二 まず野兎を捕えよ(料理はそれから)

 夜になるとイヴェール城内は人影を無くし、静まり返る。省庁で働く貴族のほとんどは城下に居を構え、城に住むのは実質公爵家と近衛騎士隊の一部のみ。二階西側に左右五つずつ並ぶ客間もほどんどが今は無人のようであった。戴冠式の前日には、全ての部屋が埋まるだろう。

 窓の外に浮かび上がった月は猫の目のような細さをしている。まだ日の変わりを告げる鐘は鳴っていなかったが、すでに人々は眠りについている頃。準備と慣れぬ城内での緊張に疲れたのか、ただ教会内での生活習慣故か、司祭たちも早々にそれぞれの客間に落ち着いた。レティセンシアが身辺の世話をするほどのこともなかった。

 少ない荷物の中からレティセンシアは黒い祭服と特殊な形をしたベルトを取り出す。左の太股に巻いていたベルトから隠していた黒い鞘の短剣を外し、一度荷の側に置いた。

 暗殺は戴冠式までに。

 油断のできぬ相手と判った以上、機会を探るより闇に紛れ早々に仕掛けるべきとレティセンシアは考えていた。日中アーノルドの周りには誰かしら側に居る。やはり闇が味方する夜こそが、レティセンシアにとって好機の時だった。

 寝込みを襲うだけならばどんな武器でも良い。喉を掻き切れば助けを呼ぶ前に絶命する。声を抑えるなら絞殺もできる。寝台を襲うとなれば羽根の枕は銃殺の際消音の緩衝材となる。銃はバルデュワン公国内で製造はおろかその存在も知られていないため、一番確実で証拠も残らず、レティセンシアへ疑惑の目が向けられることもない。

 謎の多い死に人々はそのまま闇へ――あるいは噂の暗殺者に殺られたと考えるだろう。黒衣をまとい、神に仕えながら「死神」と呼ばれる暗殺者とは思い描きもせずに。

 荷の奥から布に巻かれ顔をのぞかせる金色が目に留まり、レティセンシアは一度身支度の手を止める。太股に所在を置く黒い銃とはまた違う形の金色の銃身。「アズラエル」と呼ぶそれを鞄の中から取り出した。大きさからは想像のできぬ重みが両手にかかる。手入れの行き届いた銃身が室内の小さな灯りを受け、艶めく色で輝いていた。

 ふと浮かんだ標的の顔。真昼に応接室で一言声を交わしただけの青年の命を刈り取りに行かねばと、レティセンシアは手にした銃を短剣の隣に置く。殺すことに理由などない。ただ命令に従えばいいと、彼は思考の揺れを意識の片隅に追いやった。

 ちょうど、その時だ。


「……!」


 体を捻り、視線を天井に向ける。本当に小さな音を聞いたような気がした。しばし鋭い瞳で天井を見つめるも、その後物音は何ごともなかったかのように消え、底冷えのような静けさが続く。耳をすませても聞こえてくるのは、風が窓を叩く音だけ。

 ネズミでもいたのだろうと視線を落とす。昼に着ていた法衣と祭服を脱ぎ、鞄の上に置く。薄暗がりの中、白く骨の細い自分の腕はやけに目についた。先ほど取り出しておいた黒い祭服に手を伸ばした、まさに同じ時だ。


「うわっ!」


 驚愕の声が背後から聞こえた。重い物が落ちた衝撃とレティセンシアが振り返ったのはちょうど同じタイミング。先ほど視線を向けた天井が真四角に切り取られ、黒い闇を見せている。

 そこから僅かに零れる砂埃と床に転がる人の姿を、レティセンシアは服を着るのも忘れ呆然と見つめた。


「ってぇー……」


 落ちるその瞬間にとっさに手を突いたのか、手首を擦りながら首を振るのは若い男。頭の高い位置でひとつに結ばれた長い鉄紺色の髪も、旅人が着る袖のついた外套も埃にまみれていた。しかめっ面をした顔は黒い眼帯で半分覆われている。見える素肌は明るい褐色。

 一見しただけではわからなかったが、注視すれば判る。だが、レティセンシアの中で浮かぶ人物と目の前の人物はどうしても一致しない。それでも他に当てはなく、動揺をそのまま言葉に乗せる。


