流れ星の恋
吉冨諒
姉と弟
子供の頃の、不思議な夢。
流れ星が落ちたのを拾った。
白く光る星はとても泣いていたけど、僕はそいつを姉ちゃんへのおみやげにした。
***
「うわー、痛そう」
ベッドに横たわる緑の顔には大きな白いガーゼが貼りついていて、小さな頭の半分ほどを覆い隠していた。
僕はベッドサイドの椅子に腰かけると、痛々しい彼女の姿を改めて眺めた。
「信号無視だって?」
「そう、びっくりしちゃった」
緑はかけらも驚いていないようにのんびりとした口調でそう言う。
「大したことないんだけどね。大げさにされちゃって」
「大したことない顔でも怪我はしないほうがよかったんじゃないの」
「馬鹿」
緑が怒ったように振りかぶった手をかいくぐった。それくらいの元気はあるんだな、と少しほっとした。
緑――姉が交通事故に遭ったと知らされたのは、ほんの2時間ほど前だ。緑が自転車で帰宅中、信号無視で突っ込んできた軽自動車に跳ね飛ばされたのだという。授業中にそれを知らされて慌てて病院に飛んできたが、検査だの治療だので会わせてもらえず、やっと顔を見ることができた。どんな状態なのか想像もつかず、固い椅子の上で彼女の無事だけを祈り続けていたが、いざ会ってみれば思ったよりもかなり元気そうで拍子抜けしてしまった。
「頭打ってるらしいから一泊はしなきゃいけないみたい」
緑はどこか他人事のように言って、細い手でガーゼを撫でた。
「叔母さんがいてくれて助かったよ。保険とか警察とか、一人じゃなかなか大変だっただろうから」
「俺もなんか手伝う?」
「子供にしてもらうことはないよ」
「ガキ扱いすんなよな」
「中学生は子供です」
姉ちゃんだって高校生のくせに――という言葉を飲み込む。姉は平然を装いながら、どこか疲れたような表情をしていた。
「……なんか欲しいものとかないの」
「あら優しい。雨でも降るのかね」
30分ほどそんな他愛のない話をして、緑に急かされるように僕は病院を後にした。
***
『お姉ちゃん大丈夫だったの』
「うん、ちょっと頭打ってて顔に怪我してたけど、命とかそういうのは大丈夫みたい。明日には退院するって」
『そっか、よかったね』
「ありがとう」
帰路の途中、電話の相手――晴菜は、僕の彼女だった。初めての彼女で、今日付き合い始めたばかりだ。
「なんか疲れたよ」
昼休みに晴菜に告白されて、夕方に緑の事故を知らされて。今日は色々ありすぎた。
『早く寝たほうがいいよ』
「うん、そうする」
緑の命に別条のないことを知って緊張から解放されたせいだろうか、疲労感が大きかった。本当はできたばかりの彼女ともっと話したほうがいいような気もしたし、晴菜の可愛い声をもっと聞いていたい気持ちもあったが、早々に電話を切り上げた。コンビニに寄って夕食にカップラーメンを買い、誰もいない家に帰りついた。
5年前に両親が他界して以来、僕と緑はほとんど2人きりで生きてきた。本当は施設に行く予定だったと後に聞いたが、独身の叔母が保護者に名乗りを上げてくれたおかげで免れたのだ。両親と暮らしてきた家を引き払うことを緑が嫌がったため、少し前まで叔母が一緒に住んでいた。叔母は面倒見がいいといえばいいのだが、気まぐれなところもあり、まるでペットのように僕らを愛するので少し苦手だった。
その叔母に交際相手ができて、結婚という話が持ち上がったのは去年の話だ。高校に進学したばかりの緑が「たまに面倒を見てくださったら十分です」と啖呵を切って、叔母と別居することになった。叔母は「悪いねぇ」と悪びれることもなく僕らを置いて行ってしまった。
「いいじゃん、2人でもさ」
ごわごわのチャーハンを拵えて開き直るようにそうつぶやいた緑の顔。もしかしたら少し泣いていたのかもしれない。
まるで世界に緑と僕の2人だけが取り残されたような気がして、当時8歳だった僕も彼女と一緒に泣いたような記憶がほんのりとあった。
***
「ヒロ、大事な話がある」
翌日の昼に退院してきた緑が、僕が帰宅するなりそう言った。小さな和室はいつになく片付いていて、退院して早々に彼女が掃除をしたことがうかがえた。
緑が真面目腐った顔で「まあ座ってよ」と言うので、僕はなんとなく圧倒されながら座布団を引き寄せて腰を下ろした。
「なに?」
「あのね、私、七夕に死ぬから」
……………
たっぷり5秒ほど、僕は口を聞けなかった。
「は?」
辛うじて、一音だけ声が出た。
「だから、七夕。明後日には、死ぬの」
緑は至極真面目な顔をしていた。
「……姉ちゃん、頭打っておかしくなったの?」
「姉ちゃんはまともだよ――ん、いや、実はだいぶ前からだいぶおかしいの」
姉がおかしくなってしまった。きっと頭を強く打ったからに違いない。病院に電話をしたほうがいいのか、それとも叔母のほうに――
「説明するより見てもらったほうが早い気がする」
姉が小さな手でガーゼをむしり取った。
僕は息を飲んだ――白い頬に赤いヒビが縦横に走っていて、その隙間から黒い穴がのぞいていた。穴の向こうにはあるはずの骨や肉がなく、ただの空間で、そう、まるで陶器が割れたようなそんな見た目をしていた。
「5年前に、何があったか覚えてる?」
緑は淡々と言葉をつなげた。
「……父さんと母さんが死んだ」
「そう。そのとき私も一緒に事故に遭って、本当は死んでた。車の事故で、皆一緒に死んでたの」
黒々とした穴から、ひゅう、と空気が漏れたような気がした。
「私の正体は流れ星なんだ。ヒロが拾って、緑の穴に入れた。あのときは――そう、お腹が破れてて、そこから。あんたがあんまり泣くから可哀想になって、私は緑になることにした」
僕は目を閉じ――開けて、姉の顔にまだ穴が開いているのを確認した。どうも夢ではないらしい。
「えっと、だから、姉ちゃんの皮かぶった流れ星ってこと?」
「そう、理解が早いね。さすがは私の育てた子」
姉の顔は真面目で、とてもふざけているようには見えなかったが――
「それなんのマンガの話? 特殊メイク?」
真に受けるほど僕も子供ではない。今日はエイプリルフールでも何でもないのだ。事故に遭った翌日に自ら余命宣告をするなど、悪質にもほどがある。
「認められないならそれでもかまわないよ。最初から信じてもらえるとも思ってない」
緑は少しだけ悲しそうに笑った。
「でも私は七夕の日に死ぬから。明後日までは仲良くしてね」
その顔があまりに切なく見えて、僕は少しだけノってやってもいいかな、という気持ちになった。
「流れ星だとしてもさ、別に七夕に死ぬことないじゃん。なんか理由でもあるの?」
「昨日、失恋したの」
話が、飛躍した。
「……はい?」
「昨日失恋したから、もう生きる気力を失くしたの。ヒロもずいぶん大きくなったからね。私がいなくてももう大丈夫。だから空に帰ることにした。七夕の日には空の門が開いて、地上に落っこちた流れ星が空に帰ることできるからね、もういいかなって」
「もういいかなって……なにそれ」
冗談にしてもずいぶん質が悪い気がした。
まだ姉ちゃんに死んでほしくない。僕を捨てないでほしい。しかし冗談でもそれを口にできるほど僕は幼くなく、反抗期の少年にはハードルが高すぎた。
緑は優しく笑って「今日はチャーハンだから」と赤くひび割れた頬にガーゼを貼り直してからキッチンに姿を消した。
その日のチャーハンはいつもよりおいしくできたと彼女は言ったが、味などわかるはずもなかった。
***
僕と姉は同じ中高一貫校に通っている。窓を開けるとグラウンドを挟んだ向こう側に高等学部の学舎が見えた。
「おっ緑先輩。もう出てきていいんだ」
休み時間に窓からグラウンドを眺めていた同級生、高島が姉を見つけて声を上げた。
「顔怪我してんの?」
「うん」
「めっちゃ美人なのに可哀想」
見遣ると、体操着に着替えた緑の姿が見えた。今日は見学するらしく、グラウンドの隅の日陰にちょこんと座って、授業の準備をする同級生たちを眺めている。元々色白で華奢な姉だが、今日は殊更どこか儚げな風情に見えた。
昨日あんな話をしたのに、今朝の緑はいつもと何も変わらなかった。いつものように朝食を作って、いつものように天気の話をして、いつものように一緒にバスで通学――しようとして、途中で晴菜と出会って、気付いたら緑は他人のような顔をしてそっぽを向いていた。愛想がないのか気を遣ってくれたのかわからない。
「そういや、大貫が緑先輩に告ったって?」
「何それ、知らない」
自分の同級生が姉に告白したというセンセーショナルな話題なのだからもっと興味を惹かれてもいいはずなのだが、昨日の姉の告白のインパクトのほうが強すぎていまいち心を動かされない。しかし高島はそんな僕の心情など気づきもせず、軽く興奮をにじませて続ける。
「ずっと前から好きな人がいるからごめんなさいって言われたって」
「へぇ」
「緑先輩、誰が好きなのか知ってる?」
「いや……えっ、好きな人??」
急に、音声がクリアになったような気がした。
「緑先輩にはずっと好きな人がいるんだってさ。知らねぇの?」
「うん……姉ちゃんとはそんな話しないから」
「なんだよ、つまんねー」
改めて、緑をまじまじと見てしまう。先ほどとは別の意味で、緑が別人になってしまったような気がした。
緑は「私はヒロくんのママだから」と常に言っていたし、幼いながらもそういうふうに振舞っていた。ママじゃないしと反発しながらも、どこか母のように認識していたから、姉を女としてみることができなかったのかもしれない。思えば緑も高校2年生なのだから、恋の一つもしていておかしくないだろう。4歳年下の自分にだって彼女がいるのに。
妙に生々しいショックがあった。
(誰だろう……同級生とかかな)
ふと、自分が緑の友人関係をほとんど知らないことに気が付いた。緑が友人と遊びに行くことはほとんどないし、学校が終われば部活も何もせずにさっさと帰宅してくる。考えてみたら当然だが、家事をしなければならないためだ。
緑の犠牲の上に自分が自由に暮らしていることを認識させられ、僕は急に気分が落ち込んだ。
***
その日帰宅すると、緑の姿がなかった。高等学部は今の時期、期末試験なので早く終わっているはずなのに。彼女が言った日ではないはずなのにそわそわしてしまい、つい電話をかけてしまったがつながらなかった。
緑が帰ってきたのは17時を少し回った頃だった。手にスーパーの袋を持っている。
「叔母さんに話してきた。まあ驚いてたよ」
「流れ星だって言ってきたの?」
「うん、びっくりしてた」
まだその話題を引っ張るんだ……と呆れたが、ふとそこで昨日見た黒い穴を思い出してしまう。信じられない気持ちが9割、残りの1割で、少しだけ信じてしまうような気持ちになっていた。
「でも叔母さんはほら、あんたがお腹の穴から私……流れ星を入れてるところ見たからね。わりと早く信じてくれたよ。私が死んだあとの相続なんかの手伝いを頼んできた」
「はあ……」
呆れてものも言えない僕を尻目に、緑はキッチンに立つと食器を洗い始めた。
「流れ星でも死んだら相続っているんだ」
「そりゃ、肉体はあんたの姉だからね」
揶揄してみたが、緑の背中からは真面目な声が返ってくる。
もしかしたら壮大なドッキリを始めたはいいが、辞め時がわからなくなってしまったのかもしれない。
――がちゃん、と音がした。
「あっ割れちゃった」
「大丈夫かよ」
「うん、ちょっと滑っただけなんだけど……困ったな……」
コップでも割ったのだろうか。僕は片づけをするつもりで姉のそばに歩み寄り、その白い左手の指が、親指と小指を残して砕け散っているのを見た。
「えっ、ちょっと、ええ?」
「気を付けてたんだけど、気力が萎えたら急に脆くなっちゃった」
緑の口調は淡々としていた。
「ごめんね、あんたのお姉ちゃんの体なのに」
「ちょっと待って……どういうこと?」
「昨日から言ってるじゃない。もう死ぬよって」
緑は一瞬憐れむような表情をした。
「火葬すれば多分燃えると思うんだけどね……私が入っちゃったあと、腐りそうなものはどんどん置き換えていったからどうなるかわかんない。人間じゃないみたいで、ほんとうにごめんなさい」
「……なんだよそれ!」
僕は知らずに怒鳴っていた。驚いた様子の緑に、しまったと一瞬思ったけれど、言葉がそれでも止まらない。
「本当に流れ星だっていうんなら、本物の姉ちゃんはどこ行っちゃったんだよ!」
「だから……ヒロ、あんたのお姉さんは5年前に死んだんだよ」
「だったら! 俺は姉ちゃんにさよなら言えてないじゃん! 姉ちゃんが死んだのに仏壇も墓もなくて、誰も手を合わせたりできなくて、姉ちゃん放って置かれてるってこと?! 体もよくわかんないことになってるのに、お別れもできなくて、姉ちゃんが成仏できてなかったらどうするんだよ!」
緑の言うことが事実でも事実でなくても、とにかくもう我慢がならなかった。僕は彼女の顔を見ていることができず、和机を蹴とばしてひっくり返し、自分の部屋に駆け込んだ。緑が追いかけてこようとする気配があったが、結局彼女は来なかった。
