妖は月下を駆ける
澤田慎梧
妖は月下を駆ける
夜。不気味なほど明るい満月に照らされた城下は、ひっそりと静まり返っていた。
平時ならば、居酒屋に酒好きの男衆が集い、与太話を肴に酒を呷っているはずの時間である。にも拘らず、通りには人の姿は殆どなく、多くの店がその木戸を固く閉ざしていた。
そんな人気のない町中を、歩く者が一人。男――大小を腰に帯びた、若い武士である。提灯の明かりを揺らしながら、伴の一人も連れず、月下を闊歩している。
男の名は
剣豪と名の知れた父にはまだ遠く及ばないものの、将来を嘱望される若き剣客であった。
その若き剣客が、今は悲壮な表情を浮かべていた。「寄らば斬る」と言わんばかりの迫力に、ただでさえ少ない通行人が、十郎太と出くわした途端に逃げていく始末である。
しかし、通行人達のそうした反応は、実は正鵠を得ていた。
十郎太はまさしく、これから人を斬らねばならなかったのだ。先日から城下を騒がせている「辻斬り」を――。
***
「辻斬り」が最初に現れたのは、
はじめに犠牲となったのは、十郎太の同門にして幼馴染である
喉を一突き――それが市之進の死因であった。しかも市之進は抜刀しており、刀には何度か斬り結んだ痕跡があったという。
つまり、完全な不意打ちではなく、下手人と剣を交えた上で敗れたことになる。
『市之進ほどの男が……信じられん』
市之進は、十郎太に勝るとも劣らぬ使い手であった。それが、ただの辻斬り如きに敗れるわけがない。市之進を知る人々は、皆そう口にしたが――事実、その辻斬りは只者ではなかった。
その日を境に、城下に名を轟かす剣客達が、次々と犠牲となっていったのだ。いずれも月の明るい夜に、やはり喉を一突きにされ、絶命していた。
下手人が一向に捕まらぬまま、一月が過ぎ、二月が過ぎた頃……積み上げられた亡骸の数は、両手の指で数え切れぬほどに膨れ上がっていた。
『これはおおよそ人の仕業ではない。
城下の人々がそう噂し始めたのも、無理からぬことだった。
並み居る剣客を常に一太刀で仕留めてみせるその力量。
加えて、奉行所総出での捜索にも拘らず、影も形も捉えられないその神出鬼没。
それが妖でなくて何だと言うのであろう、と。
曰く、天を衝くほどの大入道であるだとか。
曰く、腕が四本あるだとか。
曰く、戦国の世を生き延びた妖刀の化身であるだとか。
曰く、邪法で蘇った新免某であるだとか。
いずれも荒唐無稽な噂話ばかりであったが、積み上げられていく夥しい数の亡骸を前にしては、与太話と一笑に付す気もなれない。人々は、次第に恐怖という名の妖の虜となっていった。
***
一人歩きながら、十郎太は市之進の通夜の様子を想い返していた。
咽び泣く市之進の母。肩を震わせる父。そんな二人を気丈に支える、市之進の許嫁であったお凛――十郎太の妹。
その痛ましさを思い出し、十郎太の中に改めて「妖」への怒りが湧いた。
同い年の十郎太と市之進、二つ歳下のお凛は、幼き頃より共に遊ぶ仲だった。
父母の目を盗んでは、刀に見立てた木の枝で、剣術の真似事にいそしむ日々。あの頃から、市之進はお凛を好いていた。
だが――。
『わたくしよりも弱い殿方のもとへは、決して嫁ぎませぬ』
それがお凛の口癖であった。大きな黒い瞳を輝かせながら、よく市之進に言っていたものだった。
というのも、幼き頃のお凛は非凡なる剣の
二つも歳下のお凛に軽くあしらわれる――二人にとっては、この上ない屈辱であったことだろう。だが、その屈辱が、二人を剣の道に邁進させるきっかけとなったのも、また事実であった。
特に、市之進の努力には目覚ましいものがあった。
道場へ上がる前から鍛錬を欠かさず、道場へ上がってからは誰よりも熱心に修練に打ち込んだ。
天稟はわずかに十郎太の方が勝っていたものの、二人の実力は伯仲。全ては、市之進の情熱の賜物――お凛に認めてもらえる男になるという強い想い故。
お凛も、そんな市之進の情熱を好ましく思っていたのか、自らは小太刀の手ほどきすら受けることなく、常に市之進を支える側に回っていた。
――その市之進が殺された。衆人環視の堂々たる決闘の末ではなく、誰の目もない月夜の晩に、「妖」と恐れられる辻斬りによって。
十郎太と語った将来も、お凛と紡ぐはずであった人生も、全てが失われた。
(――許さぬ。決して許さぬぞ、「妖」!)
