えた。眠たい目をこすって、羽深さんと二人きりの時間を過ごすため、今日も今日とて登校を急ぐ朝だ。
だけどよくよく考えてみたら、この朝のひと時が今や問題の種となっているのではなかろうか?
それでも、結局この至高とも言えるひと時はとても捨てがたく、蜜を求めて花に集まる蜂よろしく僕を学校へと誘うのだ。
それに何よりビスコッティのお礼を伝えねばならないのだから急がねば。クラスメイトが登校してきたら、もう彼女に近づく機会はないのだから。
「おぉー、おっはよぉー。楠木君」
「おはよう……ございます?」
「っておーーいっ!! なんでございますつけちゃうかなー、しかも疑問形で!」
いや、自分でもなんか不思議なんだよなー。
蛇に睨まれた蛙じゃないけど、いざ羽深さんを前にすると自動的にそうなっちゃうんだよ。
「もぉ……楠木君ってさ、時々
羽深さんも今最後のところですます調だったけどね。そこ指摘しちゃダメなところだよね、うん。
「はい……いや、うん……善処しま……するよ」
「約束だよ? あと楠木君」
「はい……」
「……まあそこはいいか。わたしは楠木君ってちゃんと言ってるのに、どうしてわたしの名前、呼んでくれないの?」
「えぇっ!?」
「な、何……?」
「いや、お名前……僕なんかが声に発してもいいんですか……あ、いや、いいの?」
「ふぇ?」
あれ、質問変だったのかな。なんか羽深さん変な発声したけど。
「ちょ、なんで? わたしはずっと楠木君から名前呼んでもらいたかったのにぃ……」
あ、ヤバい。これまた幻覚見てるパターンっぽい。ありえない展開きてるこれ……あー、ヤバいヤバい。
多分羽深さんのこと好きすぎて都合のいい幻想見てるんだわ、これ。末期症状だから。
そんなこと言われるはずないのに羽深さんが僕から名前を呼ばれたい? 我ながら妄想超やべぇー。
「す、すみません……体調が悪いみたいなので、ちょっと失礼します……」
「え、何々? 急にどしたの!? ちょ、楠木君!?」
体調が悪いはずの僕はトイレへと向かって一目散に廊下を駆け出した。
あれ、めっちゃ元気っぽくね? と自分でも思ったがとにかく走った。しかも羽深さんの幻に向かって体調が悪いからとかなんとか断りを入れてたしわけ分かんねー。
トイレに駆け込むとそのまま個室へ。便座に腰を下ろしてすっかり上がった息が整うまで何も考えられなかった。
あー、びっくりした。我ながらなんつう幻覚見てるんだよ。羽深さんが僕から名前呼ばれたいって。
ないわぁ。ないない。ありえない。よりによっていくらなんでも夢見すぎだわ。本当に病院行った方がいいんじゃないかって気がしてきた。
いや待てよ。ほんと最近夢と現実の境目がはっきりしない。なーんてそれこそ本来ありえないことのはず。
にもかかわらずそんな風に考えてしまうのは、現実には到底起こりそうもない出来事が、最近自分の身に次から次に起こっているからそれを受け止めきれていない、ということじゃないのか。
その証拠に……。
僕はスマホを取り出して写真を開く。
そこには、昨夜証拠品として撮影した羽深さんのビスコッティの画像が残っていた。さらに動画にも僕がそのビスコッティを食べる様子が残されている。羽深さんとの一連のやりとりは現実にあったのだ。
そろそろほかの生徒たちが登校してきたようで、外の様子が騒がしくなってきた。
僕は改めて羽深さんとのやりとりは現実と自分に言い聞かせて教室に戻ることにした。
教室に戻ると何か普段とは違う賑わいというか喧騒を感じた。違和感を感じて教室内を見渡すと、羽深さんの席を中心に取り巻きの人たちがいて何か話し合っている様子。それ自体はいつもと変わらない光景だが、中心にいるはずである羽深さんの姿が見当たらない。
さっきまではいたはずだが……。
そんなことを思いながら自分の席に着くと、メグが近づいてきた。
「なんかさ。羽深さんが急に具合が悪いとか言って帰っちゃったらしいんだけど、どうも泣いてたって言うんだよな。それでなんかあったんじゃないかって騒ぎになってるみたい」
ぎくっ。
それってもしや僕がらみか? まさかでも泣くような要素はなかったよな? 何だろう。でも僕のせいのような気がしてしょうがないんだけど……気のせいであってほしい……。
てか羽深さん帰っちゃったのかぁ。なんだかこれでもう今日学校に一日止まる意義を失ってしまったな……。
この時の僕はまだ、ちょっと呑気にそんなことを考えていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます