第三章 戴冠の日

一 眠れる獅子を起こして

 バルデュワン公国にいつもと違う朝がやってきた。

 ここ数日崩れた天気はさえ渡り、見事な秋晴れの空を見せる。

 バルデュワン公国の城下には新たな王の雄姿を一目見るため、国内領地より多くの人が集まっていた。特に城前の広場からイヴェール城の内城門前は、午後一番で行われる国民への披露目を目的とした王の挨拶目当てに、老若男女問わず人が溢れ、ごった返している。未婚の王に我が娘をと目論む輩と、ただの野次馬も中には居るだろう。しかし、近衛騎士隊と自警団が警護にあたっているため大きな混乱はなく、人々はその時を今か今かと待ち焦がれる。

 そのイヴェール城内の奥三階。レティセンシアはアーノルドの部屋の前に立つ。式典の準備が整った事を告げるよう、言伝を頼まれていた。

 レティセンシアは城内で行われる戴冠の儀に出ることはできない。仮にも儀典室の司祭たちの小間使いとして城へ来たのだから当然と言えばそうだった。

 晴れやかな式典に喪を彷彿とさせる全身黒の衣服は相応しくない。この日ばかりは日々着ていた黒い祭服ではなく、常日頃教会内で着ていた白い祭服を選び取った。正式な礼服ではなかったが、元々これ以外の衣服を持っていない。暗殺の際に着る祭服よりは幾分マシだろう。その上から黒の法衣を被り、鍔のない黒い帽子を被っていた。

 二度、ドアをノックする。


「レティセンシアか、どうした」


 アーノルドの部屋から先に出てきたのは宰相のレオンハルトだった。いつものアースカラーの地味目な貴族服ではなく、深緑を基調にした見目の良い礼服姿だ。

 言伝を伝えるよりも先に、室内に居るアーノルドの声が聞こえてきた。


「レオン、誰か来てるのか?」


「レティセンシアです」


 室内に顔を向け、レオンハルトが答える。


「式典の準備が整ったと言伝を頼まれました、教皇様も既にお見えになっております」


「まだ時間はあるか」


 アーノルドの問いが聞こえる。


「始まりは半刻後と伺っております」


 レティセンシアが答えた。


「レオン、すぐ終わる。レティと二人で話がしたい」


 レオンハルトが懐から懐中時計を取り出し時刻を見る。そして「三分で済ませてください」と一言だけ告げ、レティセンシアと入れ替わる形で部屋を出た。


「よう暗殺者、ついに戴冠式だぜ」


 部屋の中央、椅子に座ったままのアーノルドが不敵に笑った。

 式典のための礼服は思ったよりも質素だ。黒に近い濃紺の裾の長いワンピース状の礼服には、襟と袖の部分に銀糸で簡略されたつる草の刺繍が施されている。腰帯と左肩からかけた飾り帯は艶やかな明るい金糸で彩られ、羽織っている緋色のマントには帯と同じ金糸を使っているのだろう、縁を刺繍が飾っていた。長い鉄紺の髪は結うことなくそのまま背中に流している。そのせいか普段垣間見える幼さが今日はない。見たこともない流形の飾りが施された儀式用のレイピアを、まるで杖のように両手で構えていた。

 そこに座るのは確かに、この国を統べる王となる者。


「……孫にも衣装とはこのことを言うのでしょうね」


「皮肉への返答がそれかよ!」


「とんでもない。とても、お似合いです」


 冗談のつもりで話し始めたが、つい出てしまった本音に二人して照れたような気まずい顔をした。

 ちょっとの間、沈黙が流れる。


「そういえば、話というのは」


 誤魔化すように慌ててレティセンシアが尋ねる。

 アーノルドは眉尻を下げて笑った。ころころと変わる表情は今日も健在のようだ。


「これと言ってはないんだけど……ちょっと、お前と話がしたくて」


「どういうことですか」


「察しろよ! 俺だって緊張する時はするんだよ!」


 口ぶりは相変わらずで、その事実は信じがたい。

 しかし、アーノルドの笑みが僅かに強張っている事に気づき、レティセンシアは無意識のうちに微笑を浮かべる。それはアーノルドが気づけないほど、とてもささやかなものだった。


「大丈夫ですよ。貴方がそう、派手な失敗をするとは思えません」


 素直に思ったまでを口にすると、アーノルドが苦々しい顔をしてそっぽを向く。


「いくら関係者の前でもしたら大恥だぞ、仮にも国王になるってのに」


「思っていたんですが、殿下の国王としての基準は高くありませんか」


 アーノルドが不思議そうな顔をしてレティセンシアの方を向く。


「もう少し……肩の力を抜いても良いと思いますが」


「そうかな」


「そうですよ」


 指摘されたことなどないのだろう、アーノルドは釈然としない様子で軽く頭をかいた。しばし何か思い返していたようだが結局答えは出なかったのだろう、それ以上追求してこようとはしなかった。