十郎太の表情が、ますます険しさを増した。
***
十郎太が月夜の城下を闊歩するようになったのは、一月ほど前からのことだ。言うまでもなく、「妖」をおびき出す為である。
実は、十郎太と同じようなことを考えた者は少なくない。「妖」の噂を聞きつけた荒くれ剣客達である。
「妖」を自らが討ち取って名を揚げようと、夜の城下の一人歩きをする姿が、この一月ほど目立っていたのだ。
だが、それは亡骸の数を増やすだけの結果となった。「妖」にとっては恰好の的であったことだろう。
日々、姿を消していく荒くれ達。その光景を前に、十郎太は「次こそは自分の番だ」と意気込んでいたのだが……待てども待てども、「妖」は現れない。
あまりにも現れないので、「もしや自分は『剣客』と認められていないのか?」と、自信を失いそうになるほどであった。
しかし、今宵はどうやら様子が違った。
(……血の臭い、か?)
夜風を伝って、十郎太の鼻孔に生臭さを帯びた鉄の臭いが届く。そう遠くはない。通り一本隔てた程度に思われた。
――駆ける。提灯と月の光だけを頼りに、夜の城下を駆ける。
韋駄天もかくやというその健脚により、夜の闇をすり抜けるように、十郎太は駆けていった。
――そして。
「――っ!? そこを動くな!」
十郎太は、「妖」と出遭った。
***
「妖」は、月明かりの中、十郎太に背を向けて佇んでいた。黒一色の頭巾と装束に身を包んでいる為、一見すると影法師のようでもある。
――その姿は、思っていたよりも小柄で華奢であった。まるで女子供のようである。
足元には、「妖」の犠牲となったであろう武者がうつ伏せに倒れていた。
刀を握りしめたまま、体を時折ビクッと震わせているが……既に息絶えていることだろう。男の喉元からは、土が吸いきれぬほどの夥しいまでの血潮が、今も流れ出ている。
男が持っていたらしき提灯が地べたに倒れ、主の亡骸を虚しく照らし出していた。
「……そこを、動くな」
もう一度、十郎太は静かだがよく通る声で「妖」に呼びかける。同時に提灯を手放し、いつでも抜刀できるよう鯉口を切る。油断はない。
「妖」が、ゆっくりと振り返り――十郎太の顔が驚愕の色に染まる。
(小太刀で
確かに、達人ともなれば小太刀で大刀の相手も出来よう。だが、今まで「妖」に屠られた猛者達もさる者。得物の不利を抱えたまま、容易に討ち取れる相手ではなかろう。
――つまり、「妖」は噂通りの化け物に相違なかった。
「覚悟せい、辻斬り。この前川十郎太が成敗してくれる」
言いながら抜刀し、すり足で間合いを詰める十郎太。
一方の「妖」は、慌てた様子もなく懐紙で丁寧に小太刀に付いた血糊を拭っている。
(舐めおってからに。まずはその面、拝んでくれようぞ!)
