第一章 アーノルド

一 能ある鷲はうまく爪を隠す

 白壁と青い屋根が特徴的なバルデュワン公国のシンボルたるイヴェール城。古くから谷間にある城は戦火などの爪痕もなく、建設当時のままを保ち今尚、風の谷と称される山林にその姿を置く。その特異な立地環境から築城当時と変わらぬ外観の美しさは、商人たちの口述により近隣諸国でも名所として注目の的となっている。華美な装飾はないために権威の象徴としては些か迫力にかけると言う貴族はいたが、美しきイヴェール城とそれを守り続けるエルフィンストン公爵家は、バルデュワンの民にとって誇りであった。

 その真昼の城内の姿にレティセンシアは視線を巡らせる。

 元々城内は教皇庁と同じく、関係者以外の立ち入りを禁じている。バルデュワンの民といえどそう易々と招き入れられることはなく、公的な式典でもなければ部外者を入れることはまず無いと言ってもいい。レティセンシアは何度か暗殺や密偵で潜入をしているが、いずれも日の落ちた闇の中に紛れてのことだった。

 正体を偽る長く黒い祭服の下に隠された愛用の小型銃「リドワーン」を、さりげない所作で一瞬だけ服の上から触れる。銃身の短いそれが打てるのは五発。神に仕える教徒ではある、が武術の嗜みはもちろん接近戦に自信が無いわけではない。それでも、レティセンシアにとって十字の護りにも等しい銃は、その姿から想像できぬしっかりとした重みでもって懐に潜んでいた。

 完熟したリンゴのような緋色の絨毯を見つめながら、レティセンシアは国の宰相と儀典室所属の司祭たちの後ろを歩く。ただ、バルデュワンでも珍しい艶やかな漆黒の長い髪とその雰囲気も相まって、まるで彼自身が司祭たちの影のようであった。

 レティセンシアが突如身辺の世話に就くと聞いてか、儀典室の司祭たちは僅かながら動揺していた。

 教会内で立場が特殊なレティセンシアは、普段彼らと接点が無いと言っても過言ではない。その彼が戴冠式典の準備中小間使いとして傍に居る――しかも教会内で教皇の次に身分を置く枢機卿からの計らいだ、司祭たちの戸惑いは前を行く宰相にも伝わっていたことだろう。

 先王の頃より宰相の座に就く男の後姿を伺い見る。齢にすれば四十ほどの身の丈の大きな男で、赤みの入ったブラウンの髪は天然なのか癖がついている。城門での挨拶もそうだったが、内面を見せないようにか、ほとんど変わらぬ表情は無愛想と言ってもいい。貴族の間では一般的な服装であったが、その下に隠れている体躯は文官にしては鍛えているように思える。昨夜の折に噂されていた人物である以上、注意すべき人物の一人だ。

 城内の二階。他所より大きな木製のドアの前で宰相が立ち止まった。


「殿下、儀典室の者をお連れしました」


 重い木を叩く音と柔らかなバリトンの声が重なる。一時の沈黙の後に彼は扉を開け、レティセンシアたちを部屋の中へ促した。

 広い空間、扉と同じく落ち着いた色合いのオーク材で作られた家具が立ち並ぶ中、バルコニーより柔らかな真昼の光が部屋中に差し込んでいる。季節は冬に近づき始めていたが、春の日差しのような暖かさを感じた。

 入り口から真っ直ぐ伸びる絨毯の先に鎮座する大きな使い込まれた飴色の机。その向こう側に、かの標的が居た。

 年はレティセンシアと同じかいくらか下と聞いていが、落ち着いた雰囲気から二十歳前後とは思えなかった。書面に目を落とす姿は様になっている。先王がまだ存命の頃に手伝っていただろう姿を、容易く想像することができた。

