三 年老いた馬は捕まえられない

「今日は一日執務室に居ることになりそうだから、お前も好きにしていいぞ」


 朝の鍛錬の後、アーノルドに告げられた言葉を脳裏で反復する。二日ほど続いた城下へのお忍びと護衛の立場は一時休止になり、数日ぶりに一人になったレティセンシアは所在無く二階客間への階段を上っていた。式典の準備も滞りなく進んでいるのか、儀典室の司祭たちから何かを頼まれるという事もない。

 突如訪れた何もない一日。何の案もないまま階段の最上段を踏んだところで一人の老人と鉢合わせた。


「お前さん、こんなところで何をしておる」


 レティセンシアの知る限り城内で一番の高齢だ、齢にすれば六十ほど。眼鏡の奥から覗く紫の瞳は人懐っこい笑みを浮かべ、白く長い顎髭と同じく肩まで届く白髪は、肩に近づくほど緩く癖が掛かっている。聖職者の物とはまた違う丈の長い藍色のローブと雰囲気から、一見学者のように見える。


「最近アーノルドについた護衛とやらじゃろう? アーノルドはどうした」


 足が悪いのか杖を手にしていた。馬の頭部を象った燻し銀の持ち手と、軸の一部に金の装飾があしらわれた細身の物。城内を歩き回るからには相応の位を持っているはずなのだが、態度や雰囲気からはどこにでも居そうな人の良い老人にしか思えなかった。


「殿下は今日執務室に篭もるとかで、私は一日任を解かれております」


「おぉ、そうか。ならちょっと付き合いなさい」


 素直に答えると老人は笑みを湛え、レティセンシアの手を取る。


「あの……私は」


「いいから、ちょうどお茶を入れようと思っておったんじゃよ。儂も話相手がおらんで暇を持て余していたところだ。なに、アーノルドの方は宰相殿がいるから大丈夫だろうよ」


 有無を言わさぬ雰囲気だった。レティセンシアの腕を掴む節くれ立った指は、決して力を込めている様ではないのに抵抗することができない。なにより背後は階段だ、足を滑らせでもしたらそのまま無様に落ちていく己の姿が想像できた。

 一日城の中で何をするでもないというのも考えれば苦行のようなもの。老人の戯言に耳を傾けていたほうが少しはマシではないか。


「怖がらずとも捕って食おうなどとは思っとらんよ。まぁこんな老いぼれの話じゃ、お前さんはつまらんかもしれんがのぅ」


「いえ、では……少しだけ」


 引かれる腕に素直に従い、誘われるまま階段を上がってすぐにある部屋に連れ込まれる。

 室内に入ってすぐ、埃臭さと湿気を感じた。他の部屋に比べて若干薄暗い部屋だったが、レティセンシアの眼は常と同じように室内を映した。威圧感のある高い本棚を仰ぎ見ていると、窓を開けているのか頬に外気の冷たさを感じた。特定の場所に生じる穏やかながらも張りつめるような雰囲気な、自然とレティセンシアの心を落ち着けた。


「窓際のところにテーブルがある。あそこはよくアーノルドが座っておるが、この部屋の中で一番居心地の良い場所のようだよ。そこにでも居なさい」


 老人が指したのは部屋の角にある一人用のテーブルと椅子で、それは立ち並ぶ本棚の奥に隠れるようにあった。

 濃緑色をしたベルベット貼りの猫足椅子。椅子と同じ足の樫のテーブルには半分ほど蝋燭の溶けた燭台が乗っていた。唯一の窓が近いためにか、近辺は比較的明るさを保っている。開けられた窓からは風が通り、席の周辺の空気が澄んでいるのがわかった。

 レティセンシアは言われるまま、その席に着いた。上等なクッションが重みを受け止め、僅かに沈んでいく。

 形にすると長方形の図書室。入り口から一番奥の一箇所が個室になっており、老人はそこに入って行ったようだ。

 レティセンシアが座る席の側にはサイドテーブルの代わりにもなりそうな駒が乗ったままのチェス盤と、大きくゆったりとしたロッキングチェアがひとつ。チェアの隣には流動的なアラベスク模様が掘り込まれた一本足の書見台もある。壁は全面を埋め尽くす棚と本の背表紙。高い位置の本を取るための踏み台は、階段と同じ形の昇降台になっていた。

 ここ数日側に居たせいか、昇降台の一番上に座り、真剣な顔つきで本を読むアーノルドの姿が易々と思い描け――思い出したようにレティセンシアは数度目を瞬いた。そうして目を伏せ、小さく首を振る。


(彼を殺すために側にいるのだ。何を考えている、早く、殺さなければ)


 膝に添えていた己の手のひらを見つめる。

 数多くの命を奪ってきた。命令されるままに殺してきた相手の顔は誰一人として覚えていない。それどころか、どんな性格でどんな喋り方をしていたのか。殺される前はどのように生きていたのか、レティセンシアは何も知らなかった。ただ殺す相手の名と居場所を告げられるだけで、それ以上は何も聞かず、何も考えずに殺した。もちろん対象と数日を共にしたことなど今まで一度もない。

 その感覚をどうすればいいのかわからなかった。真綿でじわじわと首を絞められるような苦しさと、穏やかな日差しの中で転寝をしているような心地よさ。それらが合わさった言い様のない感情を覚え始め、レティセンシアは微かな焦燥に心かき乱されていた。


「待たせたかね」


 思考の大海に漂い過ぎ、レティセンシアは声をかけられるまで扉の音にすら気づかなかった。先ほどの老人がトレーを手に側に立っている。僅かに片足を引きずる老人に代わりトレーを受け取り、テーブルに並べていく。

 白い陶器製のカップにはエメラルドグリーンと金のラインが装飾を描き、同じデザインのティーポットはまだ少々熱かった。それぞれのカップへ傾けると、飴色をした紅茶の香りがふわりと湯気と共に漂う。


「手馴れておるな、誰かの世話でもしておったのかい」


「……身の回りのことは、自分でいたしますので」


「そうかい、そりゃあ良いことじゃ」


 老人は柔和な笑みを浮かべて礼を述べ、カップを受け取った。背もたれの高いロッキングチェアに揺られる姿は部屋によく馴染んでいる。レティセンシアもカップを手に、再び席に座った。


「そういえばまだ名乗っておらんかったな、儂はフラメル=シュヴァリエ。先代からエルフィンストン公爵家の家庭教師を担い、今はバルデュワンの生き字引をしておるよ」


「レティセンシアと、申します」


 老人――フラメルはどこかアーノルドを彷彿とさせた。明るい物言いもそうだが、城下へ身分を隠し「アル」と名乗っている時の彼に近いような雰囲気を感じ取る。先代からという言葉をそのまま信じれば、城に仕えて随分と長いことになる。身分を表す爵位は口にしなかったが、やはり只者ではないようだ。


「アーノルドはどうじゃ、外聞と側じゃだいぶ印象も変わろう」


 その問いに素直に答えるべきか、レティセンシアは躊躇する。

 フラメルが家庭教師として側に居たのなら、アーノルドの多様な「顔」は知っていることだろう。しかし、その印象を素直に伝えていいのかどうか……。あまりにもフランクな接し方をされすっかり失念していたが、アーノルドは身分の高い公爵家の嫡子であり次期国王。全く咎められはしなかったものの、不敬罪で処罰されてもおかしくはない状況がいくつかあるにはあったのだ。

 レティセンシアの脳裏に様々なごまかしの言葉が浮かんでは消えていく。ようやく浮かんだ言葉は語るに一番しっくりとしていたが、やはり素直に口出して良いものと思えない。ティーカップに視線を落とし考えこむも、やはり迷いを断ち切ることはできず、嘘の苦手な口は素直に言葉を紡ぐ。


「変わった、方だと……思います」


 一瞬、世界の音が無くなったように感じた。

 窓の外から聞こえてくる鳥の声だけがやけに大きく聞こえたかと思えば、フラメルが突如大声を上げて笑い出す。とても年老いているとは思えない快活の良い笑い声だ。


「そうじゃろう、そうじゃろう。間近に居なければその言葉は出んな。素直に言うお前さんも変わっておるがの」


 決して怒られているわけではない。それでもどこか居心地の悪い居た堪れなさを感じて、レティセンシアは身を縮めカップに口をつける。早摘みのものか苦味よりも爽やかな青さのある紅茶であったが、レティセンシアは味も判らず、困ったように苦い顔をするしかなかった。


「あの子は幼い頃から年頃の友人も身近には居ず、母親たるイザベラ妃の顔も絵でしか知らん。それでも笑顔の耐えない、誠実な青年に育った。儂は生まれより側におったが、祖父たるラトウィッジ閣下に似た所もありおる。不思議な魅力に満ち溢れた子だ、傍から見て変わり者に感じるのも致し方ないと言えばそうなんだろうよ」


 老人の目が、まるで本物の孫か息子を語るかのような穏やかさに満ちている。

 彼らのように公爵家に仕える立場の人間からみれば、アーノルドはこの先君主として上に立つ人物。国として独立し、尽力を注いで平穏を守り続けてきた自国を、まだ二十歳そこらの若造が統治していくことについては何も思わないのだろうか。

 しかしフラメルが語るのは「アーノルド殿下」ではなく、ただの「アーノルド」という青年である。そう気づき、レティセンシアがふと問いを口にしようとした。

 それよりも早く、話題を変えるようにフラメルが先に問うてくる。


「ところで、お前さんはバルデュワンの生まれかい?」


「生まれはわかりませんが、国から出たことは一度も」


「そうか。なら、先王のレイモンド殿が亡くなった事は知っておるな」


「急逝されたことは存じております」


 フラメルの目が若干鋭くなる。


「レイモンド王の死はあまりにも急でな、健康を害されていた様子もなく結局死因も判らないまま、あの子はバルデュワンの次期国王としての責務を全うしなけりゃならん。これから諸外国に出て見聞を広めようという話もあったが、全てあの子自身が白紙に戻しおった。確かに良いと言えるものではないが、数年ほど宰相殿に摂政を任せてもと思うんだがの。本人が言うんだから仕方ないが……」


 深いため息は何に対してか、フラメルは一度言葉を止めた。


「お前さんはどうだい。見たところアーノルドとあまり年も変わらんようだが、数日ほど側に居て、変わり者という印象以外に何か他に感じることはなかったかね?」


「殿下の事で、ですか」


「他におらんだろう」


 問われ、すぐに出る言葉はない。

 レティセンシアが知るアーノルドは、今のところ大部分が身分を隠した「アル」という姿だ。手合わせの際に見た顔も彼の一部ではあるが、初日のような公爵としての姿はその後お目にかかれていない。確かにどこか差は感じたが、それをどう言葉で表せばいいのかレティセンシアも判っていない。

 フラメルの強い視線から逃れるようにカップに目を落とす。ごまかす度に飲んでいた紅茶は、既に無くなりそうだ。


「そうですね、その……殿下の本音をお聞きしたことがないので、別の印象と言われましても」


「あぁそうじゃったな、アレの悪い癖だろうよ。レイモンド王が亡くなった日も皆が不安になってはいけないと我慢しおって。実の親が亡くなったんだ、悲嘆にくれたところで誰も怒りはせんのに隠れて泣きおる」


 レイモンド王の急逝を伝えられた当時を、レティセンシアははっきりと覚えていない。だが、様々な噂は教会内でも耳にしていた。

 葬儀の場でも涙を見せず堂々たるその姿は、父たる先王に違わず凛とした強い人であろう、と。

 その言葉から想像できるアーノルドの顔は、初日レティセンシアたちを迎えた「殿下」しての彼。涙を流さず、意志の強い瞳でもって民を見やり、逆に慰めの言葉をかける姿が想像できた。