何も考えられなかった。晴菜からの着信にもメールにも返すことができず、僕はどんどん暗くなっていく部屋で膝を抱えている。
***
「……ヒロ、晩ご飯できた」
「いらない」
「そんなこと言わないで……あんたの好きなもの作ったからさ」
そう言われてしまうと、どうしても情が出てしまう。
僕はまんまと部屋から連れ出され、居間で姉と向かい合って食卓を囲んだ。彼女の言う通り、ハンバーグにから揚げにカレーにと、見事に僕の好きなものしか並んでいない夕食だった。
「ヒロは覚えてないだろうけどさ」
左手の無事な指で器用に持った味噌汁椀を空にして、緑はぽつりとつぶやいた。
「私ね、落ちこぼれの流れ星なんだよね」
話に脈絡がない。いつもなら苛立つところだが、そのときばかりは僕は無言で彼女の話を聞いていた。
「本当は地球に落ちてくる予定じゃなかったんだけど、ついね、綺麗な星だなって見てたら引力につかまっちゃってさ。みんなに置いてきぼりにされて、気付いたら落ちてた。あのままだったらただの石ころになっちゃうところだったんだ、私。それで落ちたところで馬鹿みたいに泣いてたら、可愛い男の子が来てね、怪我をしたお姉ちゃんを元気にするお土産にするって言って掬い上げてくれたの。それがあんた。
でもそのお姉ちゃんはもう死んじゃってて、何も言ってくれないってあんたがすごく泣いちゃってね、こんな可愛い子を泣かせちゃ駄目だって思ったのよね。だから、お腹の穴から私を入れてちょうだいってお願いして、あんたにそうさせて、私は緑ちゃんになった。ヒロのお姉ちゃんになった」
「……流れ星拾ったの、夢だと思ってた」
不思議と気持ちが落ち着いていた。彼女の欠けた手の、黒々とした空洞を見てしまったからかもしれない。
ああもう僕の姉はどこにもいなくて、ここにいるのはあの白く光る流れ星なんだと、納得している自分がいた。
「そっか、覚えてくれてたんだ」
少しだけ嬉しそうに笑う緑の笑顔に、ふと胸が痛んだ。
「あのさ、明日が最後なんだろ?」
「ん? うん、そうだね」
「何かやっておきたいこととかないの」
どうしてそんな言葉が口をついたのか――もう自分でも自分の気持ちがわからなかった。
「そうだなぁ。ヒロと一緒にいたい。学校さぼっちゃおうか。どうせ死んじゃうんだから試験も何もないし」
死ぬと言いながらも、ずいぶんあっけらかんと笑うものだ。それもそのはずで、彼女の言葉がすべて真実だとすれば、彼女は死を迎えるわけではなくただ単に空へ帰るだけなのだ。
「ああそうだ。ヒロ、花火見に行こうか」
「花火?」
「うん、白石川の花火。去年も一昨年も行けなかったでしょ」
小学生の頃、雨のために花火に行けなくて駄々をこねた記憶がよみがえってきて、少し気恥しくなった。
「ああでも、そうか、あんたは今年彼女と行くのかな」
「なんで知ってんの……」
「そりゃああんたのことは何でも知ってるよ。姉ちゃんだもん」
そういえば、晴菜とは花火デートしようという約束をしていたことを思い出した。しかし今はできたばかりの彼女よりも、明日消えてしまうという儚い星のほうが重要であるように思えた。
「いいよ。晴菜とは来年行けばいいから。姉ちゃんも花火見たいんだろ?」
「いいの? 実は超見たい」
浴衣着ちゃおっかな、と笑う姉の姿を見て、置き去りにされてしまう自分ばかり寂しい思いをしていることに少しだけ腹が立った。
***
先日交際を始めたばかりの晴菜と、さっそく喧嘩別れしてしまった。
「姉ちゃんの体調が悪いからいけない」と送ったメールに対して、怒涛の抗議があったために僕の気持ちが冷めてしまったからだ。
決定打になったのが「シスコンなの?」の一言だった。いくらなんでも事故に遭ったばかりの姉がいるのをわかっていながら、そしてその姉と2人きりの家族であることを知りながら、あんまりな発言だと思った。
電話越しに「他の人と行くからいい」と思いやりのかけらもない一言を聞いて、じゃあそうすればいいと返した。それで終わった。
短い恋だったが、今にして思えばこれが恋かどうかもわからなかった。
翌日学校をさぼることに決めたのは、ある意味で幸いだったのかもしれない。