更に間合いを詰める十郎太。
――と、その時。不意に、斬り捨てられた男が持っていた提灯が燃え上がった。蝋燭の火が燃え移ったらしい。
炎が、「妖」の姿を月明かりよりも強く照らし出す。
「――なっ!?」
十郎太の顔が、再び驚愕の色に染まる。
炎に照らし出され浮かび上がった「妖」の顔。両の眼以外は頭巾に包まれて分からぬが、その眼が問題だった。
大きく黒いその瞳に、十郎太は見覚えがあった――否、十郎太が決して見誤ることのない瞳であった。
驚愕する十郎太の前で、「妖」が口元を覆う布をずらし、
そこに現れたのは――。
「馬鹿な……何故だ、何故だ! 答えろ、お凛」
紛うことなき十郎太の妹、お凛の顔であった。
***
「……何故、とは?」
兄に辻斬りの現場を見られたというのに、お凛の声は震えもせず、鈴の音のような美しさを湛えていた。
「全てだ! 何故、こんな所におる! 何故、血の付いた小太刀など持っておる! 何故、そのようなおかしな恰好をしておる! 言え!」
一方の十郎太は、混乱の極みにあった。
状況から考えて、「妖」の正体は十中八九お凛であろう。だが、何故? お凛が辻斬りを――ましてや許嫁である市之進を殺める理由など、皆目検討も付かない。
「……これは異な事を。見て分かりませぬか、兄上様? 巷を騒がす辻斬り『妖』、その正体がこの
「――では、何故辻斬りなどいたした! 何故……、何故、市之進を……殺めた……」
十郎太は、こみ上げそうになる嗚咽をこらえながら、お凛を問いただした。
幼い頃のお転婆は鳴りを潜め、評判の美人となっていたお凛。それが、何故。何故、自らの許嫁を、幼馴染を殺めたのかと。
「それこそ異な事を。私はただ、約定を果たしただけでございます」
「……約定、だと?」
「ええ。昔から申し上げていたでしょう? 『わたくしよりも弱い殿方のもとへは、決して嫁ぎませぬ』と」
「……っ!? ま、まさか……」
十郎太の背筋に冷たいものが走る。
「ええ、ええ。市之進様に、勝負を持ちかけました。……けれども、あの方は約束を違えたのです。『戯言を申すな』と、一笑に付したのですよ? あまりにも取り付く島がないものですから、私も腹を立ててしまって……ええ、この頭巾と装束で正体を隠して、あの方を襲ったのでございます。
――ですが、ええ。全くの期待はずれでございました」
***
「期待はずれ……だと?」
「ええ。賊相手だというのに、市之進様は軽くあしらわれるおつもりだったようで……まったく、気の抜けた剣筋でございました。三合も斬り結ぶ頃には真剣になられたようですが、私もう飽きてしまって……つい本気を出してしまったんです
喉を一突き。こう、えいやと刺しましたら、それまででございました。長年楽しみにしておりましたのに……それはもう、呆気なく」
言いながら、いつもと変わらぬ可憐な笑みを浮かべるお凛。その凄絶な美しさは、まさしく妖怪変化のそれであった。
「……では、では他の者達は? 市之進との尋常な勝負が目的だったというのなら、他の者達を襲う理由があるまい!」
「ああ、それですか……。ええ、市之進様があまりにも呆気なかったものですから、『あれま、私実はとっても強いのでしょうか?』等と思いまして……。城下の腕自慢の皆様にお相手をしてもらって、確かめてみようと思い至ったのございます」
「なっ!? お主、自らの腕を測る為に、あれだけの人々を斬ったと申すか!」
「はい。それ以外に何か理由が必要でございますか?」
――今度こそ、十郎太の理性は限界を迎えようとしていた。
目の前にいるのは、妹のお凛などではない。正真正銘の妖怪変化、魑魅魍魎の類としか思えなかった。
それも、人々に仇なす
ならば、武家本来の務めを果たす他ないだろう。十郎太は静かに、己の心を殺し始めた。
「相分かった。お凛。否、『妖』よ。城下を騒がす悪鬼羅刹、この前川十郎太が斬り捨ててくれるわ。覚悟せい!」
「なんと! 兄上様が剣を馳走してくださるのですか? これは僥倖! ――私、昂ぶってしまいます」
月光が見守る中、兄と妹が――否、若武者と妖が、互いに切先を向けあった。
***
(――
十郎太は静かに瞠目した。
手堅く正眼に構えた十郎太に対し、お凛は無造作に小太刀の切先を向けただけであった。だが、刹那の後にお凛の姿はかき消すように十郎太の視界から消え去り――気付けば、すっかり懐に入られていたのだ。
