二 黒き鳩の棲家
レティセンシアが目を覚ませば既に日は昇り始めていた。酒場からどう帰ったか全く記憶になかったが、同伴していたのだからアーノルドがここまで連れ帰ったのだろうと憶測し、顔を顰めた。
(私としたことが……護衛が助けられてどうするのだ)
酒が残る体質ではないため体の不快さはない。しかし仮にも護衛としてアーノルドの側に居ながら、責務を放棄せざるを得ない状況を自らを作ってしまったことに、レティセンシアは内心苛立った。
身支度を整えると、昨日アーノルドと手合わせをした場所へと向かった。
特に何を言われていたわけではないが、あれほどの身体能力を持つならばアーノルドは日ごろから己に鍛錬を課しているだろう。内城壁を曲がったところで案の定、彼の長い鉄紺の髪が揺れているのを見つける。
早朝の風は冷たかったが彼はいつもの白い服を着ることなく、上は袖の無いチュニクを一枚着ているだけ。前髪が頬に貼り付いて動いていないあたり、相当汗をかいているのが判る。成長期を終えた青年の体は見た目体躯が良い。骨の細いレティセンシアと違って無駄のない筋肉質な体は、同性としても羨ましく感じた。
「おっ、おはようレティ」
視線に気づきアーノルドが体を起こした。仕上げとばかりに柔軟運動を繰り返しながら、昨日取り決めた約束のままレティセンシアの名を呼ぶ。
そのせいで酒場での事を思い出し、思わず苦い顔を浮かべてしまう。
「お前大丈夫なのか? 昨日結構酔ってたけど」
「……面倒を、おかけしました」
「大丈夫ならいいけどさ。どうしようもないから口堅い女中に世話頼んだけど、調子悪かったら無理しなくていいぞ」
「殿下のご心配には及びませんゆえ」
レティセンシアの返答にアーノルドが何か言いたげな顔をして見つめてくる。しばらくするとふいと視線を外し、側の木立にかけてあった白い服とタオルを手に歩き出す。レティセンシアの前を通り数歩離れたところで、彼は振り返った。
「今日も午前中は城の中に居る。昨日と同じ時間になったら裏門近くに」
「今日も城下に?」
「来なくてもいいぞ」
「いえ、参ります」
レティセンシアの言葉にアーノルドがまた、何か言いたげな顔をする。
「律儀な奴だな」
今度はそう言い置き、鍛錬を終えたアーノルドは一人、内城門の方へ歩いて行った。
昨日と同じ時刻に二人は合流し、抜け道を通って街へ降り立った。
今日も酒場へ行くのだろうと特に聞きもせずアーノルドの後ろを付いて歩く。
しかし彼は広場へは出ず、南の方へ歩き出した。
バルデュワンの国民性なのか、貴族にしては質素な外観をした邸宅が並ぶ通りを抜けると、レティセンシアの見慣れた道に出た。ここから中央広場を通り抜け、そのまま東へ進めば教皇庁のある教会区域に出る。
だが、レティセンシアが目を向けたのは西門に続くほうの道だった。
アーノルドが歩き出す。進む先は広場ではなく西の方。途中で裏道に入り進む度、レティセンシアは多くの既視感に襲われた。見えた白亜の小さな礼拝堂から目が離せなくなり、そのまま立ち止まる。
「レティ、どうした?」
先を歩いていたアーノルドが数歩先で立ち止まる。返事も忘れ礼拝堂に目を向けるレティセンシアの視線を追い、アーノルドも目を向けた。いくら暗殺者とはいえ、教徒である以上レティセンシアも礼拝堂に何度か訪れたことがあるだろう。今までと違う彼の様子を見て、アーノルドは足をそちらへ向けた。
「何してんだ、中入るんだろ」
レティセンシアが意識を戻すと、アーノルドは既に礼拝堂の門を潜っていた。こんな場所に用があるとは思えなかったが、レティセンシアは何も言わず、彼の後に続いた。
トロネ教会はバルデュワン公国の国教として存在しているが、宗教国家とは違い国民全て熱心な信徒というわけではなく、国の一部として共存していると言ったほうが正しいだろう。教皇庁と違い、開かれた礼拝堂には司祭たちを頼り人が訪れる。時に静かな場を、時に司祭に悩みを打ち明けに。中には癒し手である白の御使いを頼り、領内から遠く首都まで訪れる民もいる。
今日はそういった人々もいないのか、日中であるにもかかわらず礼拝堂は静まりかえっていた。
参列者のための木の簡素な椅子が数多く並び、暮れ始めの日が礼拝堂へ差し込む。開けた中央の通路を並んで進みながら、二人はステンドグラスを見上げた。
