二 王の膝元で目覚める蛇
広場の方から人の歓声が聞こえた。だが通りのどこにも人は見当たらない。街中の人々が今は城へ集まっているのだろう。
まるで亡霊のような体でレティセンシアは歩いていた。思い出したようにジクジクと痛み始めた左腕を押さえ、気配を消し、日の当たる場所を避けるように裏通りを進む。道に落ちる血が足跡のように彼の背後を付きまとった。
(これから、どこに帰れば)
出血が多かったのか頭は正常に動かない。足は自然と人込みを避け、静かなスラムの方へ向く。
立ち並ぶ屋根の間から白亜の礼拝堂が見える。大きな式典の日ということもあり、いつも以上に人の気配のないそこへ、レティセンシアは歩みを進めた。
直接裏の方へ回り込む。他に人が居ないのを確認し、フラルの居る事務室へ滑り込んだ。扉を閉めたところで、力尽きるようにその場に座り込む。
「フラル」
吐息のような小さな声だったが、フラルは驚いたように大きく肩を震わせ振り向いた。
「何ですレティ! 部屋に入るなら気配を消して来ないでくださいよ!!」
「……治療を、頼めますか」
ただならぬ気配を感じたのか、フラルは早足で近寄り側にしゃがみ込む。レティセンシアが赤く染まった指を離し切り裂かれた左腕を見せると、彼は顔をしかめた。
「っこれは……。血を止めて塞ぐことくらいはできますけど、痕は残りますよ」
「構いません」
フラルが傷に手を翳す。治癒の光がレティセンシアの腕を包み、微かに照らす。膿むような痛みが消え、血が止まっていた。
「あなたがこんなケガをするなんて珍しい。初めてじゃないですか? 何か事故にでも巻き込まれましたか」
「……初めて、ですか」
その言葉に、レティセンシアの声に微かな驚きが滲む。
「そうですよ。貴方はちょっと間が抜けてますが、こんな大ケガをするなんて、初めてだと思いますよ」
どこか嬉しそうに喋るフラルを、レティセンシアはぼんやりとした目で見つめた。
(殺さなかったのも、初めてだ)
まともに動かない思考に浮んだ事実を、レティセンシアは無感動に受け止めた。
フラルが巻き終えた包帯の口を縛り、また不安げに見つめてくる。
「今日はもう教皇庁の方へ戻るのですか?」
「いえ……しばらく、休ませてください」
傷は癒えても流れた血は戻らない。貧血に揺らぐ意識を起こし、レティセンシアは自らの力で立ち上がった。心配そうにフラルが手を貸そうとしてきたが丁寧に断り、誰も居ない礼拝堂に一人、足を踏み入れる。
晴天の太陽光がステンドグラスを通り、祭壇と数列分の椅子に五色の光が降り注ぐ。遠くイヴェール城から打ち上がる祝砲の音が、小さいながらも礼拝堂まで届いている。
光に包まれる最前列の椅子にレティセンシアは腰掛けた。ぼんやりと中央に描かれた黒の御使いを仰ぎ見、静かに式典の音に耳を傾ける。
(教会には戻れないな……。どうしよう、帰る場所など)
ステンドグラスから透ける光が刺さり、レティセンシアは眩しそうに目を細めた。
(あぁでも、悔やむ気持ちはどこにもないな)
それは自嘲か、はたまた安堵なのか。
笑みを浮べ、レティセンシアはゆっくりと項垂れる。包帯の巻かれた左腕と乾いた血で染まる己の両手をゆっくりと合わせ、祈りの形に握った。
(小さな頃はこんな日が来るなど思いもしなかった。ただ師匠の側に居て、穏やかな中で暮らせるとばかり)
襲ってきた眩暈に身を任せ、目を閉じる。
昔、教会の前に捨てられた己を拾い育ててくれた、師と仰ぐ男の姿が脳裏に浮ぶ。
飄々として掴めぬ人であった。レティセンシアと同じ黒の御使いであり、彼は自分の持つ全てを、文字通りレティセンシアに叩きこんでくれた。親子とは言いがたく血の繋がりもない不思議な関係ではあったが、彼と共に過ごす日々は、レティセンシアにとって安寧そのものだった。
その師が死ぬ日までは。
浮かび上がる多くの思い出に、目の奥と喉が痛んだ。
(黒の御使いは、死神などではない。私が勝手にそのように歩んでしまっただけだ)
