第11話 2つの着信
携帯が鳴っている。私はぼんやりとしながらも起き上がり、枕元周辺を手で探った。すぐに携帯が手に触れる。私は画面に触れると耳に当てた。すぐに元気いっぱいの声が耳に飛び込んでくる。
「おはよっ! 起きれたか? じゃあ、行ってくる!」
こちらの返事を聞く時間もないらしい。慌ただしい圭介の声。出勤時間の為いつも慌ただしくて、圭介は一方的にかけてきて、一方的に切ってしまう。私が答える暇はない。だから私も圭介の声を聞いたら、パジャマのまま急いでベランダへ出て、手すりから身を乗り出すようにして通りを見下ろす。圭介がこのマンションの前を通るからだ。
今日もベランダから見下ろしている私に気づき、圭介が手を振って、バス停の方へ歩いて行った。言葉を交わさなくても、私も圭介もそれで十分だった。
圭介の姿が見えなくなると、私はキッチンへ行き、以前圭介がしたのと同じように、コップに水を入れてベランダに出る。そして、コップの水をプランターの野菜たちへとかけた。同じところにばかり水をかけるので、その部分だけ見事に土が凹んでいる。
「ジョウロくらい買わなくちゃね」
均一に水をかけるためにもジョウロは必要だな、なんて思いながら、野菜の成長に目を細めた。あれから一週間ほど続いた日課だ。野菜たちも少し大きくなった。特に、バジルの伸びは著しい。
コップを地面に置くと、私は朝日の方を向き、大きく伸びをした。そうして深く息を吸い、吐けるだけ吐いた。それを何度か繰り返す。
朝の光りを浴び、新鮮な空気を吸い込むと、新しい細胞が生まれて動きだし、肺の中がきれいになっていく気がした。圭介が言っていたことは正しかったようだ。とはいえ、まだ食欲は回復せず、相変わらず朝はムカムカがひどかった。久しぶりに体重計に乗ってみたら、この一か月で4キロ落ちていた。
次のカウンセリングで相談してみよう。
心療内科のカウンセリングには、1週間に1回のペースで通っていた。ドクターは男の先生で、診察はドクターと私の二人きりで行われた。ドクターは、時折相槌を打つ程度で、私の話しを聞くと電子カルテに打ち込んだ。そして私の話しが途切れたら「次の予約」の話しをして診察は終わる。
はっきりとしたアドバイスがもらえるわけではなく、ただ私が話すだけという診察に最初は戸惑った。でも、見ず知らずのドクター相手なら何を言っても気にされることはないだろう。そう思えるようになってからは、自分の苦しいことや悲しいこと、これまで抱えてきた闇のことを唯一隠さずに吐き出せたので、受診すれば気持ちが楽になる気がして通い続けた。ただ吐き気を訴えても薬は一向に減らず、いつになったら? という思いは募っていた。
職場へ復帰するのも残り2日となり、迫ってくる期日に焦りを感じていた。こんな状態のまま復帰できるのだろうか? という思いと、復帰してしまえばなんとかなる! という思いが交錯していた。
1か月前の状態から考えれば、薬の副作用でムカムカすること以外は落ち着いているように思えていたし、パニック発作というのもあれから起こしていない。不安だったり、悲しかったり、そういう負の感情も、今は無くなっているように思えた。
ドクターに言われた通りの薬を飲み、朝日を浴び、圭介がいう『良いこと』を続けている私だから、健康に戻りつつあるのだと信じていた。
キッチンでコーヒーを淹れ、マグを持ったままテレビをつけた後、圭介にもらったラグの上に座った。何かをしよう! という気持ちにはまだなれず、何気にテレビを見ながら時間が過ぎるのを待つ毎日。今日もテレビを眺めて一日が終わるのだろう。などと思っていると、また携帯が鳴った。電話をかけてくる相手と言えば、圭介しか思いつかなかった。
圭介? 忘れ物でもしたのかな?
のんびりと携帯画面を見た私の心臓は、大きく、どくん! と脈打った。携帯画面の表示には「母」の文字。
そうだ! 忘れていたけど、引っ越したことも、病気のことも知らせていない。
出るのを悩んだけれど母のことだ。今出なくても、出るまでしつこくかけてくるのは想像がつく。私は嫌々ながら、通話ボタンを押した。
「咲? ちょっと! あんたどこにいるの?」
久しぶりにかけてきたくせに、もう既に怒っているようだ。
「どこって?」
曖昧に答えてみるも、あの母だ。簡単に引き下がってはくれない。
「アパートに来てみたら引っ越したって言われるし、会社にかけたら1か月休んでるって言われるし。あんた一体何やってるの!」
会社にまで電話したんだ。母の声は相当の苛立ちを含んでいた。
「ちょっと体調崩したから休んでるだけだよ。引っ越したことも連絡忘れてて、ごめん」
なんとか乗り切らないと! そう考え、私は必死に頭の中で様々なことの整理を始めた。
「忘れててって、そういうのは一番に連絡するものでしょう!」
「うん。ごめん」
とにかく謝って、それで、それで……
「で、どこに行けばいいの?」
意外な言葉に、思考が停止した。
「え?」
「今、あんたが住んでたアパートにいるのよ。新しい引っ越し先はどこ? 遠いの?」
どうしよう? あの母がここに……。戸惑う私に構うことなく、母は言い張った。
「どこ? 今から行くわ」
母は有無を言わさず、このマンションの場所を聞き出すと、一方的に電話を切った。
私の胸の中がとたんにザワザワと騒ぎだす。ついさっき『健康』にもどりつつあると思ったはずなのに。自分でも分からない何かがゾワゾワと動き出し、身体の中にうねりを感じた。
落ち着かず、部屋の中をウロウロしてしまう。これから私は、避けられない現実に向き合わなければならない。覚悟を決めなければ。そう思うのに、私の意識はぐるぐると混乱するばかりだった。
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