第二章 次期国王と暗殺者
一 猫を被っても時に剥がれる
秋晴れとは言いがたい薄曇りの空ではあったが、厳しい冬の寒さを告げるにしてはまだ風が優しい。木々の葉は恋をする少女のごとく色を変え始めた。あとひと月半もすれば、母体とも言える枝からその身を散らすだろう。昨年は王の死を予兆していたのか、あまり天候に恵まれなかった。長い冬に備え城下の民はもちろんのこと、イヴェール城内も次第に慌ただしくなり始めていた。
カーテンの隙間から朝日が差し込むと同時にレティセンシアは目覚めた。昨夜の動揺に対する余韻は残っていたが、言われた以上はやるしかないと身支度を始める。
護衛としてならば動きやすい方が良いと、昨夜の黒い祭服を選んだ。その上から背に燭台の刺繍されたやはり黒い法衣を着込み、腰に銃帯を兼ねたベルトを締める。ベルトは腰の下まで届く法衣に隠れて傍から銃の類は見えなくなる。城内で武器を持ち歩くのは咎められる可能性はあったが、護衛である以上戦うための武器は必要だ。何より正体を知られたとはいえ、暗殺を諦めたわけではない。
レティセンシアは客間を出て、一度儀典室の司祭たちの部屋へ向かった。小間使いとして来た以上司祭たちの身辺の世話も己の仕事だ。それに護衛を頼まれたのは昨夜の事で、彼らはまだ何も知らされていないだろう。
司祭たちは教会の生活習慣と同じように既に身支度を整え、朝の祈りを捧げているところだった。事情を話すと彼らはどこか安堵した様子で護衛の件を容認した、式典の準備は二人だけで十分だとも。
朝食の時間にはまだ早い。アーノルドには翌朝からと言われたが、正確な時間を聞いていなかった。廊下を行く女中に彼の寝室を尋ねたが、仮にも部外者であると教えてはもらえなかった。
しかたなく客間に戻るか、一度アーノルドの執務室まで行ってみるかと東西を結ぶ廊下を歩いていれば、まさにアーノルド本人が執務室の方から歩いてきた。昨夜の衣服とは違う初対面の日と同じ白を基調にした服は、改めて見ると装飾も少なく動きやすさを重視しているように思える。それが彼の武器なのか、珍しい東洋の「刀」と呼称される剣を持っていた。
「おはよう。なんだ、早いんだな」
レティセンシアが声をかけるよりも早く、アーノルドから声をかけてきた。口調は気取っておらず、本性を見られた以上レティセンシアの前で猫を被るのは辞めたということだろう。昨夜のことに触れる様子はないにしても、無かった事という雰囲気ではない。
ならば己も隠す必要はないと軽い会釈を交え挨拶を返せば、彼は一切物怖じせずレティセンシアの肩を叩いてきた。
「ちょうどいいや、ちょっと付き合ってくれないか?」
「……どちらに」
「朝の体慣らし、来い」
昨日と違い、今度はアーノルドの数歩後ろを影のように付いて歩く。
前を見ればアーノルドの長い鉄紺色の髪が肩の辺りから一本の三つ編みに結われ、歩く度左右に揺れている。白い服とは反対に暗い色の髪であったが、彼に陰気さを感じることはなく、性格に起因しているのだろうが、アーノルドの纏う雰囲気は光のように明るい。
己には無いものを感じ、レティセンシアは日の光を見るように目を細める。彼が王となりこの国を治めるのならバルデュワンは安泰だろう、その未来が来さえすれば。
「この辺りでいいか」
しばし言葉無く歩き、アーノルドが立ち止まる。数歩離れたところでレティセンシアも止まり、辺りを見回した。
内城門を出て連れてこられたのは城の外郭でも裏の方だ。外城門のある場所と違いこちらに人気は無く、城壁の向こうは静かな森林と山が続いている。日が出始めた時刻であったが僅かに肌寒い。風が吹く度に周囲の木々が揺れ、人の囁きのような葉擦れの音がした。耕した跡も無いのに地面の一部から雑草が消えている。
「レティセンシア」
臆することなく名を呼ぶ声に周囲から視線を戻せば、アーノルドがこちらを見ていた。右の肘まで覆う使い込まれた革の手袋を嵌めながら、彼は言葉を続ける。
「お前武器は持ってるか?」
「一応持っております」
「よし、ならいい」
アーノルドは手袋の具合を確かめ、レティセンシアの答えにか満足げに笑った。それから左の指を口元に当てたかと思えば、突如、鳥の鳴き声にも似た高い音が響き渡る。長く、大きな指笛を三回。そうしてアーノルドはじっと空を見つめ始めた。
時の間、風のさざめきが大きくなった。
影が二人の頭上を行き交い、真っ直ぐアーノルドの下へ降りてくる。強い風圧がレティセンシアを襲い、髪と法衣を揺らした。
風と共に羽を広げ舞い降りたのは一羽の大鷲。
「今日も元気だな! ゾエ、食事は済んだのか」
人が1人すっぽりと覆えるほど大きな黒褐色の羽衣の翼を広げ、大鷲は二人の間に割って入ってきた。橙黄色の鋭い鉤爪を獲物を狙い定めた時と同じ姿勢をとり、アーノルドに向ける。
小型動物はおろか鹿すらも仕留めると言われる爪を向けられながら、アーノルドは怖じけることなく右腕を差し出し止まり木の代わりにと招く。降下の勢いを弱めるために何度も羽ばたきを繰り返し、風と風圧を生じさせながら、大鷲がゆっくりと腕に止まり翼を休めた。体長一メートルはあろう巨体は見るからに重量がありそうだった。しかし、アーノルドは僅かに腕を揺らしただけで物ともせず、大鷲を右腕に携える。
想像を絶する光景に動揺を浮かべたレティセンシアをよそに、彼と大鷲は親しげに戯れる。ゾエと呼ばれた大鷲は大人しくアーノルドの手を受け入れている。端から見てもよく懐いていると感じた。
「しばらくこの近辺見張ってくれ、誰か来たら知らせて欲しい。シェルタはもちろんだけど、レオンと先生が来たら特にな。ゾエ、お前も邪魔するなよ」
ゾエが返事をするように一声鳴く。アーノルドは満足げに笑うとゾエを腕に乗せたまま走り、勢い良く振り被って放り投げた。そのまま大鷲は風に乗り、空高く舞い上がっていく。
「アーノルド殿下、今のは……」
「あぁ、ゾエは俺の……なんだ、家族みたいなもんかな」
頭上で旋回する姿を見上げていたアーノルドがようやくレティセンシアの方を向き、右腕の手袋を外しながら笑う。
「鷲はバルデュワンの国章になってるだろ? 元々お爺様が飼っていたのが由来なんだ。ゾエはお爺様が飼ってた鷲の子ども」
「言葉が、解るのですか」
「俺は解んないけど、ゾエは解ってんじゃないかな。昔からずっと一緒ってのもあるし」
佇むレティセンシアの前でアーノルドが繰り返し体を解し始める。やり取りをしながらでも淀みないところを見るに、日々の習慣なのだろう。全身を指先まで丹念に動かし仕上げとばかりに一度大きく伸びをすると、彼は三つ編みの髪を背に回した。
「さっ、朝飯前の運動に手合わせといこうぜ」
向けられた顔は悪戯を思いついた悪ガキのそれと同じだ。日の光を受け、城内では濃い茶をしていたアーノルドの瞳が僅かに薄く輝き、まるで先に見た大鷲の瞳のようだとレティセンシアは思った。
「……手合わせ?」
「護衛としてお前がどれくらい戦えるのか、知りたいのもあるからな。それとも」
腰から下げた刀を手に、アーノルドがまた昨夜のような不敵な笑みを浮かべレティセンシアを見る。鼻で笑い明らかな挑発を乗せ、彼は言う。
「暗殺者なんて言うほど強くはないか? 俺の武器は一般的な剣より刀身もある。もし飛び道具とか持ってたら使ってもいいんだぜ? それくらいのハンデはやる」
完全に見縊られていた。
レティセンシアはあえてその挑発に乗るように銃帯から吊り下げた短剣を引き抜き、胸の前で逆手に構える。つや消しの施された切っ先をアーノルドの心臓へ向けた。
「馬鹿にしないでください」
自然と瞳が鋭くなる。
「貴方など、これで十分です」
「上等、殺すつもりで来い」
口元で笑いながら刀を引き抜いた。彼の身の丈半分はあるのではないかという長い刃は、その身にレティセンシアを写す。
アーノルドは鞘を脇に投げ、腰の位置で構える。ペンを持つ手は左だったが、剣技は東洋のそれを習い右手で構えていた。
二人の距離は大股で飛んで三歩の程度。
しばし睨み合うように二人は静止する。風も吹かず、呼吸すら許されぬような緊迫した空気が次第に場を取り巻いていく。
遠く、ゾエとは違う鳥の鳴き声が空気を揺らすように聞こえてきた。
先に動いたのはアーノルドの方だ。腰を落とし間合いを一気に詰め、刀を斜め下段から振り上げる。構えた短剣で刃を防ぐも、手に伝わる痺れにレティセンシアは思わず顔を顰めた。
(強い……っ!)