十分に間合いを取っていたにも拘らず、十郎太は虚を衝かれてしまった。
だが、十郎太もさる者。とっさに首元を守り、お凛の鬼神の如き刺突を凌ぐ。
火花が散り、それが消える頃には、お凛の姿は元居た場所へと舞い戻っていた。まさに化生の如き動きである。
「あは、あはははははっ! 防いだ。防ぎましたか、兄上様! 流石でございます!」
「――お凛。そなた、その剣どこで覚えた? 父上の小太刀術ではないな?」
「これは異な事を。私の剣術は私のもの。誰に教わったものでもございません」
なんということか。お凛は、天稟のみによって、この恐るべき剣を身に着けたのだという。
「成程。人の理ではなく、妖――いや、野の獣の
「獣で結構。その獣に敗れるのですよ、兄上様は!」
その言葉通り、しなやかな獣のようにお凛が駆ける。
右へ左へ。虚実の動きを織り交ぜながら、十郎太を翻弄するように間合いを詰める。その姿はさながら、獲物を追い詰める狼のようだ。
上かと思えば下、右かと思えば左。変幻自在の斬撃が、十郎太を襲う。
――だが、十郎太はつとめて冷静に、その一撃一撃をいなし、受け流し、あるいは弾いてみせる。
縦横無尽の攻防は、実に八合に及んだ。
***
「――どうした、お凛。この兄を仕留めるのではなかったのか?」
「なんの、まだまだこれからにございます」
ニタァと、喜びに満ちた笑みを浮かべるお凛。
それも無理からぬことであった。今まで襲った剣客達は、三合も打ち合わぬ内に絶命していた。お凛をここまで楽しませたのは、十郎太が初めてであったのだ。
だが――。
「……たわけが。お凛、そなたの底が見えたわ。『これから』などない。次の一太刀で始末をつけてくれる」
恍惚としたお凛とは対照的に、十郎太の表情も声も冷めきっていた。
「……減らず口を。ようございます。私も本気を出しましょう」
十郎太の言葉を挑発と受け取ったのか、お凛も一切の表情を殺し――駆けた。
初太刀の時よりも更に疾い、まさに神速の踏み込みであった。十郎太の目には、お凛の姿が消えたとしか映らなかったことであろう。
しかも、此度はただ間合いを詰めたのではない。お凛は一呼吸の内に、十郎太の背後へと回り込んでいた。
正面を向いたままの、隙だらけの十郎太の背中に、お凛の凶刃が迫る。
(取った!)
お凛が勝利を確信した、その時――十郎太の背中が消えた。
(なっ!?)
驚愕するお凛。手にした小太刀は空を切り――その刹那、お凛の胴を灼熱の一閃が駆け抜けた。
「斬られた」と気付く間もなく、お凛の体は地面に強かに打ち付けられる。薙ぎ払われた腹から、夥しいまでの血潮が吹き出す。
「あっ……な、何故……?」
何事が起こったのか理解出来ぬまま、血の海に沈んだお凛が喘ぐ。
「簡単なことだ。我が剣の理が、そなたの天稟を上回ったまでよ」
何でもない事のように答える十郎太だったが、勝負は紙一重であった。
秘伝「陽炎」――前川の家に伝わる絶技が十郎太の命を救った。仔細は省くが、いわゆる「後の先」を取る返し技である。
十郎太の父の言によれば、「人を惑わす魔性を討つ為に編み出された剣」だという。今日の今日まで、十郎太はそれを戯言だと思っていたのだが、ようやく信じる気になれた。
お凛の剣は、まさに魔性のそれであった。おおよそ、人の世の常識が通じるものではない。
人と人との戦いを想定した術理では、太刀打ち出来なかっただろう。並み居る剣客達が遅れを取ったのも、無理はなかった。
「……流石は、兄上様です……。ああ……でも、兄上様に嫁ぐわけにもいきませぬ、ね?」
虫の息になりながらも、そんな軽口を叩くお凛。
「……たわけめ。市之進は俺などより強かったわ。お凛、そなたは市之進に勝ったつもりでおるようだが、それは見当違いが過ぎる。――俺が気付いたのだ、あやつがそなたの正体に気付かぬはずがないであろう? あやつは最後まで、本気を出さなかったに相違あるまい」
――その言葉は、果たしてお凛に届いたのか。気付けば、お凛は既に息絶えていた。
「この……たわけが」
夜空を見上げる十郎太の頬を、一筋の涙が伝う。
月だけが、それを見ていた。
(了)
妖は月下を駆ける 澤田慎梧 @sumigoro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます