第9話 約束

 そのままアパートに住み続けることを圭介に反対されたこともあって、私は圭介の休みの日に合わせ引っ越しをした。と言っても、体調が悪くて、私はほとんど自分で決めることが出来ず、全てを圭介に任せての引っ越しだった。新しいアパート探しも、手続きも契約も、全て圭介が手配してくれた。金銭的な面でも、圭介が援助してくれたからこそ出来たことだ。

 アパートに置いていた家具や荷物は、そのすべてを引っ越し業者に託した。

 引っ越し完了の知らせを受け、夕方になってその部屋へ一歩足を踏み入れると、もう既にそこはきちんとした『家』になっていた。玄関には私の靴が並べられているし、前の部屋と同じように、シューズラックの上のわずかなスペースに、圭介からもらった写真立てが飾られていた。そこには、私と圭介がにこやかに笑っている写真が収められている。私たちは高校の制服を着ており、足元には猫のミミが写っていた。

 圭介は私の手を引いて、中へと進んだ。

 全てを圭介に任せたので、部屋に入るのが初めての私は、見るものすべてが新鮮だった。

 玄関から奥へと廊下が伸びていて、廊下の途中左側に扉が二つ。トイレとお風呂だ。お風呂場には脱衣場があって、洗面台と洗濯機。廊下の突き当たりのドアを開けると八畳のリビング。そこには、見慣れた家具がきちんと配置されていた。対面式の小さなキッチンの中には、サイドボードが置かれ、その中には愛用している食器が並べてあった。リビング奥の左側に横へスライドさせる木製の引き戸があって、そこを開くと四畳半の寝室。どこを見ても違和感を感じず、これまでもずっとここで生活していたようにさえ思えるほどだ。

「最近の引っ越し業者ってすげぇよなぁ」圭介も感心したように言う。

 私はリビングの真ん中に立ち、ぐるぐると回りながらあちこちを眺めていた。そして、それまで私の部屋には無かったものに気づいた。

「どう? 咲の好みに合わせて選んだつもりだけど?」

 私の足元に、モコモコしたベージュの丸いラグ。

「俺からの引っ越し祝いだよ」

 そのラグの上に私が座ると、圭介も向かい合って座った。ラグを手で撫でてみると、肌触りがよく心地いい。

「毎日ここで寝ちゃいそう」

 私が言うと圭介は微笑んだ。けれど、圭介はすぐに真面目な顔になる。

「分かってると思うけど、ここはオートロックでセキュリティも厳しい。だから、前のアパートみたいなことはないと思う。でも、何かあったら我慢しないですぐに俺に言うこと」

「……うん」

 私は圭介の目を見るのが怖くて、目を逸らしながら返事をした。

「それと、絶対に約束してほしいことがある。この約束を守れないのなら、咲をこの部屋に一人にすることは出来ない。これまでみたいに、俺の部屋で暮らしてもらう」

 強い口調の圭介に腕を引かれ、私は圭介の方を向いた。逸らすことを許さない。と言っている圭介の目に掴まり、私は不安になりながら聞いた。

「……何?」

 リスカをしてしまった後、圭介の部屋で一緒に過ごしながら、私は毎日圭介の説得を受けていた。

「二人で暮らせる部屋を探して、このまま一緒に暮らそう!」

 圭介はいつも私を優先させてくれた。その提案だって、嬉しいに決まっていた。けれど、今の私が圭介の役に立てるとは思えず、私は受け入れることが出来なかった。

「同棲はするべきじゃない」と言い張る私に、「じゃあ、結婚しよう!」と圭介は言う。

 その話が、毎日ぐるぐるまわって議論された。この話が始まると、最終的には私が泣きだしてしまうので、結局は圭介が折れる形となり、この部屋を探してくれたのだ。

 この部屋は、圭介と一緒ではないけれど、圭介のアパートの二軒隣にある。だから、別に住むとはいえ、今までよりずっと近い距離での生活となる。

 圭介が私の手を取った。そして、自分のポケットから何かを取り出すと、私の左手首に巻きつけた。ひんやりと、冷たい感触。

「咲の体は咲のものだけど、だからって自分でめちゃめちゃにしていいわけじゃない。リスカは二度としないって約束して。やりそうになったら、これを見て俺を思い出して。俺が『やらないで』って言ったことを思い出して」

 私の左手首に、金色やオレンジの小さな玉が繋げられたブレスレットが巻かれている。そのブレスレットの下には、私が自分でつけたいくつもの線が走っていた。

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