六 狼を聴罪司祭にする馬鹿な羊
この五日よりも早く目覚めたレティセンシアは、その日ばかりは城の裏手には行かず、意を決し、三階に上がった。事情を知らぬ女中たちに見つかるのはまずかったが、元より隠密に慣れていたため誰一人とすれ違うことなく、目的の部屋まで辿り着いた。
他所よりも大きく、大人が二人並び両手を広げられるほどの観音開きの扉。その前で上げた手を一度迷うように止め、そして小さくノックする。
「殿下、レティセンシアです」
中からアーノルドの返答が聞こえる。
ドアを開けるとレティセンシアの想像通り、彼は何事も無かったかのように普段着の白い服へと着替えている最中だった。小姓なのか白金のような髪の童顔の少年が一人、側で彼の着替えを手伝い傅いてる。
「どうしたレティセンシア、今日は随分と早いな」
何の事情も知らなければ高熱で倒れていたなどと思えぬ快活さで、アーノルドが口元に笑みを浮かべた。着替えを終え椅子に座ると、解いたままだった髪を小姓に纏めさせ始める。
小姓がいる間、昨日の事は隠しておかねばならないのだろうと、レティセンシアは言葉を捜すように視線を泳がせた。
「明日は大事ですから、いつも以上に警戒しておいたほうが良いかと思いまして」
「そうか」
「今日は鍛錬の方は」
「片付けたい書類がいくつかあるんでな、この後はすぐ執務室に」
「わかりました」
アーノルドの長い髪を覚束ない手つきで太い三つ編みに纏め上げ、小姓が小さく「終わりました」と告げる。
礼を述べアーノルドが部屋から小姓を下げた。ようやく二人きりになると彼は苦笑を浮かべ、普段と変わらぬ様子で話し始める。
「そんな警戒しなくても、さすがに俺だって今日は無茶しねぇよ」
「どうやら前科があるようでしたので」
指摘をすればアーノルドは驚いたように軽く目を見開いた。
「信用ねぇなぁ」
「仮にも暗殺者に向かって言う台詞では」
「そういえばそうだったな」
言葉の応酬にアーノルドは楽しそうに笑った。
顔色も平常のそれをしており、呼吸も乱れてはいない。それでも常に彼から発露される凛とした雰囲気は、どこか陰っているように感じる。
執務室への道すがら、背後から彼の顔を伺い続ける。執務室に入ったところで、レティセンシアは奥底から顔を覗かせていた疑問を思わず声に出した。
「――なぜそこまでして、国のためになさるのですか」
執務机に着いたアーノルドがレティセンシアを見つめてくる。彼はしばし言葉の続きを待っていたようだが、それきり口を閉ざしたレティセンシアに向かって柔らかな笑みを浮かべた。目はすぐに書類へ落ちたが、意識はレティセンシアへ向けているのが判る。
「国のためっていうか、国民のためだよ」
「それは、公爵家当主としての義務ですか」
「いや、違うかな」
ハヤブサの形をしたペン置きから緋色の羽ペンを手に取り、アーノルドは続ける。
「元々バルデュワンはお爺様が独立させた事になってるけど、古くからこの地に住んでいた民の力を借りなければ成し得なかったんだ。本当は民主主義国家として独立させるつもりだったみたいなんだが、当時は国内の治安が良くなくて、まずそれを収めるために、独立戦争の主導者だったエルフィンストン家が統治し始めただけ。お爺様は早々に父上に王の座を譲って、父上は国内の安定に尽力を注いできた。俺は純粋に、父上とお爺様の意思を継ぎたいと思ってる。その上でこの国に住む民全員が飢えも、争いもせず暮らせるようにしたいんだ。国なんて小さくていい、民が平穏に暮らせればそれで」
「そのためには多少の無茶をすると」
「だから悪かったって!」
レティセンシアに痛い点を突かれてか、アーノルドが顔を上げ苦笑した。
「民の生活とかに影響するって思うとさ、俺がちょっと頑張れば良いって思っちゃうんだよ」
宥めるようにレティセンシアに笑いかけると、彼は再び書類に視線を落とす。
