第25話 お帰りなさい

 エントランスを出ると、耳元を風がボロボロと吹き鳴らし、目を細めた僕は乱れた髪を手櫛てぐしいた。


 風に乗り、潮騒しおさいが聞こえた。驚いて頭をめぐらすと、街灯の光の中に幾筋もの糸が見えた。家々の屋根と庭木の葉を打つ雨の音だった。


 やがて通りの向こうに、路面の雨を弾きながら右折してくる一台のタクシーが現れた。じっと目を凝らすと、スーパーサインが青の賃走を示している。


 大通りから外れているため交通量も少ない。電車のある時間帯に実車のタクシーが通ることなどめったにないはずだから、これに乗っているに違いない。


 第一声はなんとかければよいのか考えあぐねたが、興奮気味の頭に気の利いた言葉など何ひとつ浮かばなかった。


 おかえり。


 それがいい。僕は彼女の帰る場所になる。このニ年間の彼女の苦しみと努力に、お詫びと感謝を捧げて、帳消し以上にしなくてはならない。

 永遠ではないけれど、彼女の許す限り帰る場所になる。僕はただ、戦いに挑む戦士のように頬っぺたを膨らませてふぅっと息を吐いた。 


 ヘッドライトに雨の斜線を白く浮かび上がらせ、夜の闇を切り裂くようにタクシーは近づいてきた。僕はたまらず通りに飛び出し走った。その刹那、ハザードランプが点滅を始めた。



 タクシーに乗っていてずっと考えていたことがある。第一声はなんとかけようと。


 雨が打つフロントガラスの向こうに見慣れた景色が流れてゆく。もう二度と見ることができないと思ったそれらに胸が熱くなる。


「その先を右に入ってください」

 速度を落としたタクシーは路面の水を切る音をさせながら右へ折れ、遠心力で押されたウィンドウの向こうで、民家の塀が後ろへと流れて行った。


「あの先の」私は身を乗り出して指差した。「自販機の先の建物です」

 エントランスのライトに照らされ、影になった人の姿が見えた。腰をかがめるように顔を突き出している。


 彼だ!


 わたしは思わず前のめりになる。このタクシーだと見当をつけたのか手を振っている。彼は待っていてくれた。そして、決めた。引け目など感じたら彼に申しわけがない。胸を張って、ただいま、と言おう。


 まだ遠いというのに、彼が走り出した。雨に打たれ、両手を広げ、速度を緩めたタクシーの横に覆いかぶさるように並走しながら息を弾ませている。わたしは右のシートににじり寄りサイドウィンドウに顔を寄せた。


「お帰り! おかえりなさい美玖!」

 泣き虫。つぶやきを向けた彼の顔が湖の底で揺れた。


 やがてタクシーは止まり、彼が後ろから回り込んできた。一刻を惜しんでおつりを断り、開いたドアから飛ぶように走り出た。頬を強く雨が打ちつける。

.

 ただいま。


 抱きしめられて発した言葉は、涙でくぐもって声にならなかった。


 ─FIN─


お読みいただいたみなさま、ありがとうございました。心より感謝します。

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慟哭の ZERO ONE 卯都木涼介 @r-uthugi

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