第9話 THE TIME
今朝の羽深さんとのことがあって、このところどんよりと僕の頭上を覆っていた雨雲のような感情は少し晴れたように思う。
しかし、学校に到着すると昨日までと何も変わるところはなく、相変わらず羽深さんとは何の接点もなかった。
羽深さんはやり直しって言ってたけど、その機会は当分の間……もしかするともう生涯訪れることはないのじゃなかろうか。
◇ ◆ ◇ ◆
実際のところ、羽深さんに接触するようなチャンスがないまま、それから何週間かが過ぎてしまった。
機会を求めて、羽深さんがいるかいないか分からない早朝の教室へと出かけて行くこともしなかった。
結局、僕は羽深さんにビスコッティのお礼を言わないまま、不義理をしている。
そんな微妙な感情を抱えたまま、週末の今日、隣町の青柳高校のバンド、THE TIMEのレコーディングのためにスタジオに来ていた。
今日明日で八曲もドラムとベースを録音するのだと言うから、かなりタイトなスケジュールだ。
プロレベルのレコーディングなら、曲ごとにチューニングを変えたりセットを変えたり、はたまたマイクセッティングを変えたりと、相当な手間をかけるのだが、そこはアマチュアの学生レベルの話だ。スタジオ代はとんでもなく高額だし、そんな贅沢なことはできない。
何度も利用しているスタジオだったので、備え付けのドラムセットがどんなものか知っていたため、自前のハイハットとハイハットスタンド、スネアとフットペダルだけを持ち込むことにした。
自前と言っても全て父が買い揃えたお下がりなのだけど、これがしかしなかなかどうして、今ではかなりの高額で中古市場でやり取りされているようなしろものばかりだ。
よくぞまあこれだけの名品を揃えたものだと親父には感心するが、今ではほぼ僕が使わせてもらっているので感謝している。
レコーディングに関しては、THE TIMEのデモ演奏のトラックがすでに入っており、僕のドラムとメグのベースは同時録音ということだ。
時短になるだけでなく、グルーブ面でもそれはいい方法だと思う。特に僕とメグの組み合わせならフィーリングはバッチリだ。
ドラムは通常複数マイクを使用しての録音、ベースは機種にもよるが大抵はDIと呼ばれる抵抗値を変換する装置を経由して、マイクを介すことなく直接ミキサーに入る。
そんなわけで同じ部屋で同時に録音してもドラムとベースの音が被ってしまうことなくトラック別に録音することができる。
メグが今日持ち込むのはFenderのPrecisionとJazzという手堅いチョイスだ。
スタジオ入りすると、THE TIMEの面々が出迎えてくれた。男女のボーカルとギターにキーボード兼マニピュレーターの四人だ。
四人とも見目麗しいんだが、何このイケメンと美女揃いのバンド。急にやる気を削がれるんだけど。
とはいえ、話してみると全員なかなかいい人たちで、外見だけでなく内面まで優れているTHE TIMEの面々に、さらなる嫉妬を覚えるダメな僕がそこにいた。
スタジオ代ももったいないし、早速セッティングに取り掛かることにした。
機材を設置したらまずはチューニングだ。ドラムの場合、マイクを通した音は生で聴いている音とまるで別物なので、マイクを通した音を想定して音を作らなきゃならない。
ここのスタジオのエンジニアの人とはもう何度もやっていて僕もメグも気心知れているので、音作りについてもツーカーなところがある。お陰でマイクセッティングもテキパキと捗り音作りが早い。
それで一度全曲通してリハーサルする。
それを自分たちも含めてみんなで聴いてみてから、もっとこうした方がいいああした方がいいという意見を出し合って調整していく感じだ。
メグのベースと一緒に演奏していると、やはりどんどんノリが出てくる。時々二人のグルーブ感が最高潮に達する瞬間があり、そういう時は大抵お互いの目が合ってニヤリと不敵な笑顔を交わしてしまう。
そんな調子で一通り演奏して録音をみんなで聴く。
THE TIMEの面々はもうこの通しリハの段階ですごく気に入ってくれたらしく、手放しで褒めてくれた。
僕とメグの間では、ここはもっとこうした方が良くないかという意見がいくつか交わされる。不思議なことにその意見は大抵一致するから面白い。
僕らが意見を交わしている間、ボーカルの女の子がまるで尊敬するかのような眼差しを向けてくるので、プロの
そこへ行くとメグの方は随分と余裕だ。こいつはスクールカーストでも割に上位に位置していて、本来なら僕とは完全に世界が違う男だからか、何だか余裕を感じる。
ただ昔から音楽面で何かと一緒にやる機会が多くて、その関係でいまだに僕には親友として接してくれる奇特なヤツなのだ。
その日のうちに半分の四曲の録音を終え、曲ごとのEQやコンプのかかり具合をエンジニアを交えて話し合ってその日は解散となった。この調子なら残りの曲も明日中には余裕で録音できそうだ。
帰り際に、携帯電話のコミュニティツールとして、学生の間では一番普及しているThreadというアプリの連絡先を交換してくれと頼まれた。
もちろん喜んで応じたが、正直なところ僕のThreadの登録フレンドは、ほぼ音楽がらみの相手ばかりだ。しかも圧倒的に女子は少ない。
なので、音楽がらみとは言え、今回のように女子と、しかもこんなにかわいい女子と繋がれるのは非常にレアなケースだ。
羽深さんのことを好きなくせに、そんなことで僕はちょっとばかり嬉しい気持ちになって、帰り道は足取りが軽く感じられた。
就寝前、そのボーカルのかわいい女の子からメッセージが来た。
『今日はどーもありがとー! ドラムめちゃかっこよかったョ♡』
彼女としては、おそらくなんてことのない挨拶程度のメッセージだったのだろうが、プロのDTを甘くみてもらっては困る。
一発でズキューーンされてしまった。
かといって僕には羽深さんという想い人がいるので彼女に惚れてしまうわけにはいかない。あぁ、こんなに簡単にズキューーンされてしまう強靭なDT力が恨めしい。
こんな茨の道を歩むくらいならプロのDTになんてなるんじゃなかった、と後悔しても手遅れだった。そもそもなりたくてなったわけじゃないし……。
『こちらこそありがとう。ボーカルもすごくよかったです』
悩み抜いた末に送り返した僕の返事は、これが精一杯だった。
『ウレシィ(๑˃̵ᴗ˂̵) 明日も楽しみですっ! よろしくネッ!! オヤスミナサイ♡』
ズキューーン。
オヤスミナサイにハートマークたまらーーーんっ!
はぁ、はぁ……。
まったく、DTの
『僕も楽しみです。おやすみなさい!』
ふぅ……なんとか返信したぜ……。
翻弄されるDTはその晩も眠れぬ夜を過ごすこととなった。
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