第12話 黒が蠢く
以前住んでいたアパートから離れていなかったこともあって、そう時間もかからずチャイムが鳴った。ドアフォンの画面の中に、エントランスに立っている母が映っている。画面の中の母は、ソワソワと落ち着きなく動いていた。私がなかなか返事をしないことに苛立っているのだろう。
私はボタンを押して、入り口の自動ドアを解除した。それから数分。今度は玄関のチャイムが鳴る。私は自分の中にたくさんのバリアを張り巡らせながら、ドアを開けた。
私よりずっと背は小さいけれど、でっぷりと太った母。相変わらずの存在感だ。
ドアを開けた私を見て「何? 痩せたんじゃないの?」とすぐさま言い、さっさと靴を脱ぎ始める。私の部屋は、自分の家だという感覚らしい。シューズラックの上の写真立てを一瞥し、私より先にリビングに向かって歩いて行った。その後ろを、私は俯きながらついていく。
「へぇ、今度の部屋はちゃんとしてるのねぇ」
リビングに入って一言目がそれ。以前の部屋の何が『ちゃんと』していなかったのだろう?
私はキッチンへ向かうとお湯を沸かし、お茶を淹れる準備を始めた。
その間も母は遠慮することもなく部屋のあちこちを見て回り、閉めておいた四畳半の寝室への引き戸も断ることなく開け、寝室の中をじろじろと眺めていた。
「一緒に住んでるわけじゃなさそうね」
一通り見て安心したのか、私がラグに座りお茶を出すと、母も向かい合わせに腰を下ろした。
「同棲なんてしてないよ」
引っ越し=同棲だと思ったのだろう。その為に、ここへ確認しに来たかったのだ。そう分かって、私はため息を吐いた。どうしてこの人は、私の生き方に土足で踏み込んで来るのだろう? そして私は、どうしてこの人に遠慮してしまうのだろう?
「でも、続いてるんでしょ?」
湯呑を両手で包みながら、ちらりと私の顔を見る。
「結婚の話は出てるの?」
「……」
答えない私に、また母が苛立ったのが分かった。
「何年も付き合ってるのに、結婚の話も出さないような男、やめちゃいなさい? あんたももう23なんだから、少しは焦らないと。ママがあんたの年には、もうあんたを産んでたわよ?」
私は黙り込む。この人に私の話を聞いてもらおうと望むこと自体、ムリな話しなのだ。それを小さい頃からの経験で、私はよく知っていた。
「だから言ったのよ。市役所に就職しなさいって。お互いに公務員だったら、安定した収入も得られるし、今は公務員だったら育児休暇だとかそういうシステムも整っているし。あの子、仕事は何をしているんだったっけ?」
圭介のことを言っているのはわかっていた。でも、私は答えない。母は苛立ち、眉を吊り上げながらお茶を啜った。
「何よ。一人暮らしをするようになってから、生意気になったわね。昔はなんでも言うことを聞くおとなしいお利口さんないい子だったのに」
お利口さんないい子……私の胸の中で、その言葉が何度も繰り返される。
お利口さんないい子……お利口さんないい子……
「で? なんの病気なの? 1か月も会社を休まなきゃならないなんて、ひどいの?」
ようやく圭介の話題から離れたと思ったけれど、今度は病気のこと。詮索好きで、噂話が大好きな母のことだから、きちんと説明しない限り、引かないのは分かっていた。でも、どうしても病気のことを話す気にはなれなかった。
「もう明後日には復帰するの。たいしたことないし、心配しないで」
私の言い方が癪に触ったらしい。何でも知りたがり、私の全てを支配しなければ気が済まない母ならではだ。
「何よ? なんで隠すの? 言えないような病気なの?」
母はムキになって眉尻を上げた。
「別に隠してなんか……」
「じゃあ、言いなさい。なんの病気なの?」
私は迷った。迷ったけれど、言わなければまた変な誤解をされたり、圭介のせいにされたりするのは嫌だった。それは絶対に避けたかった。
「……うつ病だって」ぼそりと小さな声で発した。
母は「え?」と一言言って、唖然とした顔をしていた。
「うつ病って、あのうつ病……よね?」
私をなめまわすように見て、湯呑を乱雑に置くと、口から機関銃のように言葉が飛び出し始める。
「何? 精神科に行ってるの? 心療内科? 病院はここから近いの? 通院してることを知られたりしてないわよね? 会社の人は知ってるの? 誰に話したの? 誰が知ってるの?」
いちいち答えるのも面倒で黙っていると、おもむろにバッグから携帯電話を取り出した。
「パパに迎えに来てもらうわ。やっぱり一人暮らしなんかするべきじゃなかったのよ。ね、咲、あんたはママたちの言う通りに生きて行くのが一番いいの。家に戻ってお見合いでもして、結婚して子供を産んで……それが女の幸せなのよ」
母の携帯のコール音が、私の耳にも聞こえてくる。二回、三回……続くコール音。耳の奥に、そのコール音がこだまする。
どうしよう? このままじゃ、私……
考えるよりも早く、私は母の手から携帯電話を奪い取っていた。そして、鳴り続ける音をプツリと切った。母が驚いた顔で私を見つめている。
「私は家にはもどらない。もどりたくないの。お見合いもするつもりはないわ。私……ママの言うとおりに生きていくのはもう嫌なの」
自分の精一杯。生まれて初めての反抗。
母は最初真っ青な顔になったけれど、次第にその顔には赤みがさし、怒りとともに言葉を吐き捨てた。
「何なの? ママはあんたのことを思って言ってるのよ!」
私の身体が震えはじめていた。立ち向かうにはあまりに大きな壁。けれど、ここで負ける訳にはいかない。
「私のことは、私が自分で決めるから!」
震える声で言い放つと、母は更に目を吊り上げ、尋常ではない顔つきになった。
「あんたの為に、ママがどれだけ苦労してきたと思ってるの? あんたの為にどれだけのことをしてあげてきたか考えてみなさい!」
母の言い分が私の心に響くことなどなかった。母の言葉は、私にとって重荷でしかないのだ。
「頼んでない!」
この言葉を言ったら、決定的になるのは分かっていた。だけど、もう我慢はしたくない。私の反撃に、案の定母は狂ったように怒りを露わにした。
「好きになさい! もうあんたなんか、娘とも思わないわ! 二度と家には帰って来ないで!」
母はバッグを掴み、私の手から自分の携帯を奪うと、すぐに部屋を出て行こうとした。が、歩き出そうとして躓き、転びそうになる。
「何よ! この安物のラグは! ちゃんとしたものも買えないの!」
ラグに足を取られたらしい。散々八つ当たりをして、ドタバタと激しい音をさせ、派手な音と共に、母は玄関を出て行った。
母が出て行くと、全身の力が抜けた。ペタリとラグに座り込む。放心状態になりながらも、母の足を取ったラグが、そのラグを買ってくれた圭介が、私を守ってくれたような気がした。
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