「何を、なさっているのですか……アーノルド殿下」


 俗に言う「お忍び姿」と呼べばいいのか。真昼に見た姿とは違い、貴族らしからぬ衣服と振る舞いはどこにでも居る若者と同じ。威厳を感じる要素はどこにもない。

 だがどう見ても、バルデュワン公国次期国王、アーノルドその人でしかなかった。

 青年が僅かに見開いた左目でレティセンシアを見返してきた。しばし無言で硬直し、突如彼はレティセンシアを指差す。


「思い出した、レティセンシアだ!」


 人を指差し上げたのは真昼と同じ声。違うというなら、やはり威厳などない。人違いですと言われれば納得したかもしれないが、アーノルドは全く誤魔化そうとはしなかった。


「あーっくそ、天井直さねぇとダメだな。とりあえず蓋しときゃいいか」


 埃を払いながら天井を見つめ、憤りと落胆を混ぜた声で彼は言う。

 レティセンシアは思い出したように上半身を隠すため祭服を掴んだ。アーノルドに背を向け慌てて着るも、背中に無遠慮な視線を感じる。そこに浮かぶ痣の意味を彼が知らないわけはない。


「お前御使みつかいかぁ、何色なんだ?」


 案の定言い当てられ、一瞬体が強張った。

 レティセンシアの背に大きく存在する薄い痣は、ケガや火傷で残る痕とは違う。

 ひとつの車輪に二対の羽の形をし、生まれもって、もしくはある日突如として体のどこかに浮かび上がってくる。それは「御印」と呼ばれていた。御印を持つ者たちは、それぞれ特殊な身体能力や体質を神より授かった所謂「神の使い」。バルデュワン公国に古くから伝わるトロネ碑文の伝承は使いを五つの色に分けているが、外見からその識別は不可能と言われている。「御使い」と称される彼らは基本的にトロネ教会の教徒として神の僕となるのが、バルデュワン公国特有の暗黙の了解であった。

 素直に返答ができず、レティセンシアは思わず口ごもる。

 彼が神の使いでありながら「死神」と渾名される由縁は、まさにその眷属の色が起因している。密命が暴かれるだけではなくその身を捕らえられでもすれば、処刑は免れないだろう。

 だが祭服を見れば一目瞭然だと気づいたのは、アーノルドの言葉を聞いてから。


「お前もしかして、黒?」


(正体を見破られた以上この場で殺すしかない……!)


 荷の側に出しておいたアズラエルを構えアーノルドに向ける。狙いを定め親指を撃鉄にかけた。引き金を引けば、この距離で避けられることはまずない。

 銃を見たのは初めてなのだろう、アーノルドが不思議そうな顔でレティセンシアを見つめてくる。問いに答えないことを肯定と取ったのか、濃い茶の瞳が輝いた。まるで、珍しいものを発見した子供のように。


「立場柄しょうがないっていうのはあるけど、黒と会うのは初めてだな! やっぱり祭服も黒か、一見だと普通の司祭と同じだもんなー」


 アーノルドの素直な感情に向けた殺意が霧散していった。レティセンシアは親指がゆっくりと撃鉄から離し、同時に銃を持つ腕を下ろす。

 アーノルドが再び不思議そうな顔をして、レティセンシアを見た。


「俺、なんか驚かせるようなこと言ったか?」


「……いえ」


 色も御使いのことも知っているならば、アーノルドは碑文の内容を知っている。黒は死と悲しみを連れてくる、そうはっきり書かれていることも。

 御使いたちはその能力ゆえに昔から奇異の目を向けられてきた。だが、神の使いである以上人々は彼らを聖人とし、遠ざけることをしなかった。神はバルデュワンを平和へ導くため御使いを遣わし、その能力は人々を守るためのものと言われている。

 レティセンシアが属する黒、以外は。


「……あなたは、怖がらないのですね」


 囁くように呟いた。その言葉に、レティセンシア自身が驚く。

 レティセンシアが黒と判ると、手のひらを返したように態度を変える人間は多かった。たとえ表面上は変わらなかったとしても、目を見れば人々がレティセンシアにどんな感情を向けているか、わからないわけではない。

