第3話 六ペンス亭にて
カラ、カラと軽やかなベルの音を立ててドアを開くと、
「あらルース、いらっしゃい」
とカウンターからライラが声を掛けてくれる。Lの字型のカウンター席の半分は埋まっていて、テーブルも二卓は人が座っている。
ふむ。水曜日の夜八時にしては、まあまあの繁盛ぶりじゃなくって? ついつい私が経営者みたいなチェックとしてしまうのは、デイビッドが亡くなって、跡を継いだメイを手伝っていた頃の名残ね。もう私なんかが口出ししなくったって、立派にやっていけると分かっていても、つい、ね。
私は空いたカウンターの端のストールに座る。
「いつものでいいわよね。仕事は終わったの?」
ライラは素早い手つきでカウンターを拭き、氷とジンのグラスとトニックの小瓶を並べた。ちらりと目の端で確認すると、当然ジンはダブル。良い子ね。よく分かっているわあ、と言うとライラはにっこり笑ってウィンクしてみせた。
小さい頃から知っている子は、幾つになっても可愛く思えるの。立て続けに三人も子供を産んでからすっかり太っちゃってもね。十八歳までは、ウエストなんて木の枝みたいにほっそりして、溜め息が出るような美少女だったのだけど、ねえ。
「あらあ、ルースじゃないの。久しぶりねえ!」
と、少しわざとらしいほど高い声で、カウンターの反対側から呼びかけて来たのはサリーだったわ。まだ早いのに、随分酔いが回っているみたいね。今朝、村の肉屋で愛犬のクリスタル(コーギー)とお買い物中に遭遇したのに、すっかり忘れちゃったみたいね。でも私はにっこり笑って、
「本当、久しぶりね」
と言ってあげるの。内心では、サリーの赤毛のボブカットのあざやかな切り口を妬ましく睨みつけていたのだけど。このところ急ぎの仕事が続いて、美容院に行く暇なんてなかったのだもの。だらしなく伸び切って忌々しい私の髪と来たら••••••! それに比べてサリーが二週間と空けずに町のヘアサロンに通っているのなんて、一目瞭然だわ。
ふん、どうせ仕事に行く訳でもないくせに。なんて例え胸の中でも毒づいてしまうのは、私の心が狭いからよ。
「相変わらず、毎日大勢殺しているんでしょう?」
なんて、知らない人が聞いたらギョッとするようなことを、大声で言ってくれるわ。
「おかげさまで。今日も二、三人まとめてぶった切って来たところよ」
「ふーん。ところで、お宅の新しい秘書の子は? 一緒じゃないの? あ、彼氏のところ?」
「そうかもね」
と私は適当にあしらう。酔っ払いなんかまともに相手していられないわよ。
そこへカラン、カランと扉のベルが鳴ったわ。私の時より音がいい気がするけど、気のせいかしら?
「ごめんなさい。遅くなってしまって」
「あ、メイ。お帰りなさーい!」
明るく迎えたライラに、メイ両手に抱えた重た気な段ボールを隅のテーブルに置くと、にっこり笑い返した。
「その箱、何が入っているの? 重たそうねえ」
「あら、ルース。ほら、見て。美味しそうでしょう?」
と、メイは蓋を開けると、みずみずしいレタスや小振りの玉葱、ズッキーニや水菜、食欲をそそる野菜が詰まっていた。
「あら、綺麗ねえ。直に買い付けて来たの?」
「ええ。無農薬なんですよ。明日の食材にって思ったのだけど、こんなに美味しそうだったらキアラも食べてくれるかも」
「相変わらず偏食気味なのね」
「そうなんですよ、困っちゃって」
ライラと交代に、カウンターの下の小さな扉を潜って、メイは内側に滑り込んだ。するとお酒やグラスが並んだ背景に、まるでパズルの最後のピースみたいに、彼女の姿が嵌まった。
さすがこの六ペンス亭の女主人ね。デイビッドが生きていて、店の主であった頃も同じだったわ。
「お代わりは、ルース?」
ほぼ空になったグラスを指してメイが尋ねる。
「お願い。次はノイリーにするわ」
「ライラも帰る前に一杯飲んで行くでしょう?」
携帯電話を弄りながら返事するライラの前に、サッとリンゴ酒の瓶とグラスを、私の前にはノイリーの透明な液体と氷の入ったグラスが並べられる。
「お仕事の調子はどうですか?」
「そうねえ。セシルが来てくれるようになってから、随分といいわよ。資料の束の重要な一ページを紛失して、一時間もかけて書斎を大捜索、何てことも無くなったから。すごく効率がいいの」
私は新しいパート秘書の有能ぶりを強調した。元々六ペンス亭でアルバイトをしていたセシルをアシスタントにって、私に紹介してくれたのがメイだったから。勿論、彼が得難い人材であることには間違いないわ。
「あなた達は絶対気が合うって、思ったんですよ」
とメイも嬉しそうだったわ。
「ねえねえ! 私にもお代わり頂戴よ。お喋りに夢中になって、他にも客は居るんだって忘れないでよね!」
