四 迷える鴉は神も救わぬ

 翌朝。

 天気は続かず、早朝の空は薄い雲に覆われていた。いつもは乾いている風が僅かに湿り気を帯びており、遠からず雨が降るかもしれない。その証拠に、今日は鳥がいつもより低く飛んでいる。

 レティセンシアは城壁に凭れ掛かり、アーノルドが来るのを待っていた。いつもの時刻はとっくに過ぎている。あのどこか生真面目な彼が日頃の鍛錬を怠るなどと思えない。しばらく様子を見ていたが、近衛隊と思しき若い騎士たちが近くで体を動かし始めたのをきっかけに、レティセンシアは城の中へ戻った。

 彼の身に何かあったのでは。

 一寸そう考えたが、すぐに取り消した。だとしたら城内はもっと騒がしくなっているはずだが、女中たちはいつもどおり朝の仕事を始めている。何か変化があったわけではない。


「申し訳ない。あの、アーノルド殿下の居場所をご存知ありませんか」


 玄関前の中庭を手入れしていた庭師に声をかけた。

 年齢は三十ほどだろう、短く刈り上げた薄い金髪が帽子からはみ出している。随分と背が高く、腰を曲げて剪定をしているが、レティセンシアの胸の高さに頭がある。暗緑色の瞳をレティセンシアに一度向け、素っ気の無い仕草で再び手元に視線を戻した。


「殿下なら今朝は随分早くから鍛錬をして、もう戻ったぞ」


「どちらに行かれたかはご存知ありませんか」


「城の中に戻ったのは確かだが、それ以上は知らん」


 レティセンシアは庭師に丁寧に礼を述べ、城の中へ戻った。

 既に鍛錬を終えているならばもう執務室へ向かったかもしれない。そう考え足早に二階への階段を上り、執務室の前で待つ。

 扉は完全に閉めきられているため、中の様子は伺えない。そこにアーノルドが居るかも定かではなかったが、他に当てもなかった。

 しばらく待っていると扉が開いた。

 出てきたのはアーノルドではなく年若い女中だ、アーノルドと同じかもう二つほど下だろう。赤茶の髪を二つのおさげにした彼女はレティセンシアを見ると、僅かに驚き声をかけてきた。手に清掃道具を持っているところ、今まで部屋の中にずっと居たようだ。


「殿下なら、この部屋にはいらっしゃいませんよ」


「……なんですって」


「今日はお忙しいのか、そういえばお姿を見かけませんね」


「何かお聞きしてませんか」


「執務室の清掃をいつもより早くしてくれと……午後には戻るからそれまでにと言われました。どこかお出かけになられたかもしれません。レオンハルト様ならご存知だと思いますが」


「レオンハルト様は今どちらに」


「この時間ならレオン様の執務室か、一階の省庁のどちらかだと思います」


 面倒なことになった、と気づくのには随分遅かった。

 そのままの体で一階の省庁を回りレオンハルトを探したが、彼の姿も見当たらず、しばし広い城内を放浪する事になる。やっとのことでレオンハルトを見つけたかと思えば、先ほどアーノルドと別れたばかりだと言われてしまう。また行く先を変え、探す羽目になった。

 そうしてどれほど経っただろうか。行く先々でアーノルドの気配はあれど、その本人の姿を拝むことができない。


(何故、こんなことになっているんだ……!)


 広い城内をほぼ一周したように思えた。歩き通したためかまだ昼前だというのにレティセンシアはとてつもない疲労を覚え、一度客間へ戻った。

 用意されていた朝食はすっかり冷め、入れたままだった紅茶は苦味に飲めたものではなくなっている。それでも食べないよりはマシだと硬くなり始めたパンを齧り、脳内でイヴェール城の地図を展開する。

 残りはアーノルドの寝室があるだろう二階より上のフロアだ。以前フラメルにより招き入れられた図書室近くの階段から三階へは上がれるが、いくら護衛を命じられているとはいえ勝手に立ち入って良いと思えない。なによりアーノルドは既に活動しているのだ、寝室に居るわけがない。後はまた城下に行っている可能性だが、その点に関しては違うという確信があった。その確信に対しての明確な答えはない。ただ、そう強く思うだけである。

 どうすることもできない。しかし、護衛である以上側に居なければという思いが、どうもレティセンシアを落ち着かせてはくれない。

 苦い紅茶を飲み干し立ち上がる。

 結局他に行き場もなく、レティセンシアは再びアーノルドの執務室へと向かった。


 静かな廊下を歩き、立ち止まった。

 執務室の扉が僅かに開いている、先ほどの女中が閉め忘れたわけではないだろう。時刻は既に昼を回っており、アーノルドが部屋に居る何よりの証拠だと知る。

 午前中の労力を思い出し、レティセンシアは一度小さくため息をついた。出かける予定があったのならば、昨日部屋を訪ねてきた時にでも言ってくれればよかったものを……。開いた隙間からアーノルドの姿は見て取れたが、一応ノックをと上げた手を止めた。

 執務机に座るアーノルドの表情は芳しくない。彼は苛立ちと苦悩に満ちた顔をし、乱暴に拳で机を叩いた。

 彼らしからぬ挙動に思わず気配を消し、その場に身を潜める。

 アーノルドは扉が開いていることに気づかないのか珍しく声を荒げており、レティセンシアの位置からも耳を澄ませば聞き取ることができた。


「くそっなんで父上だけなんだ。毒殺にしたって症状が……情報が無いのは仕方ないにしても……」


 苦渋に満ちた顔で手元を見ている。遠目から判断するに書類のようなものだが、何が書き込まれているのかは判別できない。

 アーノルドが片手で口元を押さえ、忌々しげにそれを見る。


「……いや、殺された父上が浮ばれない。お爺様にも顔向けできん、なんとしても犯人を……」


 ――毒殺。

 レイモンド王の死に関係するにしてはあまりにも不穏な単語だ。

 国の要人が何者かに恨みを買い、毒を盛られるのはよくある話だ。しかし暗殺の事実が外へ漏れでもすれば、混乱に乗じて他国が攻め入れてくる可能性もある。特にバルデュワン公国は独立してまだ数十年と間もなく、軍事国家でもないため武力としては心元ない部分もあったのだろう。王の本当の死因はイヴェール城内の、それも貴族や一部の人間のみの秘密となっていたようだ。公にしていないだけでやはり、先王の死には何か隠されている。

 しかし皆、その死を追求をしている様子はどこにもない。

 レティセンシアが手にかけてきた現場には今までなんの痕跡も無かったはずだ。死神が要人を殺す目的は何なのか、ただの快楽殺人なのか。誰も何の推測もできないはず。

 死神の噂が貴族たちの間で囁かれる現状、王は彼の手にかけられたと思うしかなく、素直にそれを受け入れたのだろう。

 ただ一人、アーノルドを除いて。

 しかし、当のレティセンシアには何ひとつ心当たりがない。


(急逝したと聞いているが……もしや)


 レティセンシアは顔を顰め、浮んできた推考を頭の隅に押しやった。確信の持てない状況で何か言えば、アーノルドを混乱させるだけだ。それに何よりも、自分の立場柄信じてもらえるとは思えず、レティセンシアは目を閉じ頭を振った。

 悟られぬように注意して一度ドアを閉めた。そうして再び手を上げ、執務室のドアをノックする。


「アーノルド殿下、私です」


 中から物を隠すような慌てた音が聞こえる。

 返事を待ってからドアを開ければ、初日と同じようにアーノルドはレティセンシアのほうには目もくれず、黙々と書類にペンを走らせていた。壁が死角になって気づかなかったが、側に書類の山がいくつか連なっている。


「探しましたよ。随分と待ちぼうけを喰らった上に、午前中は城内を走り回りました」


「悪かったな。来賓への挨拶とかが入って、急に忙しくなったりするんだよ」


 さすがに半日振り回されたことには腹を立てている。指摘するように嫌味を言ったが、アーノルドの返した謝罪はどこか上の空だった。言うだけ無駄だったかもしれぬとため息をつき、執務室に揃えられた応接用の大きなソファーに何も言わず腰を下ろした。それを見咎める様子もなく次々に書類を捌くアーノルドを見、レティセンシアは僅かに首を傾げる。


「それらの書類は、今やらなければならないのですか」


「どういうことだ」


「まだ戴冠を終えてない貴方がやる必要はあるのかと思いまして」


 目を通していた書類に疑問点があったのか、アーノルドが小さな唸り声を上げながら手を止めた。ペンを持ったまま左手で口元を押さえ、レティセンシアへの返答もせず考え込む。しばらくして執務机の引き出しから別の羊皮紙を一枚出すと、それになにやら書き込み、見入っていた書類とまとめ別の山に築いた。


「三日後には王になるんだ、今からやって損をすることはない。どうせアーノルド陛下おれじゃなきゃできないことだ」


 目を書類に落としたままレティセンシアの問いに答え、アーノルドは再び黙り執務に没頭する。

 二人きりの静かな部屋に紙を引っかくペンの音だけが響く。間に彼の座るクラシカルな背もたれの高い椅子が軋む音を上げ、一瞬の静寂を引き継いだ。

 レティセンシアはしばしその様子を眺め、次期国王という責任感だけで人はこうも熱心になれるのだろうかと、想像のできぬアーノルドの心情を不思議に思った。いくら成人しているとは言っても、彼の性格からすれば遊びたい盛りではないのか。数日もすれば名実ともにバルデュワン公国の王として君臨し、多くの責任が乗るだろう彼の体は、座る椅子の大きさもあってかほんの少し小さく見える。

 時計が低く時刻を告げる。気づけばレティセンシアが昼を食べてからもう一時間も過ぎていた。

 いつもより早い時間から活動をしていたアーノルドに食事の暇はあったのか。時計の音が聞こえていないとは思えなかったが、手を休める様子はない。


「……殿下、昼の食事はお済なのですか」


「あー、俺手ぇ離せないし、そんな暇ないからいらん」


 アーノルドは顔を上げることすらせず言い切った。羽ペンを持つ手は止まることなく、羊皮紙の上で踊り続けている。

 傍から見れば勤勉な姿ではあるが、レティセンシアは呆れと憤りを感じた。


「貴方、人には食べろと言っておいて……!」


 思わず咎める声が裏返る。


「しかたないだろ、食べる時間も惜しいんだ。あと誰か呼ぶのも面倒、半日位抜いても死なん」


「ばっ……かですか貴方! 朝も食べてないんですか!?」


「紅茶は飲んだ」


「それは食べたと言いません!」


 仕事熱心なのは良いが、変なところで意固地を見せるアーノルドの姿に眩暈とも言える頭痛を覚えた。レティセンシアはこめかみを押さえながら立ち上がる。


「私が取ってきます」


「えっいいよ、食べる暇無いって」


 ようやく手を止め、怪訝な顔を上げたアーノルドをレティセンシアは声高に責めた。


「片手で摘める物を持ってきますから食べなさい!」


 早足で執務室を出、人を探す。

 朝方アーノルドの執務室前で会った赤毛の女中に鉢合わせ事情を説明すると、彼女は慌てた様子で城の四辺、角塔部分にある厨房へ案内してくれた。

 他所の部屋に比べれば随分と狭い厨房には誰もいなかった。荒く削り出した石の壁には調理器具がかけられていたが、城の規模にしては随分と少なく感じる。

 レティセンシアは部屋の隅にある人が一人通れるほどの狭く急な階段を下りていった。メインの厨房は一階の方だと聞いている。


「すみません、お願いがありまして」


 遅い昼食の時間を過ごす料理人たちが揃ってレティセンシアを見た。皆、部外者が何ゆえこんなところに、と言いたげな顔をしている。


「アーノルド殿下が朝から何も食べていないようなので、もし何かあれば……」


「またか!」


 年は五十ほどだろう、一番奥に座っていた大柄な男が声を荒げ立ち上がった。


「どうも一食分余るからおかしいと思ったんだ、おいチコ! てめぇ皿は空だったって言ったじゃねぇか!!」


 レティセンシアの側で納まりの悪い赤毛の少年が座ったまま小さく跳ね上がる。食べていた物を喉に詰まらせたのか、何度も咳き込み、涙を浮べながら叫んだ。


「本当に空でしたよぅ! 俺摘み食いもしてませんからね!」


「そもそもしてたら承知しねぇぞ! とにかくお前貯蔵庫行け、殿下に粗末なもん食わせるわけにもいかんだろうが!」


 休息に落ち着いていた厨房が、突如慌しくなった。

 まだ食べ終わっていない皿を調理台の上に置き、チコと呼ばれた少年がレティセンシアの横をすり抜け階段を駆け下りていく。男は外していた白いエプロンとコック帽を被り直し、その場に残った料理人たちに顔を向けた。


「お前たちはこのままいつも通りでかまわん。殿下の分の夕食は気づかれない程度に多めにするんだぞ」


 こういったことは何度かあったのだろうか、残った料理人たちは呆れながらも笑って男の言葉に頷いた。


「お前さん、教えてくれてありがとうよ」


 男はレティセンシアの肩を軽く叩いて二階へ上がって行く。

 その後にレティセンシアも続いて階段を上った。遠くからでは見えなかったが、男の長いコック帽には小さいながらもいくつか勲章が付いている。彼が厨房を任されている長ということだ。


「休憩中でしたら、私がお作りしますが」


 調理台を拭う料理長に良かれと思い、レティセンシアが提言する。

 するとあからさまに不快を示した料理長はチャーコールグレーの瞳を鋭くし、レティセンシアを睨んできた。


「ここは俺たちの戦場だ、部外者は引っ込んでな」


 きっぱりと切り捨てながらも、料理長は安堵するように長い息を吐く。


「何者か知らんが、殿下の側にあんたみたいな人が居ると良いんだがな。よく食べてないって気づいたな」


「聞いたら、素直におっしゃったので」


 料理長が真顔でレティセンシアを見る。


「殿下に聞いたのか」


「えぇ、遠まわしに言っても誤魔化されるでしょうし」


 レティセンシアが正直に答えると、料理長は一瞬目を丸くした。ほどなくして狭い厨房に反響するほど大声で笑い、機嫌を直したのかレティセンシアのほうへ一枚、白いタオルを投げて寄越す。


「紅茶を入れてくれ、見たところ司祭様のようだがそれくらいはできるだろう。茶葉と食器はそこの棚にある、殿下の気に入りは白に群青の模様が入ったやつだ」


「料理長ー、余ってるのこんなもんしかねぇですよー」


 息を切らせ、顔を真っ赤にして階下からチコが顔を出した。両手に抱えるほど大きな網籠の中は少量の葉野菜と小さなハムの塊がひとつ、それに食パンが少しあるばかり。


「これだけあれば十分だ。よし、お前は休憩に戻れ。夕食の芋はいつもより多く洗えよ」


 料理長はそれを片手で受け取りチコの背中を強く叩くと、声を上げて笑いながら調理台の方に戻った。


「……料理長機嫌良いけど、何か言ったんすか?」


 チコがレティセンシアの袖を引っ張り耳打ちしてきた。何か恐ろしい物でも見たような顔をする彼に、レティセンシアは紅茶を入れる支度の手は止めず、不思議そうに首を傾げ言った。


「特に何も」



 窓から見える空は時間にしては随分暗く、下方に見える中庭の道が既に雨水の染みに滲んでいた。

 東西を結ぶ大きな廊下を半ば跳ぶように早足で歩く。白いティーポットがカタカタとトレーの上で鳴っている。あまり遅くなっては紅茶の渋みが出てしまうと、自然と急ぎ足になる。

 アーノルドの執務室を目の前にして、レティセンシアははたと立ち止まった。しばし固まり、顔を顰める。


「私は何をやっているんだ……!」


 半日食事を抜いたところで確かに死にはしない、それは本人も言っていたことだ。そもそもレティセンシアはアーノルド暗殺の命を受け城に潜入し、側に居る。彼自ら餓死でもしてくれれば、それはそれで万々歳なのだ。にも関わらず、食事を取らぬ彼を咎め、仕事の片手間でも食べられるようにとサンドウィッチを小さく切るよう頼んだのは、他ならぬレティセンシアだった。

 忌々しげにしかめ面で手に持つトレーを見た。


(この食事に毒を)


 しばらく廊下で立ち尽くす。

 結局レティセンシアは何もすることなく、執務室のドアを再び叩いた。


 * * *


 夜の食事を終えたところでやはり雨が降り出した。

 随分と雨脚は強く、外は靄がかかったようになり、暗闇を見通すレティセンシアの眼ですら外の様子を見ることができなくなる。

 結局今日もアーノルドの暗殺はできなかった。決して彼に隙が無いわけではないし、レティセンシアもその好機を見逃していると思えない。こんなことは初めてだった。

 ため息をつきながら黒い祭服を脱ぎ、寝巻きに着替える。

 戴冠式まで後二日と迫っている。焦りが無いわけではないが、ここ数日アーノルドの側に居たこともあり、レティセンシアの存在は城で働く者たちにほとんど知れ渡った。それでなくとも黒い祭服は目立っている。アーノルドを手にかけ、そのまま姿を晦ますわけにもいかなくなってしまった。どうにかして誰の目も届かぬ場所で彼を殺さなければいけない。

 そんな場所が果たして城内にあるのだろうか。


(やはり街へ下りる時だな……裏道を通る間に殺し、放置してしまうのが一番だろうか)


 思案に暮れながらベッドに入る。

 部屋の灯は既に消してあり、外の暗さも相まって室内は闇に閉ざされる。教会のそれとは質の違う上等なシーツはまだ微かに日の匂いがした。軟らかな羽根の枕の下に護身とお守りを兼ね、アズラエルをそっと潜ませた。

 レティセンシア自身は夜の方を好み、普段は遅くまで起きていることもある。しかし今日はアーノルドに振り回されるが如く城内を歩き続けたせいで、体が疲労を訴えていた。

 右手を枕の下に差し込み、銃に触れ目を閉じる。


「――っくしゅ!」


 小さな物音と共に聞こえた声に反射で身を起こし、銃を構えた。

 聞こえてきたのは天井の方。しばらく息を潜めじっと見つめていると、簡易的に置かれた隠し通路の蓋が僅かに揺れ、そして静かになった。


「……こんな時間まで何を」


 天井裏の犯人がアーノルドだと気づく。

 緊張が抜け、構えた腕が力無くベッドの上に落ちた。しばらく耳を済ませていたが戻ってくる気配はない。


「全く、本当に王としての自覚があるのか……」


 愚痴るように呟いて再び横になる。

 日差しの匂いに包まれやってきた眠気に、レティセンシアは早々に意識を手放した。

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