堪えもしない涙はレティセンシアの黒い睫毛を濡らし、音も無く白い頬を濡らす。止まることなく青白い顎を伝って、祈りの手に落ちた。
(なんて、馬鹿な)
薄く開いた瞳は涙で濡れ、ステンドグラスの輪郭すらおぼろげに見えた。五色の入り混じった光を感じるだけで、滲んだ視界には何も映らない。
小さな頃からレティセンシアはこの場所が好きだった。ステンドグラスから降り注ぐ光に包まれる静かな礼拝堂を天国だと比喩し、師を苦笑させたこともある。
記憶の中の幼い自分は大人しく言葉の少ない子であったが、今の自分にはひどく眩しい。
幻影から目を逸らすようにレティセンシアは再び目を閉じた。
頬を伝う涙は止まっていない。それを拭いもせず、襲ってきた闇に身を委ね、意識を手放した。
* * *
ぼんやりと闇の中に浮ぶレティセンシアの姿は、まだ幼さを残していた。
師を真似て伸ばし始めた髪は、結ぶほどではないにせよ肩にかかるほど。薄い象牙と同じ色の肌と、赤みの強い茶黒の目。生まれつき華奢ではあったが、特訓と称した師の教えにより僅かながらも筋肉のついた成長期の体。
見間違うことのない数年前の自分を、まるで他人事のように遠くから眺める。ずいぶんとリアルで、既視感の感じる夢である。
季節も覚えていない数年前のあの日、当時の枢機卿の一人に連れられ向かった教皇庁の奥。
呼び出しの理由も知らされず、素直に着いて行く当時の自分を呼び止めようとした。
声は出なかった、出たところで幼い自分に聞こえないのも解っている。
一転し、深淵のような闇の中。
抗うレティセンシアを乱暴に従わせ、冷たい刃が背中の御印を暴く。
闇の奥に蠢く何かが悦に入ったように笑った。
闇を切り裂き光と共に現れたのは、鬼気迫る形相の黒い法衣を纏う男。その男の登場にレティセンシアが喜びと謝意の混じる声で呼び、側へ駆け寄った。
師の後頭部に纏め上げた黒髪が揺れ、レティセンシアを抱きとめるため腕を伸ばす。
その腕と背を貫く矢。
レティセンシアの腕の中で師が血を吐く。二人の白い法衣が見る間に赤く染まり、レティセンシアを守るように抱きかかえてくる師の顔が、あっという間に血の気を失う。
(これは、夢か)
レティセンシアの耳を酷い雑音が襲った。
力を失った師の手から二丁の拳銃が落ちる。
その音すらも、耳元で鳴る雑音はかき消してしまう。
「――!」
己の叫ぶ声と、別の何かが重なる。
騒音から逃れるようにレティセンシアは目を閉じた。少しずつ、雑音は小さくなる。
(もう、何も)
蓋をする。考えないように、感じないように。
その度に雑音は薄れ、不明慮だった何かが鮮明になっていく。
「――!」
自分ではない、別の誰かが自分を呼ぶ声。
声の方に目をやる。神々しい光に目が眩んだ。
何かの影が救いのように手を差し伸べてくる。逆光によって顔はわからない。
その影が、レティセンシアを呼んでいた。
(……地獄で良い)
縋るように手を伸ばす。
(天国なんて我が儘は言わない。もういっそ、ここから連れて行ってくれれば)
伸ばした手を、影は力強く握った。
「――レティ!!」
大声にびくりと身を震わせ目を開ける。少し時間をかけ、目は焦点を合わせた。
焦りと歯痒さに顔を歪めたアーノルドの顔がそこにあった。レティセンシアの肩に両手を置き、中腰の姿勢で顔を覗き込んでいる。服は城下に降りる時のそれであったが、眼帯はしておらず、後頭部で結ばれた髪もいつもより乱雑だ。
しばし状況が把握できず無言になる。堪えるように言葉を待つアーノルドに、囁くほど小さな声でレティセンシアは問う。
「……殿下、何を」
アーノルドが大きな吐息を漏らした。レティセンシアの膝に崩れるように一度顔を伏せ、今度は眉間に皺を寄せた顔を上げた。
「何じゃねぇよあーもー心臓に悪い! 人のこと庇って大ケガしてそのままどっか居なくなるとかホント止めろよ、肝が冷えたわ!!ケガは!? 腕動いてるよな!!」
「先ほど白の御使いの治療を受けましたので」