いきなり脇からグラスを突き出して来たサリーは、もう顔が真っ赤で、人ごとだけどもうこの辺で家に帰ったほうが良さそうだったわ。
「ねえ、サリー。もうお酒は止めておいたら?」
同じことを思ったらしいライラが言ったのだけど。
「放っといてよ!」
と荒っぽく返されて、ライラはただ肩を竦めた。
メイは空のグラスを受け取って、にこにこしながら何気なく言った。
「サリー。今日はジムと一緒じゃないんですね?」
「そうよ。見りゃ分かるでしょう?」
突っかかるような態度は、お酒のせいね。
「珍しいですね」
「フン。どうだっていいわよ、あんなヤツ。仕事仲間と寄り合いがあるなんて、ありそうなこと言っていたけど、今頃は奥さんの家に居るんじゃないの?」
ああ、そういうことね。それが今夜の彼女の不機嫌の原因な訳ね。やれやれ。
「いいんだけどね、別に。ああいう男だって、とっくの昔に分かっているから。気にしてないから」
そうね。本当に気にしていないなら、どうでもいいなら、こんなに呪文のように自分に言い聞かせることもないのだけど。
サリーは決して悪い子じゃないの。私は好きよ。お金持ちの我が儘なお嬢様がそのまま大人になってしまったような子だけど。普段は明るくてさっぱりしているのよ。でも少し酒癖が悪いわ。酔うと普段の鬱屈を吐き出すみたいに人に絡むのが、ねえ。
今夜はくどくなりそうって思っていたところにメイが、
「サリー。この間のくれた海藻のピクルス。えっと、サン、サン何とかっていう海藻。ああ、何て言うんでしたっけ?」
と、ちょっと唐突に言ったわ。サリーはきょとんとして、
「え? ああ、サンファイアのこと?」
「そう、それ! また作ってくれるって言っていましたよね?」
「あ、ああ。忘れるところだったわ。今日持って来ているのよ」
と、いそいそと足元に投げ出した鞄から、ガラスの大瓶を引っ張り出した。綺麗な緑色をした、木の枝のようなサンファイアが透明な酢に漬かっている。
あら、美味しそうだこと。
メイは海藻と言ったけれど、正確にはどうなのかしら? 海藻と野菜のハーフみたいなものね。春先くらいから干潟に生えて来る、海のアスパラガスは、私も大好物で昔はよく摘みに行ったわ。
「ああ、これ、これ! 実はこの間貰ったのは、キアラと二人であっという間に食べちゃって••••••」
メイは照れたようにガラス瓶を受け取った。
「今度はもっと大事に食べます」
「そんなの、幾らでも作ってあげるからどんどん食べちゃってよ。七月頃がシーズンだから、もっと味が良くなるしさ」
「ありがとう、サリー」
「日本人に海藻料理を褒められるなんて、ちょっと誇らしいわよね」
とサリーはいつの間にか、すっかり機嫌を直していた。空になったワインのことは忘れたみたいで、差し出された氷水をにこにこ飲んでいる。
お見事だこと。ほれぼれするわ。こういうことが、とても自然に上手に出来る子なのよね、メイは。生まれつきの社交性とでも言うのかしら?
でもそんな得難い才は、メイがこの村に来たばかりの頃は、影さえも見えなかった。美人で身なりもいいのに、どこか陰気だった。別に彼女が自分の辛かった過去を宣伝していた訳じゃないのに、寧ろ隠していたのに、それが客商売の不思議なところね。
メイの背負った暗さが伝染して、店も始めの頃は人を寄せ付けなかった。でも少しずつ、少しずつ、仮面のようだった笑顔に生気が灯るにつれ、店にも客が戻って来た。今ではデイビッド時代より盛況よ。
いつの間にかメイはカウンターから出て来て、店の隅のテーブルで常連の老人のお喋りに耳を傾けている。若い頃英軍の商船隊に居たという老人は、任務で立ち寄ったヨコハマや上海の話しを、幾度となく繰り返す。でもメイは何度聞かされても、すっかり忘れてしまったように、楽しそうに聞いているの。
その時、いつもより賑やかに扉のベルがなった。大きな靴の立てる足音に、私も振り返った。
「やあ、こんばんは!」
大きな声で言った青年は、キョロキョロと店の中を見回し、隅っこのメイを見つけると、その紅茶色の瞳が輝いたわ。その健やかな笑顔に私達もつられるわ。まるでお菓子屋に入った男の子みたい。
「こんばんは、カーター」
でもメイはいつも通り素っ気なく、そそくさとカウンターの内側に戻るの。ああ、つれない子、と私達は同情するけど、通り過ぎるメイの横顔がほんのりと上気しているのを見つけて、ついついニンマリしてしまうのよ。
サルヴァ・メ @yokotsuyuhara
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