「この立場に居る以上、俺は民が汗水流して稼いだ金で生活してるんだ。その分は……いや、それ以上で応えなきゃいけないだろ。お爺様も父上もそうだったけど、レオンとか先生――あ、フラメル老師な、シェルタもそう。特に先生なんかは独立当時から国のために尽力してくれて、今も近くに居る。だからさ、俺だけ若いからって甘えちゃいけないって思うんだ。見習うべき大人が側に居るのは勉強になるよ」
喋りながらアーノルドがふと手を止め、レティセンシアを見た。
「お前はどうしたいんだ?」
「何がです」
「いや、俺を殺して、その先お前どうしたいのかなって。なんとなく興味湧いた」
問い掛けにレティセンシアは何も答えられず、思わず顔を伏せる。昨日アーノルドの傷に触れた右手を眺め、沈黙を貫いた。
定位置の如く座っていたソファーの側、暖炉の中で燃える木が小さく爆ぜる。
「どうしたいなんてないか、命令されてきたんだもんな」
不満げな声ではあったが、アーノルドは諦めたように呟く。そうして執務に集中し始めたのか、その後は一言も発しなくなった。
しばらくしてレティセンシアは長い前髪の隙間からアーノルドの方を窺った。真剣な顔で書類に向かう彼はその視線に気づかず、レティセンシアがそこに居ることなど忘れてしまったかように黙々と手を動かしている。
着替えの前に食事を済ませたのか聞き損ねてしまったことに気づき、再び目を伏せた。彼のことだ、また何も食べてないかもしれない。
それを咎めていいものか、レティセンシアは迷い、押し黙った。
(この人はこの国を……バルデュワン全ての民を守っている。そのために己を省みていない)
その守られている中に自分も入っているのか。
レティセンシアは考え、答えは出さなかった。
脳裏でアーノルドの周りに立つ大人たちの顔を思い浮かべる。皆をアーノルドの側に立たせてみたが、薄煙のように消え失せてしまった。レティセンシアの頭の中に立つ彼の隣には、誰も居ない。
(ではこの人の事は、誰が守っているのだ)
アーノルドのペンの音に耳を傾けながら、レティセンシアはしばしの間己の思考を漂った。ちょっとした片鱗でもいい、正解を導き出すための何かが欲しい。
無常を告げるかのように、室内の振り子時計が時を知らせた。
* * *
その日、円卓の全ては埋まっていなかった。
室内にひとつだけ灯された燭台の灯が揺れる。卓に座る者たちの影が壁に向かって伸び、途中食われるように闇に溶け込んでいった。
淡々とした声で一人の司祭が告げた。
「黒はまだ戻っておりません。このまま戴冠式を迎えるにしても、何か策を講じるべきではないでしょうか」
「よもや絆されたわけではあるまいな」
誰かの呆れたため息が聞こえる。
「あの死神に限ってそれはありえんだろう。それよりも、トライシオンが別に傭兵を雇ったという話を聞いたが」
「彼個人の判断によるものです。事を急いてでしょうが上手くいけば黒が手を下す必要も無いかと。ここまで来た以上、下手にこちらが動くのは危険かと思われます」
「黒に連絡を取る手段はないのか」
「残念ながら」
方々から飛び交うやり取りを聞き、部屋の上座に座る男が片手を上げた。ゆったりとした動作であったがその所作ひとつで、室内が静まりかえる。
「そのまま泳がせておけば良い。雇われた傭兵に接触し、黒には手を出さぬよう伝えろ。金のひとつでも握らせておけ、所詮は亡者だ」
一時区切り、怒りを逃がすように長い息を吐いて、男は言葉を続ける。
「レティセンシアにもしもの事があってみろ、黒は奴だけだ。たとえ失敗したところでトライシオンを切れば良いだけのこと……なんとしても黒は連れ戻せ」
「御意に」
厳とした男の言葉に他の者達が頷く。
ちょうどその時、トロネ教会の鐘が鳴った。森厳たる鐘は一度だけ高らかに響き、辺りは再び静寂に包まれる。
城下に住まう民は皆眠りに就き、新たな歴史の朝を待つ。
そうして運命の日が開けていく。
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