「あーよかったー! 式典中平常心貫くのホントしんどかったんだぞ!!」
「すみません……」
ひとしきり人の膝元で騒ぎ満足したのか、アーノルドはまた大きな吐息を吐く。まだ小さく不満の体を口にしながら断り無く、レティセンシアの隣に座った。
ステンドグラスから差し込む光の色が白から緋へ変わっている。意識を手放して随分と時間が経ってしまったようだ。
静かな礼拝堂の中は相変わらず誰も居ない。
長い休息のおかげか貧血の眩暈は無くなっていた。腕の痛みもだいぶ和らいでいる。
「あの……殿下、戴冠式は」
隣へ伺うように尋ねれば、アーノルドは再びしかめっ面でレティセンシアを睨む。
「んなもんとっくに終わったわ! あの後大変だったんだぞ、場の収拾つけなきゃいかんし、民には何事もなかった顔で挨拶しなきゃいけないし、お前どっか居なくなるし!!」
「最後の、式に関係は」
「うっせ、黙って聞け!!」
「はい」
いつも以上に喚くアーノルドに気圧されし、レティセンシアは素直に頷く。
一度落ち着けるように呼吸をすると、アーノルドは表情を変え、今度は真剣な顔つきで言う。
「今回の首謀者だろうトライシオンは捕らえてシェルタたちに任せてきた。安心しろ、お前は、何の罪にも問われない」
その言葉を聴き、レティセンシアは思わず泣き出しそうに顔を歪めた。真っ直ぐに見つめてくるアーノルドの視線から逃れるよう項垂れると、長い前髪が顔を隠してくれた。
「私は、貴方を殺すために近寄ったんですよ」
「知ってる」
「……近頃噂されている暗殺者だということも?」
「まぁ、そうだろうと思ってた。途中から嘘じゃねぇかって思ったけど」
事も無げに言うアーノルドに、レティセンシアは救われたようにほんの少し笑った。
「どういう意味です」
「好きに捉えろ」
「……私を捕まえて、処刑、なさらないのですか」
アーノルドはしばしの間沈黙し、ほんの少し怒気を含めた声を出す。
「死にたいのか?」
はっきりと問われても、レティセンシアには答えることができなかった。
暗殺に失敗しただけでなく、好機を自ら潰し、殺すべき相手を庇ってしまった。帰るところすら失い、生きる理由もない。しかし自ら命を絶つほどの衝動もなかった。
礼拝堂は再び静寂に包まれた。外の喧騒も何も聞こえず、ステンドグラスから差込む光が弱くなっていく。
何も答えないレティセンシアに、アーノルドがまるで追い討ちをかけるかのように問いかける。
「なぜ、あの時俺を守った」
聞かれ、レティセンシアは一寸言葉を探し、やはり沈黙を貫いた。無意識の行動に明確な理由を示すことができない。手は確かに、彼を殺すため武器に伸びていた。
アーノルドが斬られるその瞬間に重なった三つの声。
そのひとつが自分の声だと気づいたのは、彼を庇い、男を殴り倒した後。血塗れた己の左腕を見たその時だ。
(本当は殺しなど、したくなかった)
レティセンシアは祈りの形に組んでいた手を解いて見つめた。乾燥して黒く沈んだ血が剥がれ落ちている。この手が自分自身の血で濡れたのも初めてだと、彼はふと思いついた。
アーノルドはしばし黙っていたが、返らぬ言葉に待ちきれなかったのか、先ほどよりも少しばかり大きな声ではっきりと言った。
「レティ、俺の元に来ないか」
突然の誘いにレティセンシアは俯いたまま目を見開く。驚愕に一瞬息を呑み、言葉を探した。
「……貴方を守れ、ということですか」
レティセンシアはまた、両手を組んだ。
「人殺しである、私に」
自嘲と共に嘲笑も含めたつもりだ。いくら変わり者とはいえ何を考えているのか諭すつもりもあってのことだったが、アーノルドは意に介する様子もない。
「俺が誘ってんのはレティだ、人殺しなんかに用はねぇよ」
「同じことです、判って言ってらっしゃるんでしょう?」
アーノルドがあからさまな吐息を吐く。
「わかった、じゃあこう言い換えよう」
そして彼は立ち上がり、レティセンシアの目の前に立った。