最後の1日だというのに、緑は普段と変わらない日を過ごそうとしていた。朝食を作り、洗濯をして、掃除をして、昼食を作った。おやつにとホットケーキを焼いた。居間に転がってゲームをして、たまに僕に無理やりやらせたりした。他愛もない話ばかりしたような気がする。
いつもどおり。消えるようには思えなかった。
夕方になって軽食を作り、2人で食べたあと、緑がどこからともなく男物の作務衣を引っ張り出してきた。
「去年の花火大会用に買ったんだけどまだ着られる? あんた背が伸びたからねぇ」
この1年で10㎝近く背が伸びたためにやや丈が短くなってはいたが、不格好にはならなかった。
緑は浮かれたように化粧をして、欠けた手で器用に紫の朝顔の浴衣を着た。まるで男とデートに行くような風情に見えて、僕は「姉にはずっと好きな人がいる」という話題を思い出してしまう。
(本当は好きな人と一緒にいたかったんじゃないか)
「姉ちゃん、あのさ」
「なにー?」
少女じみた表情で袖を揺らしてくるりと振り返る彼女を見ると、それ以上言うことはできず、
「いや、化けたなと思って。化け物だけに」
「うっせ。なによ、今頃美人だって気付いたの?」
顔の半分を白いガーゼに覆われていても、はっきりとわかる、色白の美貌はまるで姉でないようで少し寂しかった。
***
突然の豪雨が、花火大会を中止に追い込んだ。僕らはずぶ濡れになって、シャッターの閉まった商店の軒先に逃げ込む。
「ヒロ! あんた雨男なんじゃない?」
「俺のせいかよ」
ざあざあと雨の音が響いている。通行人は逃げまどい、あっという間に付近は無人になってしまった。
まるで世界に2人きり取り残されてしまったような、懐かしい感覚が胸を包んだ。
夕日が完全に沈み、あたりは暗闇に包まれる。雨の止む気配はなかった。
あと何時間、2人でいることを許されるのだろう。僕は傍らにたたずむ緑を見やる。彼女は濡れそぼった浴衣の袖を残念そうに絞っていた。
「あのさ」
なんとなく、聞いてみたいことがあった。
「なに?」
「大貫が姉ちゃんに告ったって本当?」
びっくりした、という目で彼女がこちらを見上げた。
「何で知ってんの」
「噂になってた。ずっと好きな人がいるからって断ったんだろ。誰だよ、それ」
なるべく冗談めいて聞こえるように言ってみた。
緑はあちゃーと欠けたほうの左手でガーゼ越しに頬を叩いてみせた
「うん、まあ内緒、っていうのも水臭いか。もう最後だし。うん、えっとね、地上に来たときから心に決めていた男性がいたのよ。うん。だからあの子には悪いけど、お断りさせてもらったの」
「心に決めていた男性? 誰それ」
もしかしたら、その男に見とれて地上に落っこちたんではないだろうか。そんなことをふと考えた。
「それは、ほら、想像に任せるよ」
「何だよそれ」
「まあ、一生物の思い出だよ。好きな人がいるっていいよ。人生が潤う」
緑は一人でうんうんと頷いて、年寄りのようなことを口にした。
「でもその人に振られたから割れちゃったんだろ」
「あー、うん、そうなの。恥ずかしい話なんだけどね、彼女ができたって聞いてから頭がぐちゃぐちゃになっちゃってさ、ぼんやりしてるところを車に轢かれちゃって、気力が萎えたっていうのかな、そこから体が治らなくなっちゃった」
それで事故に遭ったのか、と腑に落ちた。
「そんなに好きなら奪っちゃえばいいのに」
「いいんだよ。どうせ結ばれない恋なんだから」
「まあ姉ちゃんじゃなー、がさつだしなー、嫁にいけそうにないし」
「うっせ」
悲しそうに笑う緑を見ていられなくてついついいじってしまう。言葉の意味など、深く考えはしなかった。
「ヒロも彼女さん大事にするんだよ」
「あー……それはいいんだ。もう別れたから」
緑の丸い目がさらに丸くなった。
「それ、もしかして、私のせいかな。今日無理に付き合わせたから」
「姉ちゃんは関係ねえよ」
口調がぶっきらぼうになってしまい、これでは緑が原因だといってしまったも同然だった。
「そうかぁ……悪いことしたね」
「だから、関係ないって。姉ちゃんは空に帰ったらいい男見つけろよ」
「うん、そうだね……」
会話が途切れてしまった。
姉が、迷子の流れ星が、可哀想でならなかった。
地上に一人ぼっちで落ちてきて、悲しい思いをして、そのまま割れようとしている。空に帰れば、少しは幸せになれるのだろうか?