 しかしその姿と、今フラメルの言ったアーノルドの姿は一本の線で繋がろうとしない。強いて言えば、コインのように裏と表が背を向け合いひとつになっている、そう表現するのが一番判りやすく、的確に思えた。

 レティセンシアは思わずティーカップを両手で包み込む。すでに冷たくなり始めた陶器の器に、申し訳程度に残った紅茶。そこに映りこむ己の表情は、なんと形容すればいいのかわからない。


「かの暗殺者にも頭を痛めておってな……お前さんは知っておるか? 死神と渾名されておる正体の知れぬ暗殺者を」


 城に仕えている以上フラメルが知らぬはずが無かった。

 レティセンシアは思わず体を硬くし、警戒する。

 アーノルドはレティセンシアを護衛にする際、暗殺に来たことは隠す、そう言った。いくらフラメルがそれなりの地位にいる人間だとしても、アーノルドの口から伝えられてない以上、レティセンシアの正体までは知らないはず。

 だが、ここで下手な事を言えばどうなるか……。

 フラメルの様子をそっと伺い、悟られぬよう小さく深呼吸をする。目を閉じ、意識の奥で様々なものに蓋をした。

 再び開いたレティセンシアの目から生に満ちた光が消える。


「名は、聞いたことが」


 抑揚の無い己の声が響く。


「ここ数年で幾人かの貴族が彼奴に殺られた。ほとんどが善意に満ちた有力者じゃ、中には独立戦争の時よりエルフィンストン家に力を貸していた家もある」


「そうでしたか」


「死因は様々ではあるが皆夜半に襲われたようでな。争った形跡もなく、よほどの手練と見受ける」


「そのような者がバルデュワンに?」


 フラメルが首を横に振る。


「悲しいかな、まだ捕まってはおらん」


 フラメルの鋭い目がレティセンシアを突き刺し、探ってくる。

 しかし、先に警戒をしていたためレティセンシアが動揺を顕にすることはなく、しばし腹の中を探り合うような攻防が続いた。


「レイモンド王もその暗殺者にやられたのですか」


「陛下に関してはそうも言いきれんでな、そこは捕まえた後本人に聞くしかなかろう」


「早急に捕らえられることを祈ります」


「可能であればトロネ教会にも協力を仰ぎたいところだの。ところでひとつ、お前さんに聞きたいことが」


 淡々とした受け答えを突如区切り、緊張感を緩和させるようにフラメルが笑う。

 警戒を解くことなく、レティセンシアは無表情のまま彼を見る。似た笑顔をどこか見たように思ったが、思い出すことができない。


「……なんでしょう」


 フラメルが一拍の間を置くようにチェス盤の上にティーカップを置いた。ゆったりとした動作で膝の上で両手を組み、ロッキングチェアに背を預ける。

 重みを受け、椅子が揺れた。


「お前さんの主は元気かの?」


 問いに、レティセンシアは微かに眉を顰めた。


「私の……主とは」


「カランバノの老いぼれじゃよ」


 老人の目は笑っていなかった。眼鏡越しの濃い紫の瞳が、レティセンシアの背後に立つ影を射る。

 息が詰まった。頑丈に閉じたはずの蓋に隙間が開く。動揺が全身を駆け巡り、見開いた目で老人を見てしまう。先ほどまで飲んでいたはずの紅茶が蒸発したのか、口内が干上がるように乾いていくのがわかった。だというのに、陶器を持つ手のひらは汗で湿っている。