線が出るほどではないにしろ、アーノルドは体つきが判別できる服を着ている。だが、それからは想像もできないほどの力を感じた。その場に甘んじ、何もせず生きてきたわけではない事を思い知らされる。
食えない男だと思っていた。一筋縄でいかないとも予想していた。だが、アーノルドはレティセンシアの想像より上をいった。
レティセンシアは刀を弾き返して後ろへ跳び逃げた。それを追う形でアーノルドが体制を整え、次の手を仕掛けてくる。横に薙ぐ刀をしゃがんで避け、足目掛け剣を繰り出すも、素早く方向を変えた刀に拒まれる。懐へ飛び込むように短剣を突き出せば、それをアーノルドは上体を反らし避ける。そのまま追い込むように腕を横に払ったが、片腕でガードされてしまった。
攻防は完全にレティセンシアが押されていた。スピードは上回っていたがアーノルドからの一撃はなかなかに重い。衝撃に手が痺れ、力を失いそうになる。時折持つ手を変えたが、利き手でない左では防ぐのがやっとだ。
イヴェール城を囲む森の木々が、二人の行く末を噂するようにさざめく。
持久力の無いレティセンシアは、もはやついていくだけで精一杯だった。長期戦は体力の差が有り体になる。確実に自分が不利になるとわかっていた。
(しまっ……!)
短剣を持ち替えるその瞬間を見抜かれた。
アーノルドが力を込め刀を振ったのが判る。
重い刃がレティセンシアの手から武器を奪い、遠くへ飛ばした。
咄嗟に袖の内に隠していた飛刀を出そうするも、その手首をアーノルドの左手が阻止した。手合わせをしていたと思えない強い力が、レティセンシアの手首に食い込んでくる。
嫌な恐怖が背を這い上った。うっすらと汗をかいているにもかかわらず、背中の芯が一気に冷える。
掴まれた手首を振り払おうとすると、逆に肩に痛みを感じるほどの力でアーノルドの方へ引き寄せられた。
眼前に迫るアーノルドの顔。黄金のように輝く濃い茶の隻眼とかち合う。レティセンシアを捕らえた目が細くなり、笑った。
「そんなんじゃ、俺は殺せないぞ」
一転した低くも艶のある声が囁く。薄い微笑を浮かべていた口が、片方だけ高くつり上がっていく。
殺すはずの相手と目が合った。アーノルドの眼球に写る自分の姿を捕らえてしまう。焦燥と怯えに瞳を見開いた姿。動揺の震えが、レティセンシアを襲う。
「っ……!」
視線を逸らすことばかりに気を取られ油断をし、そのままの体で地面に突き飛ばされた。頬に朝露に濡れた草の冷たさを感じる。体制を立て直すよりも早く、アーノルドが刀を垂直にレティセンシアの顔目掛け落とした。
耳の横で土の悲鳴を聞く。僅かに湿った土が鋭利な刃によって抉られる。
手合わせでなければ今まさに、レティセンシアは死んでいた。
「……まぁ、合格かな」
アーノルドが勝ち誇った笑みを浮かべた。だが、よく見れば彼も息を乱している。額から流れる汗もそのままだったが、どこか楽しそうに見えた。
「思ってたよりやるな、長期戦にならなかったら俺が負けてたかもしれん」
刀を引き抜き、アーノルドが右手を差し出す。
その手を一寸見、レティセンシアはあえて手を借りずに立ち上がり、弾き飛ばされた短剣を拾いに行った。頬にべったりと付く前髪を剥がし、何度か頭を振る。
跳ね馬のような心臓の鼓動原因が運動によるものだけではないと気づき、レティセンシアは戸惑いを覚えた。深い呼吸を何度も繰り返し、無理やり落ち着ける。
暗殺は何度もしている。戦いに押される程度で動揺するほど己の精神が弱いと思っていない。ただ、殺す相手の目を見てしまったのがレティセンシアにとって敗因だったかもしれない。
その目が、暗殺を目論む相手に向かって笑うなど……。
二人の戦いを賞賛するかのような葉の擦れる音と共に、火照ったレティセンシアの頬を風が優しく撫でていく。ずいぶん長く戦っていたように思えたが、太陽の傾きはほとんど変わっていなかった。
「さーて、飯食うか」
体を解しながら歩き出したアーノルドの後ろに付いて、レティセンシアも歩きだす。何度も腕を伸ばし肩を回している姿をから、僅かながら苦戦を強いていたのだろう。その事実に微かな満足感を覚える。一方的に負けるだけというのは、レティセンシアとて許せるものではない。
「俺、今日の午後は街の方に出かけるけど、お前どうする?」
前を歩いていたアーノルドが振り返りレティセンシアを見た。戦いの余韻も抜けたのか、剣呑とした雰囲気は彼の表情から姿を消している。
首を傾げ答えを待つアーノルドに、レティセンシアは不思議そうに問うた。
「どうと、言われましても」
「来るのか来ないのか聞いてんだよ。式典準備の手伝いするなら別に来なくてもいいけど」
「護衛ですから。ご一緒いたします」
レティセンシアの返答は意外だったのか、アーノルドは一瞬目を見開き何か言いたげな顔をした。開かれた口は内心を素直に吐露することはなく「そうか」とだけ呟いて、彼は再び前を向く。
おかしな事を言ったつもりはない。
レティセンシアは僅かに首を傾げ、アーノルドを追って歩き出した。
* * *
風の音を聞きながら待つことどれくらい経っただろう。
別れる間際告げられた場所は先ほど手合わせをした城の裏手。指定の時間よりも早々に、レティセンシアはアーノルドを待っていた。
城内を歩いている最中に省庁で働く貴族や近衛騎士隊とすれ違ったが、誰一人レティセンシアを呼び止める者は居なかった。戴冠式を前に城内の空気も張り詰めていると思っていたが、存外そうでもないようだ。
「お前早くね? いつから居んの」
現れたアーノルドの姿は見覚えのあるお忍びのそれ。昨夜は驚愕のあまり印象に残っていなかったが、右目の傷を隠し、髪型を変えるだけでずいぶんと雰囲気が変わる。初めて会った時の印象も違ったのだ、アーノルドは身分や素性を偽ることに慣れているのだろう。
聞かれた問いにレティセンシアは答えなかった。しばし返答を待つ素振りを見せたが返ってこないと判ってか、アーノルドがひとつ、ため息をつく。
「まぁいいや。行くか」
そうして二人は人目を避け、裏門から出た。
外城壁の外は手入れなどされていない自然の森で、整えられた道は裏門から伸びる一本のみ。
アーノルドはあえてその道から外れ、獣道を行く。歩きづらい道であったが物ともせず進む辺り、日ごろ抜け道として利用しているのだろう。案の定西門よりもずいぶんと城に近い外壁に、人が一人通れるほどの穴が空いている。ちょうどレティセンシアの胸の高さまであるベリーの木に隠れており、側で注意して探さなければ誰も抜け穴に気づかないだろう。
抜け穴を通ると一転し、外の静けさが薄まる。
イヴェール城と城下街を繋ぐ跳ね橋の前には広場があり、抜け穴はその周辺に立ち並ぶとある一軒の貴族の邸宅側にあった。
道を抜け、蓋をするように植木を整えた後アーノルドが歩き出し、その後をレティセンシアは付いて行く。行き先は告げられなかったが、レティセンシアも自ら聞きはしなかった。
6日後に迫った新王の戴冠式を前に、広場はいつもと違った賑わいに溢れている。国章である月桂樹の輪に囲まれた鷲の文様を織り込んだ布を軒先に掲げる家が多い。織物が主産業のバルデュワンでは珍しい光景ではないが、はためく緋色の布と金糸はどれもみな艶のある滑らかな光沢を放ち、その美しさにはやはり目を見張らざるを得ない。
その様子をアーノルドはただ静かにじっと見つめていた。顔の半分を黒い眼帯で覆っているため、何を思い、その様子を見つめているのか表情から伺うことはできない。
「……この光景を、父上と見たかったな」
独り言のようにぽつりと囁かれた言葉。
それはアーノルドの心の片鱗を垣間見るような気がした。