 なめらかに動く羽ペンが止まる。顔を上げた部屋の主が、レティセンシアたちに穏やかな笑みを向けた。


「本来ならば私がお迎えにあがりますところ、ご足労かけて申し訳ない。儀典室の方々には初めてお会いしますね、アーノルド=コリン=エルフィンストンです」


 まだ僅かに幼さを残す笑顔だ。執務机に座ったままで身の丈はわからないが、貴族によくあるただの箱入りという感じではない。

 この国では珍しい明るい褐色の肌と、絵筆で描かれたように美しくも強く引かれた鉄紺の眉。同じ色の長い髪は肩の後ろで形は見えぬが結んでいるようだ。それから、近年平和に包まれるバルデュワン公国では目立つだろう、右目を潰す大きな傷。もはや光を見ることはないのか片目は閉じられたまま。

 隠しもしないその傷をレティセンシアは気づかぬうちに注視していた。

 よくよく見れば青年らしい骨ばった手からもただ書物を捲ってきただけではないと伺える。アーノルドがどの程度剣術を嗜んでいるか、憶測することができなかった。


「顔の傷が気になりますか?」


 微かに意味深な笑みを浮かべたアーノルドと目が合いそうにな

る。司祭たちの背後に立って居たため、レティセンシア自身気づかれると思いなかった。視線を一瞬横へ逸らし、そのままゆっくりと宙を彷徨い下方へ落としていく。そうしてレティセンシアは言葉を濁した。


「いえ、失礼を」


「幼少の頃に事故で残ったものです。悪目立ちしますでしょうが、ご勘弁を願いたい」


 隠さないだけの理由があるのか怒るでもなく、かといって自虐を込めるでもなくアーノルドが答える。いつの間にか挨拶をした時と同じ顔に戻っており、一瞬垣間見たあの意味深な笑みが何を意味するのか、レティセンシアにはわからなかった。


「殿下、一言よろしいですか」


「なんだ、レオンハルト」


「事前の話では、教会からは二名と伺っております」


 入室してからアーノルドの傍らに佇んでいた宰相――レオンハルトがレティセンシアたち司祭を一瞥し、小さな声で耳打ちするように提言をする。

 その言葉に、アーノルドの顔が険しくなった。


「一人増えることに関して、教会側から通達はありませんでした」


「何か事情が?」


 疑うように細められた目がレティセンシアたちを探ってくる。進言する身分ではないと黙るレティセンシアを察したのか、前に立つ司祭が少々の戸惑いと共に口を開いた。


「期間中、我々の身辺の世話をさせるためにと、アロンドラ枢機卿からの計らいです」


「どなたが?」


「後ろにおります者です、名をレティセンシアと」


 アーノルドとレオンハルトの視線がこちらへ向いたのがわかる。司祭も余計な事を言わなかった、ならば言葉はいらないだろうとレティセンシアは黙礼を返した。しばしの間、アーノルドが探るような視線を向けてきたが、元より疑惑や奇異の目に慣れているレティセンシアはその視線を受けながらも平常を保ち、表情を動かすことはなかった。


「レオン、客間に空きはあるか」


「一間だけ、ございますが」


「清掃の指示を出してくれ。教会側のしきたりに我々が口出しをするより手慣れた者の方が良いだろう、厨房にも一人分の追加を」


 結論は早く、アーノルドのほうから視線を外した。すでにレティセンシアへの疑惑も頭の隅に追いやってしまったのだろう、追求する素振りも見せない。

 滞り無いアーノルドの指示に宰相は顔色ひとつ変えず、肯定の意を述べ頷いた。

 儀典室の司祭たちも城側が納得すれば良いのか、特別異論は唱えなかった。

 普段の密命に多い夜半のみと違い、白昼堂々と城内を歩くことができる。闇夜の中でばかり活動を続けてきたレティセンシアに、その事実は微かな違和感を感じさせるだろう。王子の戴冠式までは城内を一人歩いていても不審に思われることがない上に、今までとは比較にならないほど暗殺の好機は増える。儀典室の司祭たちはレティセンシアの本来の目的を知っているわけではないが、それでも立場は同じ教会側の人間。彼らがレティセンシアの立場を陥れる理由はどこにもない。東の国の言葉にある「敵を騙すにはまず味方から」とは、上手く言ったものだと思った。

 アーノルドが再び手元の羊皮紙へ視線を落とす。しばし何か考え込み、再び顔を上げた。


「城内で何か困ったことがあった場合は遠慮なく女中などにお申し付けください。式典に関しては私か、こちらにおりますレオンハルトに」


 公的な場でアーノルドが主導権を持つのは初めてのことだろう。萎縮も動揺もせず、堂々とした振る舞いはこれが王者になる者の器かと、レティセンシア自身思わず感心してしまうほどだ。