ステンドグラスからの光がアーノルドによって遮られ、レティセンシアの手元に影が落ちる。
「命令だ、教会を抜け俺の元に就け」
威厳に満ちたアーノルドの声が礼拝堂に響く。
俯いたままで顔は見えなかったが、戴冠式の時と同じく「アーノルド殿下」としての――いや、今や「バルデュワン公国国王」となった彼の顔が容易に想像できた。
命令と言われ、一瞬受け入れるかどうか迷う。
しかしそれよりも早く、アーノルドがその場に跪いて顔を覗き込んできた。
「――っていうのが建前で半分」
レティセンシアが僅かに顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべたアーノルドの顔がそこにあった。
「もう半分は、ただのアーノルド個人としての、お願い」
レティセンシアは驚きに目を見開き、そして躊躇うように俯いた。視線が自然と戴冠式で受けた傷にいく。
(……お願いなど、久々に聞いた)
アーノルドが返事を待っているのが判る。
(あれだけ殺してきた私が、守るなど)
迷いにレティセンシアの視線が泳ぐ。視界の端でアーノルドの姿を見止め、それからまた、包帯の巻かれた左腕に戻った。
(でも、そのような道があるのなら)
レティセンシアは一度目を閉じ、小さく呼吸をする。
決意を固め、ゆっくりと目を開いた。
「……わかりました」
「レティ」
「貴方に、着いて行きます」
言いながら顔を上げると、アーノルドが喜びに満ちた笑みを浮べ、立ち上がった。一歩後ろへ下がり、刀を引き抜く。
銀の刀身がステンドグラスからの光を受け、線を描くように輝く。
「その言葉を待っていたぞ、俺の前に跪け」
レティセンシアは顔を上げた。
ステンドグラスからの逆光でアーノルドの表情は完全には見えない。しかしその声から、不敵な笑みを浮かべているのだろうと思った。
(この場面をどこかで)
浮んだ既視感に答えを出せぬまま、レティセンシアはアーノルドの前に跪く。
深く頭を垂れたため、長い前髪がアーノルドの足を視界から半分隠した。
肩に剥き出しの刃の腹が触れる。
粛然たる雰囲気に呑まれたのだろうか。レティセンシアは自分が高揚していることに気がつき、小さく息を震わせた。
「レティセンシア」
凛然としたアーノルドの声が礼拝堂に響く。
「お前の仕える主の名を述べよ」
悟られぬように一度だけ深呼吸をする。
「……アーノルド=コリン=エルフィンストンです」
礼拝堂に響き渡る誓いの声は、随分と大きかった。
刀が動き、耳元で小さな金属の音が聞こえる。
アーノルドはレティセンシアの肩から刀を持ち上げたが、もう一度肩へは下ろさず、そのまま勢いよく振るった。
刃はレティセンシアの襟足に触れるかという高さで横切り、風を鳴らす。
首元に感じた冷たさにレティセンシアは一瞬息を飲んだ。その後生じた違和感に、思わず片手を首の後ろへ伸ばす。
驚きに首を上げたせいか、ひとつに結んでいたはずの髪がパラパラと床へ舞う。纏めるために使っていたはずの紐と共に鋭利な刃物で切られた髪の束が、レティセンシアの目の前に落ちてきた。
「死神の首は俺が斬り捨てた」
未だ違和感のある襟足に手を当てながら立ち上がり、レティセンシアは驚きを隠さぬまま顔を上げる。
アーノルドが刀を仕舞いながら羽織を翻す。振り向く彼は陛下の顔とはまた違う大胆不敵な笑みを浮かべている。
「期待しているぞ、レティセンシア」
アーノルドの前に立ち、レティセンシアは涼しさを感じる襟足から手を離す。一度だけ僅かに俯き、己の左腕を見つめた。
白い包帯の巻かれた左腕。
一生残るだろうと言われた傷。
しかし、今はその傷を誇らしく感じていた。
左手を胸の前に置くと、顔は自然と笑みを浮かべる。
伝える一言はもう決まっている。
そうしてレティセンシアは自らアーノルドの目を見つめ、声高らかに言った。
「この傷に誓って」
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