 仕切りなおすように小さく咳払いをし、アーノルドが再びレティセンシアのほうを見る。


「そうだ、レティさ――」


「殿下、残念ですがお時間です」


 室内にノックの音とレオンハルトの声が聞こえてきた。

 見計らっていたかのようなタイミングにアーノルドが舌打ちをしていた。彼の言いかけた言葉は、全く聞き取ることができなかった。


「わかった、すぐ行く」


 一言返し、アーノルドが立ち上がる。裾を引きずるほど長いマントを翻す彼の顔は、すでに王のそれ。

 レティセンシアは言葉無く、そのまま見送る体で佇んだ。


「レティ」


 振り返らぬまま、アーノルドが言う。


「戴冠式にはお前も出席しろ、話は通してある」


「ですが」


 レティセンシアの反論を、アーノルドは顔も向けずに遮った。


「俺を殺す最後のチャンスを自ら逃したいなら構わん。好きにすればいい」


 言い捨て、彼は部屋を出て行く。扉を押さえていたレオンハルトがレティセンシアへ一瞥をくれ、扉を閉めた。

 室内に残るレティセンシアの方に、アーノルドは一度も目を向けなかった。


 * * *


 厳粛な空気に包まれる中、イヴェール城内の一階中央にある謁見の間で戴冠式は始まった。

 入り口から真っ直ぐに伸びる赤い起毛の絨毯の上を、ゆっくりとした足取りで一人、アーノルドが歩く。その正面、数段ほど競りあがった段上の金の玉座の前には、トロネ教会の教皇たる老年の男――カランバノが両脇に二人の司祭を携え佇んでいる。

 濃い紫の足元まで届く法衣には銀糸で十字が刺繍され、頭に被る金の帽子が位の高さを示している。顔に刻まれた深い皺と厳格な顔つきも相まって、その場の空気がさらに緊張に研ぎ澄まされた。

 アーノルドが歩みを進める絨毯の左右には、宰相ら城の有力者たちと教会の枢機卿たちが立ち並び、彼らもまた、緊張の面持ちで佇んでいた。老師たるフラメルの姿は見えなかったが、代わるようにトライシオンの姿がある。

 レティセンシアは、教会側の下座からその様子を見ていた。

 アーノルドからの言伝は確かに伝わっており、彼が式場に姿を見せても誰も何も言わなかった。幾人かの貴族が衣服のせいかほんの少し、嫌忌の目を向けたくらいだ。

 レティセンシアたちの前をアーノルドが通り、玉座の前へ上がっていく。

 それと同時に後方に控えていた司祭からカランバノが冠を受け取った。天使の羽に包まれたオーブを天頂に頂く金の冠を手に、一度それを高々と捧げるように持ち上げる。


「風の谷を守りし者、アーノルド=コリン=エルフィンストン。これより汝をバルデュワンの王に叙す」


「古くよりバルデュワンを守る座天使への尊崇と共に。アーノルド=コリン=エルフィンストン、ここにその栄誉、謹んで拝命す」


 レイピアを胸の前で構えアーノルドが跪き、返答の口上を述べる。

 レティセンシアたちの位置から見えるアーノルドは、完全にこちらに背を向けている。朗々と響く彼の声からは、何の感情もくみ取れない。

 アーノルドがどんな心境でその場に立つのか、参列者は銘銘想像を働かせているのだろう。

 冠がアーノルドの頭上へ捧げられようと下ろされる。

 神々しく厳かな場面に、人々が食い入るよう見つめる中一人、レティセンシアは顔を伏せた。その目の端で星の瞬きのような僅かな光を捉える。そちらの方へ首を動かし、一寸動揺に目を見開いた。

 大きな柱の影から腕が伸び、小型の弓を引き絞っていた。狙いの矛先は部屋の奥段上、アーノルドとカランバノの居る玉座の方だ。

 向かい側に立っていたシェルタがレティセンシアの様子に気づき後方を見る。弓矢が放たれるのと彼女が叫んだのは、ほぼ同時だった。


「殿下、教皇伏せてください!」


 アーノルドが見えない何かに引っ張られるように素早く立ち上がる。振り向きざまに構えたレイピアが矢を弾き、精魂尽き果てたかのように半ばから折れた。儀式用の物だったのだ、それができただけでも奇跡と言えた。


「レオン、俺の武器を持て! 誰一人殺すな、生かして捕らえよ!!」


 マントの止め具を引きちぎるように取り払いながらアーノルドが叫ぶ。

 身を潜めていた幾人かの男たちが入り口と柱から姿を現し、一直線にアーノルド目掛け走り出す。全員が国の兵とは違う傭兵の出で立ちをしていた。

 柱の影に隠れていた者は既にシェルタと剣を交えている。

 アーノルドがレオンから己の獲物である刀を受け取り、一度カランバノの方を向く。何か言葉を交わしたのか教皇が玉座の裏へ身を潜めたのと同時に、彼は襲い掛かってきた熊のような男の剣を咄嗟に受け止めた。

 もう一人、アーノルドへ襲い掛かった細身の剣士をレオンハルトが遮り、両手持ちの剣で応戦する。

 他の参列者たちはその場から散り散りに逃げて惑った。狙いはやはりアーノルドなのか、侵入者は誰一人として、逃げ惑う貴族や司祭たちを追おうとはしない。

 混迷する場を、レティセンシアは一歩も動くことなく見つめた。一人状況から取り残され、呆然とする。見たことのない侵入者たちが味方なのかも判別できず、状況を把握しようと周囲を見ても、思考は混乱していく。


「貴様、何をしている!」


 いつからそこに居たのか、側に身を隠すトライシオンが居た。焦燥の感に駆られた瞳でもってレティセンシアを睨む。


「この混乱に乗じてアーノルドを殺すんだ」


 急き立てるように騒ぐ彼を見返したが、混乱したレティセンシアの頭にその言葉は入ってこない。


「今ならまだ間に合う、殺れ! 命令だ!!」


 一際大きく響いた言葉にレティセンシアは小さく身震いした。


(そうだ、私は、王子を殺しにきたはずだ)


 耳を劈く剣の交わる音に、心臓の鼓動が重なる。


(戴冠式までに殺せと、命令された。まだ、間に合う)


 心臓の音が耳元に移動してきた。それは城内の音を掻き消すほど早く、大きくなる。

 武器を取ろうとした。祭服の下には常と同じように銃を隠している。だが気持ちに反し、手は動かない。


(考えることはない、撃てばいいだけだ。一度だけ、殿下に向けて)


 緊張が足元から冷気のように這い上がってくる。

 目の前では煩いほど人々が叫んでいるはずなのに、レティセンシアの耳には何も入ってこない。


(黒の御使いとしての仕事だ。私はいつもそうしてきた、命令にただ従ってきただろう?)


 小刻みに震える手が銃に伸びる。だが、震えが酷く上手く掴むことができない。


(私は)


 レティセンシアの前を見慣れた鉄紺の髪が通る。力に押されているのか苦戦を強いられているアーノルドの苦々しい横顔が、ほんの少し遠くに見えた。周りにレオンハルトたちの姿は無く、応戦しながらもほとんど追い詰められているようにしか見えない。

 アーノルドと剣を交える熊のような男が彼の刀を振り払った。

 折れはしなかったものの吹き飛ばされた刀は遠く、アーノルドの手の届かぬところに行ってしまう。

 男が勝利を確信したように汚い笑みを浮べ、十の子どもほどの大剣を振り被った。

 アーノルドを守るものは、何もない。


「殿下!」


「今だ! 殺れ!!」


(イヤだ!)


 男が剣を振り下ろす。

 騎士隊長の悲痛な叫びと、トライシオンの狂気じみた声。それから小さな聞きなれた声が耳元で重なる。

 レティセンシアの目に映る世界が止まった。

 再び動き出した視界に飛び込んできたのは遠くに居たはずのアーノルドだ。その彼が今まで見たことがないほど驚愕を露にし、レティセンシアを見ている。

 左腕に何かが当たる感触があった。反射的に右手で短剣を引き抜き、上半身ごと勢いよく腕を振りきる。

 剣の柄は背後に立つ男のこめかみを強打した。

 そのまま男が吹っ飛ばされるように横へ倒れる。薄く砂埃を上げ、そのまま動かなくなった。

 部屋の中心で起こった一瞬の出来事。

 時が止まったかのように、その場に居た全員が無言で息を呑んだ。


「っ貴様ぁ裏切ったかぁあああ!!」


「トライシオンを捕らえよ、そいつが首謀者だ!!」


 静寂を切り裂く金切り声に反応し、気を持ち直したアーノルドが叫ぶ。

 狂騒が、再び場に戻ってきた。

 倒れる男の側でレティセンシアは自分のしたことを理解できず、茫然自失の体で立ち尽くしていた。

 左腕は法衣から祭服、その下の皮膚まで切り裂かれ、滴り落ちた血が緋色の絨毯をどす黒く染めている。

 レティセンシアは一度、切られた腕に目をやった。


(あぁそうか)


 動転した脳内に、妙に冷静な心が呟く。


(殺したくなど、なかったんだ)


「レティ!」


 アーノルドの叫ぶ呼び声にも振り向かず、レティセンシアはその場から逃げるように走り出した。

 行く宛などない。ただここにも居られないと、呼び止める司祭たちの声も振り切り、彼は走り続けた。

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