夭折したレイモンド王の死は謎が多く、レティセンシアも知るのはただ「急死した」ことだけ。数ヶ月もすればバルデュワン公国の建国式典が行われる頃だった。病気を患っていたなど可能性はいくらでもあったが、親子として一番近くに居たのはアーノルドだ。謎の多いその死に対する好奇心が無いといえば嘘になるが、彼が何も言わないのであればレティセンシアも聞くつもりはなかった。
「っにしてもすげぇよな、これ全部アーノルド殿下1人のためにやってるとかさ。俺もなー、ちょっとくらいおこぼれに預かれりゃいいんだけどな」
へらりと笑い振り返ったアーノルドの言葉の意味を理解できず、レティセンシアは僅かに眉を顰めた。
城前の広場から真っ直ぐ伸びる中央広場への道を行く。先を歩くアーノルドは終始首を動かして周りを見、観光でもするかのように街の様子を楽しんでいた。
中央広場から南門の方へは商業施設が立ち並んでおり、広場よりも人の通りが多い。道幅はそれなりにあるが、人とぶつかることもままあった。
時折アーノルドが商店を覗き、店主と言葉を交わし声を上げて笑う場面を眼の当りにしたが、店主が彼の正体に気づいているかは判断しかねた。
広場から南西側は、裏通りに入ると治安の良い区域ではない。犯罪者が蔓延っているわけではないにしろ所謂スラム街と呼ばれる通りがいくつかあり、物盗りが目を光らせ、表立ってはいないものの娼館が数件立ち並ぶ。可能であれば近づかないに越したことはないと考える人も居るくらいだ。スラム街は北方にある軍事国家の支配下に置かれていた時代の名残とも言えた。平和になったとはいえ、貧富の差が埋まったわけではない。
商業通りを抜け、アーノルドが西門の方へと曲がった。治安の悪さを彼が知らぬとも思えない。仮にも後日大事を控えている人間が闊歩して良い場所ではないだろう、今まで何も言わず付いて回っていたレティセンシアであったが、さすがに苦言を呈するしかなかった。
「あの、アーノル」
その名を最後まで口にすることはなかった。正確にはできなかったと言うほうが正しい。
今まで前を歩いていた彼の顔が眼前にあり、手袋を嵌めた手がレティセンシアの口を塞いでいる。表情は一切変えていないが、目が笑っていない。
「見りゃわかるだろ、正体隠して来てんだよ。次その呼び方してみろ、お前の首跳ね飛ばすぞ」
レティセンシアの耳元に口を寄せ喋る語調は不機嫌そのもの。
表情に似合わない物騒な言葉に思わずレティセンシアは目を丸くした。次期国王のくせに脅す姿が堂に入り過ぎている。いったいどれだけの顔をその内に隠しているのか、驚愕を通り越し尊敬の念さえ浮かんできた。
答えられない口の代わりに首を数度縦に振ると、アーノルドはおどけた様子で手を離し、笑った。
「っていうかいちいちフルネームで呼ぶとか面倒だろ、略称でいいよ。俺もお前のことレティって呼ぶし」
「ですが」
「レティ」
ほんの少し眉尻を下げ、アーノルドが笑う。左手を人差し指だけ立て、向けられた。
言葉無くも彼の言いたいことが伝わり、レティセンシアは困ったように苦い顔をし、口角を下げる。
「……っ殿下」
「名前で呼べって」
「これ、以上は……」
「あーもー、律儀なんだか頑固なんだか……いいや、外で呼ばないよう気をつけろよ」
彼は笑いながらも呆れたようにため息をつき、再び歩みを進める。
馬の尾のようにふらふらと揺れるひとつ結びの後ろ頭を見やる。高い位置で結ばれたそれは自分でやっているのか、結び方はお世辞にも綺麗とは言いがたかった。
例えようにも無い気持ちに口元を歪めたまま、レティセンシアは彼の後に続いた。
夕方近くの酒場は人で賑わっていた。下町とスラムの間にあるためか客の出入りも激しく、若い女店員は足早に店内を駆け回っている。石造りの壁に木の床とテーブルが数多く並び、奥に鎮座する荒削りの岩で作られた暖炉には既に火が入っていた。
勝手知ったる様子でアーノルドは入り口の左脇にある大きなカウンターの中の主人に手を振り、レティセンシアを指さす。
年齢にすると四十ほどだろうか、耳の後ろに申し訳程度の黒髪を残した主人はアーノルドを見ると珍しそうに目を丸くした。
「今日二人なんだ、隅のテーブルいいか?」
「連れとは珍しいじゃないか、アル」
「いいだろー」
「いくら別嬪だからって男連れて良いもねぇだろ」
息子と親と言ってもおかしくはない年齢差だったが、二人は気兼ねする様子もなく冗談を飛ばし合い笑う。店員たちもアーノルドの顔を見知っているのか、テーブルに付くまでの僅かな間に声をかけてくる者が多かった。誰も彼が次期国王だということを知らず話しているのだろうか。
飄々とした様子でやり取りを交わすアーノルドの様子を見ているうちに、レティセンシアは僅かな頭痛を感じ始めた。
「どうした」
「いえ……貴方のような方が、このような場所に出入りするなど世も末だと、思いまして」
「うるさいなー、情報訊くにも手っ取り早いんだよ!」
唇を尖らせ怒りを体現するアーノルドを見ていると、次期国王としてその名が知れた人物だととても思えなかった。今は正体を隠しているために多少言動を作っていることもあるだろうが、それにしたって彼からは緊張の欠片も感じ取れないのだ。
壁際の席に向かい合う形で座ると、アーノルドはメニューを見ることなく店員を呼び、あれこれと注文を伝える。
城に戻れば料理人が作る夕飯もあるだろうに。レティセンシアには何も聞かなかったが、彼は当たり前のように料理を注文していた。
呆れた視線に気づいたのか、アーノルドがレティセンシアの方を見る。
「お前も何か食べたい物ある?」
「結構です、味が判る方ではないので」
「じゃあいいか、後で食いたいのあったらまた頼めよ。ここの芋の釜戸焼きが美味いんだよ、たまに食いたくなる」
料理が来るまでレティセンシアとは言葉を交わず、アーノルドはずっと酒場の中を見回していた。時偶手を振り返す先が普通の客だったこと事もあり、随分と馴染みの店のようだ。もしかしたら暗黙の了解として言わないだけで、皆彼の正体を知りながら接しているのではないか、そう考えてしまう。
「先にお酒の方、お待たせしましたー」
アーノルドと同じように栗毛を後頭部でひとつに纏めた少女がテーブルに寸胴のグラスを二つ置く。透明な物と違い真鍮製のそれは、外から液体本来の色が判別できない。
何か混入しても、気づかれないのではないか。
やってきた好機にレティセンシアの肌がざわりと粟立った。
「新王の戴冠式近いけど、それ以外でなんか面白いことない?」
アーノルドが少女に尋ねる。
「目立ったことはないかなぁ。ただ去年は天候が悪かったから作物の育ちが悪いでしょ? 今年ちょっと冬を越すのが辛いかもしれないから、その辺り新しい王様が何かしてくれたらなーって思うけどね」
「あー確かに、雨が結構続いてたな」
「大きく見積もってだけど収穫量が二割くらい落ちたって、この間農業組合のおっちゃんたちがそこのテーブルで悲嘆にくれてんの。店が湿気るったらありゃしない、他所でやって欲しいわ」
「言うな言うな」
アーノルドは酒を運んできた少女と話し込み、レティセンシアへの注意が疎かになっている。
目を逸らしている隙に遅効性の毒薬を入れてしまえば、アーノルドは気づかずそのまま飲み干すだろう。目だけを動かし周囲の様子を探れば、皆それぞれ自分の料理と尽きることの無い笑い話に興じている。レティセンシアを気にする者は誰もいない。
隠し持っている毒薬を袖口から手のひらに落とす。アーノルドと少女の話が尽きる前にと、そっと手を動かした。
「またなんかあったら呼ぶわ」
「毎度、ごゆっくりー」
アーノルドから情報料を受け取った少女は手を振って他の客の下へ駆け寄る。己の前に置かれていたグラスの中身を見て、アーノルドが小さく「あっ」と声を上げた。
「悪い、こっちが俺のだ」
そう言い、彼はレティセンシアが手を出す前に、互いのを入れ替える。
トンッと目の前に置かれたグラスを見つめ、レティセンシアは手の中の毒薬をそっと膝の上に置いた。心の中で小さくついたため息は、落胆と安堵の入り混じったどっち付かずの中途半端さ。
(……入れなくて、良かった)
内心の囁きは、珍しく心の底からの言葉だ。
「なんです、これは」
「何って酒。飲めるだろ? もしかして下戸か」
「そうではなくてですね……」
入れ物は同じだったが中身は違うのだろう、だが結局は彼が飲んでいる物も酒の類だと言外に匂わされる。
しぶしぶの体で僅かに口に含むと、小さな粟立つ刺激と共に喉が熱くなるのを感じた。初めて口にする酒だったが、冷たさもあって不思議と飲みやすい。
「……同じ物ですか?」
「俺のが強いよ、お前のは結構弱いの選んだつもりだけど。駄目なら飲むぞ」
「飲みなれていないだけです」
突っぱねるように言い切り、レティセンシアはグラスを自分の手元に置く。手合わせで負けた後からアーノルドに妙な反発心を覚えていた。完全に彼のペースに巻き込まれていることに気づいていながら認めたくない、そんな気持ちが心の片隅にあった。
角の丸くなった氷が揺れ、グラスの中でカラリと音を立てる。それを見つめながらふと脳裏に浮かんだ思いに、レティセンシアはそっと目を閉じた。
(そういえば、誰かと食事を共にするのは久しぶりだ)
浮かんだ記憶は薄く靄がかかってはっきりと思い出せない。完全に浮かび上がろうとしてくるそれに蓋をするため、レティセンシアは目を開けた。
いつの間にかテーブルの上に料理が運ばれている。
焦げ目のついたチーズが蕩け、鉄板の上で音を立てていた。もうもうと上がる湯気と熱気に当てられ、手元のグラスが汗をかく。鉄板の料理はひとつ、取り皿が二つ。ひとつの皿には既に取り分けられたジャガイモが濃い黄色のドレープを纏い鎮座している。微かに散りばめられた胡椒の香りが、レティセンシアの方にまで漂ってきた。
「まーとりあえず食え! 奢るから食え」
新たに取り分けた方の皿をアーノルドが差し出してきた。料理の熱が回ったせいで皿も熱くなっており、レティセンシアは慌てて自分の目の前に置く。
バルデュワン公国では珍しくない芋の釜戸焼き。それは街の料理場が振舞うような物ではなく、ほとんど家庭料理に近い。王族ゆえに舌は肥えているだろうアーノルドからすれば物珍しさはあるだろうが、レティセンシアとて作れる程度の物だ。見た感じからも騒ぎ立てるほどとは思えない。
「貴方は帰れば食事があるでしょう」
「お前と手合わせしたせいでいつもより腹減るの早かったんだよ。お前の分と合わせてこれしか頼んでない、熱いうちに食えよ」
言いながらも彼の視線はすでに皿の上。年頃の青年らしい食べっぷりで皿の上の芋はあっという間に消えていった。
本音を言えばレティセンシアは食事に対して執着はない。教会ではただ出されるから食べているだけで、自ら食を欲してはいなかった。神の下僕ゆえに慎ましやかな食事であったが、動物を食していけない戒律も無く、国の祭りの日は教会でも鹿肉のシチューが振舞われることもある。まだ成人を迎えていない若い僧たちは喜びに満ちた顔でそれらを口にしていたが、レティセンシアにその良さはわからなかった。何を口にしても砂を噛むようで、あまり味を感じない。
すでに皿を空にしたアーノルドがじっとレティセンシアの方を伺うように見てくる。食べないわけにはいかないようだと、フォークを手に取った。ほんの一口分、口へ運ぶ。
湯気はだいぶ落ち着いていたが、口の中に入れるとまだ熱い。ジャガイモの中に隠れていた水分が中で湯気を上げるのが判り、慌ててグラスの酒を口に含む。蕩けたチーズは濃厚だったが、胡椒の辛味のおかげかくどいと感じなかった。アーノルドが選んだ酒とも合っている。
黙々と言葉無く飲み込み、無意識のうちに二口目を運んだ。
「美味いだろ? まだあるからゆっくり食えよ。飲めそうだったら酒も追加頼んでいいからな」
アーノルドは満足げな笑みを浮かべてグラスを傾ける。鉄板の上のジャガイモはまだ残っていたが、彼は酒を口にするだけで自分の皿へ装おうとしない。
「食べないのですか」
「食べられそうならお前食っていいよ」
アーノルドはそう言うと視線をレティセンシアから外した。肩肘を付いた手で頬を支えながら、賑わう酒場へ目をやる。
そこに浮かぶ表情が見たことのない穏やかなものだと気づき、レティセンシアは思わず盗み見る。まだ二十歳ほどの青年が酒場の人々に向けるその笑みは、まるで子を見る父親のようだと表現するのが相応しい。
彼はこんな顔もするのかと、レティセンシアの心の内に不思議な思いがよぎる。
「どうした?」
「いえ……何も」
随分とあからさまに見つめてしまったようだ、アーノルドが視線を動かしレティセンシアの方を向いたため、慌ててごまかすように酒を飲み、ジャガイモを口に運ぶ。
ごまかしを見抜いてかアーノルドは小さく笑った。
「あんまり一気飲みすると酒回るぞ。俺主人と話してくるから待っててくれ、食いきれなかったら無理しなくていいからな」
グラスを持って立ち上がり、彼は手を振ってレティセンシアの座る席から離れた。
目が届く範囲にいるから良いだろうとその場に残り、卓上の釜戸焼きと皿を見つめる。腹が減ったと言い注文したのはアーノルドだったが、結局食べたのは三分の一程度。鉄板自体はさほど大きなものではない。これが一人前だというのは憶測できたが、元より自分に食べさせるために頼んだのだろうかと若干自惚れた思考がよぎった。
レティセンシアは一度フォークを置き、アーノルドを目で追う。カウンターの主人と話しこむ彼はこちらに背を向け立っているため、今どんな顔をしているか伺うことはできない。脳裏には自然と、穏やかな笑みを浮かべたアーノルドが浮かんでくる。
胸の奥に湧いたざわめきを誤魔化したくなり、レティセンシアはもう一杯だけと同じ酒を頼んだ。
「おいレティ、そろそろ帰るぞ。大丈夫か?」
空になったグラスを手にうとうととしていると、アーノルドが覗き込んできた。
レティセンシアの白い肌が見慣れた色より高潮していることに気づいてか、アーノルドが店員を呼び止め水を頼む。その動作を追うレティセンシアの目は既に座っている。本人は静止しているつもりなのだろうが、先ほどから頭がふらふらと左右に揺れ動き、合わせて彼の長い前髪も揺れた。
どう見ても、酔っている。
「……レティ」
「ふぁい」
「どれくらい飲んだか覚えてるか?」
「そんなに飲んでませんよぅ……ほんの、二杯れす」
教会内で酒の類が出ない事はないだろう。しかし、アーノルドがレティセンシア用にと頼んだ酒は、蒸留酒を薄めた物だったが度数はそれなりに高い。飲みやすさからレティセンシアも油断したのか、ほんのと思いながらも彼の許容範囲を楽に越えてしまったようだ。
「アル……あの、お連れさん大丈夫?」
「いやー悪い、責任持って連れて帰るからさ……」
アーノルド自身、レティセンシアがここまで弱いとは想像していなかった。心配そうに様子を見ていた店員から水を受け取り、誤魔化すように笑う。席を離れたのはほんの十分もなかったが、飲みなれない種類の酒にあっという間に呑まれたのだろう、レティセンシアは心地良さに惚けた顔で天井を仰ぎ見ている。
「……お前、本当に暗殺とかしてんの?」
水を差し出しながら身を寄せ囁いてきたアーノルドに、レティセンシアが反発の声を上げる。
「れきますよぅ」
呂律が完全に回っていなかったが、本人はまったく気づいていなかった。
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