第13話 塗りつぶされた色彩

 ラグの上に座り込んでいると、心臓がものすごい速さで脈打ち始めた。

 血流というのは、心臓から手足のほうへ流れていく。そう授業で教わった。だから、心臓が脈打つのは分かる。けれど、今の私は、指先の細かい血管、手のひら、手首、身体のあちこちにある節々。それらの箇所が、自分でわかるくらいに、どくん! どくん! と脈打っていた。

 私が自らの意思で反抗し、母を怒らせたとはいえ、あまりの衝撃に血が逆流したに違いなかった。どくん! どくん! と脈打つ感覚が治まらず、私は胸を押えた。身体のあちこちから血が吹き出し、部屋中が血まみれになりそうな錯覚。

 苦しかった。胸をかきむしりそうなほどの痛みが襲ってきて、私は痛みと恐怖に怯えた。

 母へ吐いた暴言が、自分の中で消化できなかった。後悔とは違うもの。もっと根本的なところ。もっと……そう、恐怖だ。母に愛されないことへの恐怖。私の心の奥底にある、幼い頃からの呪縛。

 私は胸を押えながら、急いでバッグから薬の袋を取り出した。

 この感覚は、以前起こしたパニック発作と呼ばれるものに似ていると思ったからだ。こういう症状が出たら飲むように。と、頓服で薬が出ていたのを思い出したのだ。私は急いでその薬を口に入れた。

 パニック発作は、いいしれない不安と恐怖を体の中に巻き起こす。体がいうことを聞かないのもあるけれど、自分の心の中に、このままおかしくなってしまうのではないか? このまま死んでしまうのではないか? そういう、ふつうでは考えられない恐怖感がねっとりとまとわりつく。

 発作としては、長くても10分くらいで治まるらしいのだけれど、発作を起こしている本人にしてみれば、いつ治まるのか分からないその発作が、10分どころか、永遠に続くかのように思えてしまう。

 このまま息が止まり、悶え苦しみながら死を迎えるに違いない。発作中浮かぶのは、そういう負の感情しかない。

 私がパニック発作を起こしたのは1回だけだけれど、あの恐怖感を再度体験するのは避けたかった。背中がゾワゾワとし、冷や汗が流れ、自分が人じゃなくなる。自分が壊れる。自分が自分でいられなくなる。そのことに、言い難い恐怖を感じた。こういうことを感じること自体、私はおかしい。そう思うのに。

 ラグの上にごろりと横になり、目を瞑って大の字になった。薬が体の隅々に行きわたるのを待つ。恐怖感は続いていた。「もう娘とも思わないから!」と言い放った母の顔と声が、何度も頭に浮かんだ。

 今から追いかけて、謝るべきなのではないか? そう思う自分もいた。携帯でもいい。とりあえず一言謝っておけば、尾を引くことにはならないかもしれない。

 目を瞑ったまま、思考だけが動いていた。

 謝ってどうなるの? 実家に帰るの? また母の言いなりになって、圭介と別れて、お見合いして、結婚して……次は子供?

 また『お利口さん』の道を選ぶの? それが嫌だったから、こうして家を出てきたんじゃない。『帰らない』と反抗したことは、間違ってない。いずれぶつかる時は必ず来た。間違ってない。私は正しい。自分で自分に言い聞かせ続ける。

 今まで親への反抗などしたことがなかった。23になってやっとなんて、みんな笑うと思う。でも、ずっとできなかった。


「咲はね、理想の娘よ。高校も○○高校へ進学して、大学は○○大学へ行って……」


 幼い頃から、毎日、毎日、そう言われ続けた。母としては、同居していた祖母への対抗心みたいなものもあったのだと思う。自分がいかに子育てに秀でているか、自分の子供だからこんなに『お利口』なのだ。そう自慢したかったに違いなかった。

 けれど私より先に、兄が反発し家を出て行った。兄もきっと、私のように重圧を感じていたのだろう。兄とはそれ以来連絡を取っていない。そして兄がいなくなったことで、私への期待と重圧は更にひどくなり、私は母に操られる人形のようになっていた。

 潜在意識というものは恐ろしいもので、言われ続けると「そうしなければふつうではない」「そうしない私は間違ってる」という意識しか持てなくなっていくものだ。私は自分の色彩を失った。

 母が勝手に決めた私の人生。決められた生き方しか出来ない自分。嫌なのに、『嫌』が言えなかった。期待を裏切ることが親不孝だと思っていた。だから私は、その潜在意識の中で決めていたように思う。自分の心を殺してしまうことが、一番の解決方法なのだと。

 私は自ら自分の色を真っ黒に塗りつぶし、今日まで生きてきたのだ。

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わたしの願いは、透明 恵瑠 @eruneko0629

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