 だが、それも長くは続かない。時は戴冠式までにと言われているが、機会さえあれば早々にその命はレティセンシアに奪われるだろう。己よりも若く、栄華に満ちた将来を約束されていながら、その立場故に命を狙われるとは哀れなものだ。彼にはなんの恨みもないが全て命令されたことだと、レティセンシアは心の奥底で呟いた。

 自分には、何一つ関係のないこと。


(考える必要などない。私は命令に従うまで)


 目の前で交わされる司祭とアーノルドたちのやり取りを見やり、レティセンシアは再び視線を落とした。廊下の物とはまた違った風合いの緋色が目に飛び込む。その色も、明日には忘れてしまうだろうと思った。


「それでは、戴冠式までよろしくお願いいたします。レオン、お前は少し残ってくれ。昨日の書類でいくつか話がある」


 アーノルドが卓の隅に置かれた真鍮製の小さなベルを鳴らす。小鳥の鳴き声のような小さく軽やかな音を聞きつけ、奥から一人の女中が現れた。廊下からは判らなかったが隣接された小さな控室があるようだ。

 アーノルドの側まで寄り言伝を聞くと、三十代半ばの柔和な笑みを浮かべた女中が「こちらへ」とレティセンシアたち司祭を促す。ブルネットの金髪を揺らし女中が部屋の主に一礼をすれば、彼は僅かな笑みと共に一度こちらを見、再びレオンハルトと書類を手に話し込み始めた。

 その横顔をもう一度だけ目の端で盗み見て、レティセンシアは司祭たちの後に続き、執務室を退出した。


* * *


 四辺に塔を設えたイヴェール城は一階と二階が公的な場として使われている。一階玄関の正面奥にある謁見や公式の場で使われる玉座の置かれた大広間を中心とすれば、先ほどまで居た城主の執務室は城の東側に位置する。

 頭の中にコンパスと地図を描き、レティセンシアは部屋の位置を改めて確認した。

 今までと違い今回の狙いは一週間後に王となる者。ならばその警護も厳重なものとなり、易々と近づくことはままならぬだろう。アーノルド本人の武術の力量も見極められなかった以上、彼自身にも油断はできない。当然のことながら暗殺の証拠を残す事は許されない。

 不自然なほど自然な死をアーノルドに与えるには……。

 漣もたたぬ静かな思考の海を、レティセンシアは探り続ける。

 扉を潜り、抜け出た廊下から窓の外が見えた。玄関の真上が東西を結ぶ通路となっており、中央には大きな両面開きの扉がひとつあるばかり。閉じられた扉の奥が何になっているかは判らなかったが、階下と同じく大きなひとつの部屋であることは想像できた。

 西側から一人の男が紙の束を手に歩いてくる、四十ほどの背丈の小さな肥えた男だ。宰相よりも僅かに派手な色味の衣服を纏う彼は、女中たちに連れられ歩くレティセンシアたちを一瞥し、目つきを変えた。畏怖を込めレティセンシアを睨む。女中が頭を下げたが、男は返事を返さなかった。

 視線に目を向けることなく、レティセンシアは静かに司祭たちの後ろを歩く。そうして男の横を通り二歩、過ぎたところで左腕を強く引かれた。腕の方に顔を向ければ、弾力しか感じない男の手がレティセンシアの腕を掴んでいる。


「しくじるなよ、死神」


 低く潜められた聞いたことのある声。

 だがレティセンシアの頭の中に、その男の記憶はなかった。


「トライシオン様、何かございましたか?」


 先を歩く女中と司祭が不思議そうに立ち止まり、振り返っている。突き飛ばすようにレティセンシアの腕を解放すると、男――トライシオンは笑うことなく


「書類を、落としただけだ」


 と答えた。その後はレティセンシアを見ることもなく、城の東側へ向かって歩き出す。

 掴まれた箇所が僅かに男の手の形でしわになっていたが、レティセンシアは整えることもなく、再び司祭たちの後に続いた。


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