暗い夜の闇の中、ざあざあと雨音だけが響いている。雨脚が弱くなる気配はなかった。
「ヒロ、あのさ」
沈黙を破ったのは緑のほうだった。
「なんだよ」
「私、いいお姉ちゃんだったかな」
「……そうだったと思う」
「そうか。少しでも、私のこと、今でも好きでいてくれる?」
「…………うん」
「そっか」
中身が何であれ、頬と手に穴が開いていても、やはり彼女は僕の姉でしかなかった。
「ヒロ、私ね、欲しいものがあるの。その代わり、とびきり綺麗な花火見せてあげるから」
「別に見せてくれなくていいよ。なんでも持っていけよ」
「そう? じゃあ遠慮なく、もらっちゃおうかな」
にっ、と笑って、緑が顔のガーゼをむしり取って地面に捨てた。浴衣の裾と袖を翻して、まるで踊るように雨の中に飛び出して、満面の笑みで、
「ヒロ! 5年間ありがとう! あんたが大好きだよ! もう空になんて帰れなくていいかなって思っちゃうくらいには好きだった! これからも幸せにね!」
あ、と手を伸ばした。
指先が緑の左の欠けた手をつかむ。ばり、と割れて、細かい破片だけが手に残った。
彼女は大きく笑い、そうして、
真っ黒な雨雲が埋める空に、一筋の光が伸びた。
どん、と大音量とともに、細かな光が打ち上げ花火のように雨を押しのけて降り注いだ。
白い、白い、まるで流星群のようにたくさんの流れ星が――
***
「――雷に打たれる確率は177万分の1なんだって。今宝くじ買ったら当たるんじゃないの」
病室の椅子に腰掛けた叔母がずっと喋り続けている。よく疲れないものだと思いながら、僕はベッドに横たわったままたまに相槌を打つ。左頬を火傷したようで軽く突っ張るような痛みがあった。
「彼女にフラれて、傷心のまま一人で花火見に行って雷に打たれて? 面白すぎるわヒロくん」
「それ笑うところ?」
「笑わなきゃやってらんないでしょうよ!」
突然笑ったり泣いたり怒ったり、表情がよく変わる女性だ。
「あのね! 私はまた家族を亡くすところだったのよ。姉さんも義兄さんも緑ちゃんもいなくなって、あんただけが家族なの! わかってんの?」
「……うん、わかってるよ」
わかっている、のだろうか。
僕はあの日、雷に打たれて倒れていたところを救急搬送されたらしい。
5年前の交通事故で家族を失ってたった一人生存した男の子が、今度は落雷で死にかけたという事故は、それなりに地元マスコミの注目を集めたらしく、さっきまで取材がきていたらしい。ずいぶんと不躾な記者だったと、叔母は憤りを隠しもしなかった。
「ああそうだ。これ、なに?」
サイドテーブルに置かれたビニール袋を叔母が指差した。
「あんたが握り締めてた、お皿の欠片? 一応取っておいたんだけど」
袋越しに、白い小さな陶器の欠片が目に入った。
「どうしたの、ヒロ。なんで泣いてるの」
「……わかんない。わかんないけど」
どうしてこんなに胸を締め付けられるんだろう。
「叔母さん、俺、一人じゃなかった気がする」
「そうよ、叔母さんがいるじゃない。お友達だって」
「そうじゃなくて。ずっと誰かが一緒にいてくれた気がするのに、俺は何にも覚えてない」
袋を握り締める。鼻の奥が痛い。白い欠片がちくりと手のひらを刺して、私はここにいるよ、とささやいたような気がした。
流れ星の恋 吉冨諒 @noranekoya
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