左から剣を持つ赤。
祈りを捧げる白。
正面を向き、招くように手を広げる黒。
弓を引き絞る紫。
そして、目元を布で隠した緑。
五つの窓枠にそれぞれ一人ずつ描かれた五色の御使い。各属性の色と同じ衣を纏う天上の使いは、黒を中心に祭壇を囲むよう半円状に並んでいる。天井まで届く細長い窓枠を支える柱は外壁と似た質感の乳白色をしており、なんの装飾も施されていない円柱が寄り集まり、天井に向かって緩やかなアーチを描いていた。
レティセンシアが属する黒の御使いは碑文の最後に記されており、その内容からあまり良い解釈をされていない。その黒がなぜ中央であるのかについては学者たちの間でも様々な諸説がある。バルデュワン公国が独立した当時の教皇がこのように作るように指示した事だけが、イヴェール城内に残るまだ薄い歴史書の中に記されていた。
天からのカーテンのように、真っ直ぐ伸びる光に宙を舞う埃が反射して輝き、神々しさに拍車をかけている。
木の床を叩く二対の足音はゆっくりと進み、一対は半ばほどで、もう一対は祭壇の前で止まった。
祈るわけでもなく、ただステンドグラスを仰ぎ見るレティセンシアの背をアーノルドは目で追う。光の中にぽつりと影のように佇む彼の背中には、御印たる車輪と二対の羽根が浮かんでいる。それを頭の中で祭服の上から重ねると、まるで一枚の宗教画を見ているようにも思えた。
「……随分熱心に見るんだな」
アーノルドは普段どおりの声量を出したつもりだったが、微かに反響して響き、随分と大きく聞こえた。
レティセンシアは反応せず、しばらくしてからゆっくりと振り返った。逆光によって影の落ちた彼の顔は、今までの生気の無い無表情と違った。口元に浮かべた薄い微笑と、眩しそうに細められた瞳。元来の肌の白さと男にしては細い整った顔立ちが極まり、レティセンシアの美しさにアーノルドは息を飲んだ。
まるで天使のようだ、と。
「これが、好きなので」
一言発せられた言葉すら、絵の一部のよう。そうしてレティセンシアはまたステンドグラスに視線を戻す。
たった一言ではあったが、その全てにレティセンシアの思いが集約されているように思えた。
急ぎの用があるわけではない。レティセンシアの意外な一面を見れたこともあり、アーノルドは何も言わず、彼が満足するまでこの場に居ようと近くの椅子に腰を下ろす。背後から伺えるレティセンシアの輪郭が、差し込む光でおぼろげに見えた。
「……レティセンシア?」
祭壇から右の奥に人の気配を感じ、レティセンシアは視線をそちらに向けた。アーノルド以外の声に思わず身構える。
礼拝堂から奥の部屋へ続く扉の前に立っていたのは、白い法衣を着た二十代半ばほどのチャコールブルーの瞳。その顔は見覚えがあった。
「やっぱりレティじゃないですか。随分印象が変わっていたので驚きましたよ」
「――フラル、こちらに居たのですか」
「白が礼拝堂に常駐するのは当たり前でしょう」
並ぶと僅かに身の丈の低い青年――白の御使いフラルは驚きを浮かべたレティセンシアに笑顔を向けた。
数年ぶりの対話にレティセンシアはどう返答をすればいいのか迷い、思わず視線が宙をさまよう。
「聖歌隊に顔を出さないのですか? 貴方の声が聞けないと残念がる方も多いですよ」
「いえ……私は」
「何、こいつ歌上手いの?」
木の床をどう歩けば足音を立てずに近寄れるのか。背後から割って入るように顔を出したアーノルドにレティセンシアは僅かに仰け反る。
突如現れた見知らぬ男にも関わらず、フラルは変わらない笑みをアーノルドへ向けた。
「えぇ、とても綺麗な声なんです。聖歌隊は皆美声の持ち主ですが、レティセンシアはその中でも群を抜いてまして。パートはテノールなんですが、彼の透き通ったボーイソプラノを目当てにミサに来る方も居たくらいですよ」
「止めてください……私はそこまででは」
「ふーん……」
何か悪さを思いついたような笑みと視線に居た堪れなさを感じる。彼と共に昔を知る人間に会うとは思ってもみなかったと、礼拝堂へ立ち寄ったことを僅かながら後悔し始めた。
フラルは世辞で言っているのではない、それがわかっているからますます身の置き場に困ってしまう。
「ところでレティ、こちらの方は?」
フラルが首を傾げ手のひらでアーノルドを示す。
身分を隠している手前本当のことは言えない。その上、彼は名すら呼ぶなと言った、ではなんと紹介すればよいのか。
思わず言葉に詰まり口ごもっていると、アーノルドが背後から片腕をレティセンシアの首に回してきた。
「余計なこと言うんじゃねぇぞ」
フラルには聞こえないだろう、もしかすればレティセンシアも聞き逃していたかもしれないほど小さな声でアーノルドが呟く。決して崩さぬ外面の良さには感服するしかなかった。
「どうも、アルです! こいつの昔馴染みで顔見るついでに街中案内してもらってました。いや、バルデュワンは何回か来てるんだけど礼拝堂って初めてでさ。勝手に入って悪かった、俺がちょっと無理言ってこいつ引っ張ってきたんだ」
どう育てばそうもペラペラと口が回るのか、アーノルドはレティセンシアの首から腕を外すと、親しげにフラルに握手を求め左手を差し出した。
若干戸惑いながらもフラルがそれに応える。まさか目の前に立つ青年が、六日後に戴冠を迎える国の王子だとは思いもしないだろう。
フラルはレティセンシアが黒の御使いであることは知っている。だが、命令を受け、人を殺めている事は教会内でもごく一部の人間しか知らぬ事実。アーノルドの素性が発覚すれば、なぜ一緒にいるのかと必ず問われるだろう、もちろん本当のことなど言えるわけがない。とてもじゃないが、内心穏やかにとはいかなかった。
しかしレティセンシアの心配を他所に、アーノルドは親しげにフラルと言葉を交わしている。
「そうでしたか、ようこそバルデュワンに。レティセンシアにも友達ができたんですね……あの、どこかでお会いしたことはありませんか?」
「あっやっぱり似てます? なんか色んなところで言われるんだよな、アーノルド殿下に似てるって。俺お顔を拝見したこともないんでどんだけ殿下に似てるんだって、ちょっと興味湧いてんですけど」
どの口が言うのかと、レティセンシアは出そうになった言葉を飲み込んだ。嘘が苦手な自分が口を開けばボロが出ると判っている。アーノルドにも釘を刺された以上何も言う必要はないのだが。この心臓に悪いやり取りを側で聞くのは、些かレティセンシアには刺激が強い。
フラルは不思議そうにアーノルドの顔を見つめ、しばらく黙った。それから申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ごめんなさい、そうですね。失礼ですがアーノルド殿下はもっと……聡明なお顔をされていたと思います」
「ですよね。こんな俺みたいなのに似てるなんて、殿下に対して失礼にもほどがあるよな」
心臓がいくつあっても足りない。
俯くことで表情を読み取られぬよう隠していたが、いつの間にか忍び寄ったアーノルドの手に背中を抓られ、レティセンシアは思わず悲鳴を上げそうになった。寸でのところで飲み込みアーノルドを睨めば、彼の左目が鋭くレティセンシアを射抜く。曰く「顔に出てるぞ」、そういうことだろう。
「いや、でも安心したわ。こいつあんまり喋らないし暗いだろ?俺以外に話するような友達っていないかと思ってたんだよね。レーちゃんにもちゃんと教会の知り合いがいるんだな」
「れっ――!?」
「ところでさ、ちょっと聞きたことあるんだけど」
勝手につけられた新たな呼び名に上げたレティセンシアの反論の声はあっさりとアーノルドに遮られた。やり場を無くした憤りを押さえ込み、彼の背中に余憤の視線を投げ続ける。
幸か不幸か、フラルはその事実に気づかなかったようだ。
「ちょっと小耳に挟んだんだけどさ、バルデュワンに死神が出るっていう噂、聞いたことないか?」
「死神……ですか?」
よもやその名をアーノルドの口から聞くことになるとは思わず、レティセンシアは表情を硬くする。
暗殺の目論見が知れた時点で彼はレティセンシアと死神の関係を線で結んだはずだ。しかし、二日ではあるが同行する中で、彼はレティセンシアに言及してこなかった、それをなぜ、目の前で他人に尋ねるのか。一歩引いた場所からアーノルドの顔は見えず、どういう意図があってフラルにそれを聞いているのか、伺い知ることもできない。
「そうですね……この数年で貴族の何人かが殺されているというのは聞いたことがあります。犯人はわかっていませんが、殺し方から同じ人物ではないか、と」
「それが死神ってことか?」
「たぶん……申し訳ありません、直接街の方々と話をすることはありますが、なにぶん教会に居ますとやはり世俗と離れてしまうところもありまして」
「亡くなったレイモンド王については何か聞いたことがないか?病を患っていたとか」
「それについては何も。子息たるアーノルド殿下からの発表もただ急逝とだけでしたし。当時は色々な噂を耳にしましたが、どれも信憑性に関して怪しかった事もあって、ほとんど覚えていないんです」
「そうか……」
フラルの答えに僅かな落胆を見せたが、アーノルドは丁寧に礼を述べた。
実の父親であるレイモンド王の死は、アーノルドが誰よりも知っているはず。公爵家自ら先王の死因を伏せていると思っていたが、実際のところそうではないのだろうか。彼が今何を思っているのか、まだ出会って二日のレティセンシアは想像することもできずにいる。
ステンドグラスに差し込む光が弱くなった頃、ようやく二人は礼拝堂を後にした。
とかく喋る印象しかないアーノルドが今は深く考え込むように口を閉ざしている。しばらく無言の彼に合わせ、レティセンシアも何も言わず後ろを付いて歩いた。
人目を避けるように細い裏通りに入ったところでもういいだろうと、レティセンシアは心に溜まっていた怒りをぶつけた。
「……誰がレーちゃんですか」
「えっお前以外に誰かいんの?」
振り向いた顔は目を丸くしていたが、役者のように表情を変えるアーノルドの中では比較的大人しい。彼は何かを思い出したのか再び意地の悪い笑みを浮かべ、レティセンシアの隣に立つ。
「そもそもお前、その場で嘘もつけないのにホント暗殺とかできてたの?」
「何が言いたいのです」
「聖歌隊にいたとか、どう考えても暗殺の方に転がるイメージねぇんだよな。なぁレティセンシア、お前本当は天使なんじゃねぇの?」
「その喉切り裂きますよ……!」
「わー怖えー」
人を馬鹿にしケラケラと笑う彼は子供も同然だ。
怒りに拳を握る手が銃に伸びそうになるのを、レティセンシアは必死に抑えた。裏通りではあるがここも往来、怒りに任せアーノルドを殺すにしても、どこに人の目があるかわからない。
怖がる素振りはしたものの、完全に棒読み口調でアーノルドが戯れを言う。レティセンシアから逃げるように数歩距離を置いた彼は、おどけた顔を隠した。
「レティ、お前先に城に帰れ」
振り向いたのはどの顔だろうか。
感情の見えない笑顔を向けられ命令された言葉に、レティセンシアは思わず首を傾げアーノルドに問う。
「護衛はよろしいのですか」
「いいよ、俺だって戦えるの知ってるだろ。それにお前すぐ顔に出るし、やっぱり一緒に居ると目立つわ」
指摘されたことは正論で、腹を立てるほどではない。しかし、素直に受け入れるには面白くないとレティセンシアは怒りを燻らせた。だが、それよりもアーノルドの表情に妙な引っかかりを感じ、何か言わねばと言葉を捜す。だが、彼がいいと言う以上レティセンシアが反論する理由はない。
素直に従う他なかった。
「……では、お先に失礼を」
「気をつけて帰れよ」
日が落ち始め、石畳に踊るアーノルドの影が濃くなっている。
地味な黄土の外套を翻し立ち去る彼の後ろ姿を、レティセンシアはその場に佇み見えなくなるまで見送った。城へ向かうために踵を返し、一人歩き出す。
営みの明かりを灯した家々から暖かな匂いが漂ってくる。通りに出ると仕事を終えた後なのだろう、これから酒場へ繰り出す染色職人たちの一群に出くわした。戸口に飾られた国章と同じ色に染まった彼らの腕がバルデュワンの空の色をかき回すかのように、笑い声と共に揺れ動く。空のところどころで小さな虫食いのように星が瞬き、日暮れが早くなったと誰かが言う。
中央広場に出るとレティセンシアは立ち止まり、おもむろにイヴェール城を眺めた。城ではアーノルドのための食事が用意されている頃だと思い出し、一言、早く帰るように言えばよかったと思いつく。
多くの人がレティセンシアの横を通り過ぎていく。その波の中に馬の尾のような髪型をした青年は、見つけることはできなかった。
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