第10話 おまじない
新しい部屋はとても静かだった。
圭介は会社帰りにたまたま見つけた。とか、偶然「空き部屋あります」の紙が目に入ったとか、言い訳がましいことばかり言っていたけれど、圭介が私のために何度も不動産屋に足を運んでくれていたことは分かっていた。私が落ち着いて過ごせるように、不安にならないように、と、防音設備も整っている場所を探してくれたに違いなかった。
だから以前のアパートのようなことにはならない。そう分かっているというのに、この1年の間に根付いた不安はなかなか拭えず、室内であるにもかかわらず、音をさせないように歩いていたり、窓を開け放つことが出来ない生活が続いていた。
いつになったら? そう焦る私に、圭介はいつも「焦ると治るもんも治らない」と言い続けてくれていた。
そんなおかしな生活ではあったけれど、音が聞こえない静かな日々を送ることで、私の気持ちは少しずつ、ほんとうに少しずつ、カタツムリのペースで落ち着きを取り戻していった。
1か月仕事を休んで、ただ何もしないで過ごす。目が覚めたときに起き、眠くなったら寝て、食べたいものを食べ、やりたいことをやる。それだけの毎日だったけど、確実に心が穏やかになっていた。でもその穏やかさの中に、言い表せない不安と焦りがあるのも事実で……
こんなことをしていていいの?
出来ることをやらなくていいの?
私はなまけているだけじゃないの?
その疑問がいつも頭から離れず、私を苦しめた。
会社から休みをもらって20日ほどが経った日の夜、いつものように圭介が来た。圭介はこの部屋の合鍵を持っているので、私が開けなくてもオートロックを解除して勝手に入ってくる。
その日の圭介は、白いビニール袋をいくつか下げていて、右手に抱えた荷物が重そうだった。体が右に傾いている。圭介は部屋に入ってくると、左手に下げていた軽い方のビニール袋をテーブルに置いた。
「何か食った?」
この部屋へ来て、まず圭介が言う言葉だ。
「食欲なくて……」
返事もいつも通り。
「とりあえず、咲が好きなハーゲンダッツのバニラアイスとプリン買ってきた。冷蔵庫に入れといて」
圭介はそう言うと、荷物を持ったまま窓の鍵を開け、ベランダへ出て行った。
私は言われた通りに、袋からアイスとプリンを取り出すと、それぞれ冷凍室と冷蔵室へ入れた。牛乳とはちみつも入っていたので、ついでにそれらも入れておく。それから、ベランダにいる圭介のそばへ行ってみた。
圭介はスーツのまましゃがみこんで、持ってきた荷物の中からガサガサと何かを取り出していた。私も圭介の隣にしゃがみ、手元を覗く。圭介が取り出したのは、白くて細長いプランター二つと「花と野菜」と表書きされている土が入った袋、そしていくつかの苗。
「何してるの?」
不思議に思って聞いてみる。圭介は、隣にしゃがんでいる私の頬に軽くキスをして笑った。
「良いこと!」
楽しそうにそう言って、二つの横長のプランターに土を入れていく圭介。土は、二つのプランター分ちょうど。そして手で穴を開けると、持ってきた苗をプランターに二つずつ植えつけた。
「何の花?」
私が聞くと、圭介は意味深に笑った。
「教えてほしい?」
圭介が楽しそうなのを見て、私も久しぶりに心が弾んだ。
「何?」
高校生の頃も、圭介はイタズラを思いつく天才だった。人が嫌がるようなイタズラではなくて、その場にいる人を和ませてしまうイタズラ。今日もきっとそういうイタズラを思いついたのだろう。私はそう勝手に思いこんでいた。
「そうだなぁ。じゃあ、咲がキスしてくれたら教えてやるよ!」
イタズラ顔でそう言われ、私は照れて立ち上がった。
「圭介のバカ!」
でもすぐに手首を掴まれ、元の位置へと戻された。
「たまにはいいじゃん。いいことしてる俺にご褒美くれてもさ」
そう言って、私の唇と圭介の唇が軽く触れた。圭介は満足そうに笑った。
「よし! では、教えてあげよう!」
圭介は、苗のまわりの土を手できれいに整えながら説明を始めた。
「この一番左のがバジル。で、その隣がブロッコリー。こっちのプランターは、二つともサニーレタス」
「野菜?」
「そう、野菜だよ」
話しながら、圭介はキッチンへ行き、コップに水を汲んできた。そして、今説明を受けた苗たちに水をかけた。コップから直接水をかけたので、その部分の土がぽっこりと凹んだ。
「本に書いてあったんだけどさ。生き物の世話をすることって、かなりいい気分転換になるらしいぜ? ホントは猫を飼えるようにしてやりたかったけど、ここはペット禁止だからその代わりだよ。立派に育ったら、二人でサラダにして食おうぜ」
圭介の言葉に、私は何も言えなくなってしまった。これは、私のため……?
「圭介……」
言いかける私の声を遮って、圭介が続けた。
「後さ、朝日を浴びることもいいらしいぜ? セロトニンだっけ? そういうのが分泌されて、うつ病とかそういう病気系の人には効果があるらしい。だから、朝起きるのが辛いかもしれないけど、俺が会社に行くときに携帯鳴らすからさ、起きたらベランダに出て朝日を浴びて、で、こいつらに水をやる。それをやってみてほしいんだ」
鼻の奥がつん! となり、目に涙が浮かんできた。私が何も言えないのを見て、圭介に頭を軽く突かれる。
「難しく考えることはないって。気楽にさ。こいつらが枯れたら、お前が呪われるだけなんだから」
圭介は陽気に笑う。笑ってみせている。
圭介、バカだな。何年の付き合いだと思ってるの?
今、圭介の部屋に行ったら、机の上にはきっと『うつ病』に関する本がたくさん積まれているはず。圭介なりに心配して、出来ることを必死に考えてくれているのだ。
嬉しい。嬉しいのに、痛い。私は唇を噛んだ。こんな優しい人を、私が縛っていていいの?
「そんな困った顔すんなって!」
圭介は私の肩を抱き、部屋へ入った。
私を椅子に座らせると、圭介は冷蔵庫から牛乳を取り出し、私のマグカップに注いだ。そのマグに、はちみつを入れて軽く混ぜ、その後レンジに入れて、温めボタンを押した。
「咲は俺に甘えてればいいの。これは俺が好きでやってるだけ。気にすんな」
レンジからチン! と音がした。取り出されたマグカップからは湯気がたち、甘い香りが漂った。圭介は取り出したミルクをスプーンでまた軽くかき混ぜた後、そのマグカップを私に差し出した。
「ホットミルクは安定剤効果があるらしくってさ。はちみつを入れるとさらに効果がアップするんだってさ」
圭介……この人は私のためにどれだけの本を読んだのだろう? どれだけの知識を得ようと努力しているのだろう? 私には圭介に返すものなんて、何にもないのに。
私は受け取ったマグに口をつけた。ほのかに甘いミルクが、私の体の中に沁み込んで行く。
「咲がぐっすり眠れるように、俺のとっておきのおまじない」
圭介はそう言って笑った。
はちみつ入りのホットミルク。甘いはずなのに、ちょっとだけしょっぱく、涙の味がした。
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