 ――畏怖、恐怖、侮蔑。

 碑文のが記すこともありバルデュワン公国内で黒は「死」を想起させる。特に貴族たちの間で黒の御使いは、可能であれば関わりを持ちたくない存在となっていた。

 アーノルドが瞳の色を変え見つめてくる。昼の姿からは想像もできないほどよく変わる表情だと、レティセンシアは思った。


「怖がるって、なんで」


 彼は僅かに首を傾げ、レティセンシアに訊ねる。


「黒の御使いだと知ると、たいがい相手は怯えるか罵倒してくるか、どちらかですから」


 真っ直ぐに向けられる視線から逃れるように、レティセンシアは僅かに俯き、視線を落とす。アーノルドに対して感じる違和感の名称を探すも、答えは出てこない。

 しばらくの間、アーノルドから反応はない。


「……その相手ってのは」


 声のトーンが落ちた。それは真昼に聞いたまさにアーノルド殿下のもの。先ほどまでと打って変わって感情の篭っていない声が大きな拍を置く。


「暗殺の依頼をしてきたり、お前が殺してきた奴らのことか?」


「っ……!」


 動揺が顔と、体の震えという形になってレティセンシアを揺らす。

 アーノルドのからかうような声音に思わず顔を上げれば、彼は口の片側だけ僅かに吊り上げた笑みを浮かべていた。それからレティセンシアの動揺を煽るかのように、喉を鳴らして笑う。


「お前嘘とか下手なんだな、全部顔に出てるぞ」


 馬鹿にされていると判ったが怒りは感じなかった。元より嘘をつくのが苦手なのは自覚してるが、平常心を保ち続けられれば問題はない。たとえ口では嘘をついても、感情が動かなければ心が痛むことはないのだから。


(……食えない男だ)


 暗殺を企てる場では彼を侮る発言が多くみられた。彼らがアーノルドの何を見てそう思っていたのかは知らないが、一筋縄でいくような男と思えない。司祭たちに見せた顔と、今レティセンシアの前に立つ顔とどちらが本当の彼なのか――普通に考えれば後者と思うのが普通だろうが、この男は通例に収まるように見えなかった。

 忍ぶ姿を見られ、レティセンシアが黒の御使いであるということを知っても動じることなく自信に満ちた表情で腕を組むアーノルドを見やる。彼も城を抜け出したことに後ろめたさがあったのか、レティセンシアの正体が解った時も助けを呼ぼうとはしなかった。レティセンシアには好都合ではあったが、今までの様子から何か意図があるのではと勘ぐってしまう。


(だが正体を知られた以上、今後不用意に近づくのは難しくなる……やはり今)


 たとえどんな状況であれ、命令は遂行しなければいけない。今ならば彼も油断している。音も声も出さないように殺さなければと、レティセンシアは悟られぬように腕だけを短剣に伸ばした。


「よし、わかった」


 じっと考え事をしていたアーノルドが声を上げた。

 反射的に伸ばしていた手を引っ込め、彼を見る。


「お前、戴冠式まで俺の護衛やらない?」


 まるで明日の天気の話をするかのような気軽さに一瞬言われた意味を理解できず、レティセンシアは言葉なくアーノルドを見返す。


「暗殺に来るくらいだ、戦いの心得はあるんだろ?」


「え、えぇ……それなりには」


「よし決定、明日の朝から頼むわ。儀典室側にはレオン経由で説明しておくから。どうせ小間使いのフリして俺を殺すのが目的だったんだろ? 身辺の世話って言ったって、やることなんざ高が知れてる。あっ、暗殺の事は伏せといてやるよ、俺も面倒だし」


 当のレティセンシアを話は置いて進んでいく。

 何もかも見通した上で、己の命を狙う暗殺者を護衛として側に置くというアーノルドの心算を、レティセンシアは理解できなかった。


(この王子はただの馬鹿か? それとも……)


 脳内を渦巻く疑念に、レティセンシアは反論の言葉も浮かべる事ができなかった。

 何も言わぬ事を肯定と取ったのか、アーノルドがまた口を開く。


「護衛の間、俺が隙を見せたら殺してもいいんだぞ?」


 まるで教唆するかのような物言いと笑みに、レティセンシアは既視感を感じる。

 昼間に一時見せた意味深な笑み。

 あれと同じだ、と気づいたのは、既にアーノルドがレティセンシアの部屋から退出した後のことだった。


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