 部屋のどこからか、低い振り子時計の音が聞こえてきた。

 答えは聞かぬのか、鋭い眼光を一瞬で隠したフラメルが時計の方を見、再びレティセンシアへ笑いかける。その目はもう、穏やかな老人のそれ。


「随分と付き合わせてしまったようだの、そろそろ儂は出かけねばならん。すまなかったね、無理を言って」


「……いえ、そんなことは」


「後でアーノルドに会うようだったら伝えておいてくれ、大事が控えておるんだから無理はせんようにと」


「わかりました」


 フラメルに見送られ一人、廊下へ出る。緊張の糸が切れ、レティセンシアは思わず大きなため息をついた。うっすらと背を伝う汗が生ぬるく、不快感を覚える。

 警戒すべきは宰相だけではなかった。年の功もあってか、あの老人のほうが厄介な存在だ。できることなら敵に回したくはないが、最後の言葉から察するに、彼はレティセンシアの正体どころかその背後に立つ人間も知っているのだろう。

 アーノルド暗殺の命令を受けた日に聞いた「老師」の存在。それがフラメルだ。今さら思い当たったところでどうしようもない。

 レティセンシアは心労に痛む頭を抑え、客間のある西側へ歩き出した。


 * * *


 客間で一人昼食を取り、数日ほど忘れていた銃の整備を静かに行う。銃帯から二丁、左足に隠した一丁。計三丁の全て形の違うそれらをレティセンシアは一度分解し、丁寧に清掃していく。特殊な武器のため突如使えなくなるということも稀にあり、日々動作の確認だけは怠らないようにしていた。修理も換えも、この国では容易ではない。

 室内にドアを叩く音が響く。

 城で部外者であるレティセンシアの元に誰か訪ねてくると思わず、他の部屋の音が聞こえたのだろうと、再び手元に視線を落とした。

 もう一度、今度は先ほどよりも手荒なノックが響く。

 慌てて返事をしてドアを開ける。

 立っていたのは四十ほどの身の丈の低い肥えた男。顔は見たことがあったが、名前を思い出せない。


「貴様、なにをしているのだ」


 粘着質な目がレティセンシアを睨みつける。

 その目を見て思い出した。城での初日、廊下ですれ違った際にレティセンシアを引き留めた男だ。

 確か名は――


「何かご用でしょうか、トライシオン男爵」


 冷静に受け答えをすれば、トライシオンは逆にその目をますます鋭くさせた。


「近頃殿下の側に居ると思い黙っておれば。戴冠式まで日はあまりないのだぞ。貴様の役割を果たせ、死神」


 蔑みの色を宿した灰褐色の目。そこに映る己の姿を見て、レティセンシアは体の内側が冷めていくような感覚と、何かが蠢いているような気分の悪さを同時に感じた。こんな目を向けられることには慣れている、そのはずだった。

 決して室内には入らず、トライシオンはドアの前で声を潜め憤慨を示す。目が時折何かに怯えるように廊下のほうへ流れた。


「あのお方になんと報告すればいいと思っている、早々に手を下せ」


 レティセンシアは密会の夜に聞いた声も、誰の姿も覚えていない。しかし口ぶりからこの男はあの場に居た一人なのだろう、城に仕えているため内通の役割をしているのだと悟る。城の中でトライシオンがどれほどの地位にいるか知らず、興味もなかったが、立場を利用して私腹を肥やしてきた事だけは推測できた。


(このような奴のために、アーノルド殿下は命を奪われるのか)


 レティセンシアにとってはただの命令だった。疑念を持つことなく、ただ言われるままに与えられた命令を果たせばそれで良かった。そこに己の意思や思想など必要なく、レティセンシア自身要らないと思い捨てたもの。


 ――本当に、それで良いのか。


 思わずドアノブを握る手に力が篭った。


「トライシオン男爵、こんなところで何を」


 廊下から聞こえてきた声に、トライシオンが驚きの表情を浮かべてそちらへ顔を向けた。レティセンシアの位置からでは死角となり姿は見えないが、聞きなれた声の主にドアを大きく開く。

 側に立っていたのはレティセンシアの想像通りアーノルドだった。しかしその顔はどことなく険があり、この数日で見慣れた彼らしからぬ表情をしている。


「アーノルド殿下……あなたこそ、このようなところに何を」


 トライシオンがうろたえながらも取り繕った笑顔を貼り付け、アーノルドの方へ身体を向けた。

 しかしアーノルドはその笑顔に応えようともせず、真顔のまま一度レティセンシアへ一瞥をくれる。


「レティセンシアに話があってきた。教会の者と私が話をしてもおかしなことは無いだろう」


 それが嘘か本当か。表情から判断しようにも、冷たい仮面を被るアーノルドからは怒りの片鱗すら探ることができない。纏う威圧感は相当なもので、トライシオンは笑顔を引きつらせながらも媚び諂うように、彼のご機嫌を伺い続ける。


「私はこの者が最近、殿下のお側によく姿を見せるので、何かあってはと思い……」


「戴冠式まで護衛を命じている、側に居て当たり前だ」


 レティセンシアが護衛になった事を知っている者は少ないのだろう、確かに公にする必要はあまりない。

 その事実を聞かされ、トライシオンの顔に明らかな動揺が浮かんだ。嫌らしく弧を描いていた目が一時見開かれ、忌々しそうにレティセンシアとアーノルドを交互に見る。そしてまた、引きつった笑みを浮かべた。


「失礼ですが殿下、このような者ではなく近衛隊の精鋭をお側に置かれた方が……黒衣の僧が護衛などでは、民衆から不審な目を向けられる場合も」


「……なんだと」


 一寸も揺らぐことのなかったアーノルドの表情が揺れた。


「殿下?」


「このような者、とは聞き捨てならぬなトライシオン。どういうことだ」


 言外にアーノルドへ苦言したことに反応を示したと思っていたため、レティセンシアは驚き彼の顔を見た。

 トライシオンを見るアーノルドの隻眼は鋭さを増し、自分に向けられたものでもないのに、心臓を鷲づかみにされているような気分になった。下手を言えばそのまま鋭い爪で造作もなく握り潰す、そんな凄みを感じる。

 声を荒げないまま、静かな憤怒をアーノルドは露わにする。

 その気迫に圧されたのか、トライシオンは苦い顔をして口を閉ざした。言い訳を捜しているのか口元は動くものの言葉はない。額に浮かぶ汗を見るに何も浮かばないのだろう、焦燥しているのがわかった。

 しばらく無言で佇んでいたが、何も言わぬトライシオンを見て、アーノルドが先に口を開いた。


「教会関係者と言えどバルデュワンの民だ、身分や肩書きで判断し貶めるような発言は控えろ。民を愚弄することは私を愚弄することだと思え」


 アーノルドの言葉はレティセンシアの心に染み入るように響き強く揺さぶった、礼拝堂で説法でも聞いているのかと錯覚するほどだ。ただの妄言ではない、その一遍はアーノルドが民へ向ける思いの全てであるのが解る。強く芯のある彼の想いを聞き、僅かながら自分が高揚していることに気づいた。


「それともなんだ」


 挑発的な目と物言いと共に、アーノルドがぞっとする不敵な笑みを浮かべた。


「彼が私の命を狙っているとでも思っているのか? トライシオン男爵」


 鋭く細められた目はまるで獲物を捕らえた鷲のようにも思え、レティセンシアですら一瞬息苦しさを感じた。

 トライシオンは苦虫を噛み潰したような顔になり、アーノルドの質問には答えなかった。次期国王である者に対しての敬意だけは忘れず、一礼の後、その場を辞した。

 その後姿をしばしアーノルドが眼差しを変えず見送る。


「おい、レティ」


 陶酔したような心地を味わっていたレティセンシアは、彼の言葉に意識を戻した。


「トライシオンと何話していたんだ」


 怒りが収まらないのかアーノルドの語調は棘棘しい。しかめっ面もそのままだったが、トライシオンが居た時よりも態度が軟化しているのは判った。

 アーノルドの問いに答えることができない。先ほどの口ぶりから何かに気づいてはいるようだったが、彼はトライシオンが内通者となっているとは思わないだろう。

 言えば、彼はトライシオンに追求するのだろうか。そうして己の命を守るために何か考えるのではないか。

 レティセンシアは考え、言葉にするか躊躇った。暗殺者が殺す相手へ救いの道を助言するなどおかしな話である。

 結局、一言も言葉にできなかった。


「まぁいいや……。けどさ、お前もうちょっと怒っていいと思うぞ」


 腕を組み、苦言を呈するアーノルドの顔はレティセンシアが数日で知ったものに戻っていた。それでもまだ虫の居所が悪いのか、意志の強さを表す太い眉は顰められたまま。


「……なぜ、貴方が怒るのですか」


 ふいと疑問を口に乗せれば、アーノルドが表情を変え不思議そうにレティセンシアを見る。問うたのはレティセンシアの方だったが、彼の顔を見て、己が口にした疑問はおかしかったのかと思わず不安を感じた。


「お前なー、俺の話聞いてなかったの?」


「いえ、聞いてはおりましたが……私が怒って良いという流れもそうですが、貴方が怒る事は無いと思いまして。実際、貴方が愚弄されたわけではないのに」


「やっぱり聞いてないじゃねぇか!」


 思い浮かんだ疑問を全て伝えると、アーノルドは呆れて声を荒げた。


「だから、俺が言ってるのは、貴族や俺たち王族なんかと民が同列じゃないってのはおかしいってこと。身分だとかそんなん、どうでもいいんだよ」


「そういうわけにもいかないでしょう。事実、貴方は次期国王としてこの国を治める者です。そんな方と比べては、貴方に失礼だと」


「だからそれがおかしいって言ってんだよ! もー……わかんないならいいけどさ」


 理解を得られないことも余憤を刺激してか、アーノルドが苛立ちに乱暴な仕草で頭をかく。レティセンシアの言葉を理解できないわけではないのだろうが、納得はできぬといった様子である。

 上に立つ立場の人間にしては可笑しなものだと、レティセンシアは内心呟く。


「気づいてるとは思うが、トライシオンは言外にお前を不吉だと言ったんだぞ。人を疫病神みたいに言いやがって……」


 それはレティセンシアも気づいていた。しかし、そのような奇異の目を向けられることは彼の中では日常的にある事で、あの程度の言葉は感情を揺らすほどでもない。なにより御使いとしての立場を考えれば、そういう目を向けられるのは自然だとも思っている。


「貴族の間じゃ碑文を鵜呑みにして黒を嫌悪する奴もいる。すまない、そこは改善していくべき点だと思っているんだが……」


 悲憤の顔で謝罪をされ、逆にレティセンシアの方が戸惑いを覚えた。

 確かにアーノルドはレティセンシアが御使いであり尚且つ「黒」であると知った時、嫌悪はおろか恐れもしなかった。その時は深く考えなかったが、どうやら彼の御使い――いや、身分や肩書きへの思想から推測すれば、あの時の反応は合点がいく。

 高い地位に立つ人間は皆一様に下の人間を見下している。少なからずレティセンシアの知る限り、そう思っている有力者たちは多かった。

 その者たちを統べる事になる彼の誠実さは、時として悪魔に付けこまれるのではないかと不安すら感じる。


「殿下、そういえば話というのは」


 方便とは思ったが素直に聞くと、アーノルドは一瞬迷うように目を伏せた。いつも明朗に物を言う彼にしては珍しい態度に、レティセンシアは思わず首を傾げる。


「いや……お前に、聞きたいことがあるんだが」


「なんでしょうか」


 伏せたアーノルドの目線がしばし空を彷徨う。迷うように口ごもった彼は、レティセンシアと目を合わせない。


「いや……今はいい、今度にする」


 そうして何か未練でも振り切るかのように、早足で廊下を立ち去った。

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