第8話 悲しいプロポーズ

 夢の中の私は雲の中に浮かんで、ふわふわの幸せな香りに包まれていた。その雲の中には何もない。それでも気持ちが満たされ、幸せだった。ずっとこの中に包まれていたい。そう思った。ここにいることが出来るのなら、何も望まない。仕事も、食べることも、自由も、圭介も、全部いらない。このまま、どうか、このまま……

 まどろむ意識の中で、ドアを慌ただしく開ける音がした。バタバタと走りこんでくる足音の後ろで、ドアが派手に閉まる音。相当に急いでいるらしく、玄関や廊下のあちこちにぶつかる音がする。その反動なのだろう。何かが落ちる音も聞こえた。

「咲! いるのか?」

 ぼんやりと目を開くと、真っ暗な世界。さっきまで差し込んでいた明るい光は消え、薄暗い闇が広がっていた。

 夜……? 夜中……?

 季節は秋に入っていた。そのせいもあるだろう。急にそれまで感じなかった寒さを感じ、私は身震いした。けれど、起き上がる気にはなれない。

 私は寝ころんだまま、声の主が入ってくるのを待っていた。相手が誰であるのかは分かっていたから、不安に思うことなど何もなかった。

 暗闇の中、キラキラと光るものが部屋の中に現れた。それが『瞳』であることはすぐに理解できた。圭介の目が光っているのだ。キラキラは、私の部屋のあちこちを見回しているようだった。そのキラキラから目が離せず、じっと見つめる。

 すごいなあ。圭介はちゃんと生きてるから。だからあんなにきれいに光るんだろうなぁ。

 のんびりそんなことを思っていると、圭介の目と私の目が合った。暗闇の中で、お互いに見つめ合う。

「バカ! 心配するだろっ!」

 部屋に入って私を見つけるなり、圭介が怒鳴った。と同時に、壁にあるスイッチが押され、部屋が明るくなった。

 私が寝ころんでいるのを見下ろした圭介の顔が、みるみる歪んだ。足もとからゆっくり上がってきた圭介の視線が、私の左手で止まった。

「お前、何したんだ!」

 私の横にひざまずいて、圭介が私の左手にそっと触れた。痛みは全く感じなかった。圭介が恐々と私の左手首をなぞる。その感触に、私も自分の左手の方を向いた。私の左手首には、もう乾いてカピカピになった赤い沁み。

「咲、しっかりしろよ! どうしちゃったんだよ!」

 私の左手に触れながら、圭介が呻いた。……泣いているのかもしれない。

 ぼんやりする頭で圭介を見つめていると、圭介に抱き起された。圭介の体からお酒の匂いがした。あぁ、飲み会って言ってたっけ。

「咲、俺の目見て! しっかり、見て!」

 圭介に促されて、圭介の目を見つめた。ぼんやりとしながら、圭介の生き生きとした強い光を放つ目を見つめる。

「俺たち、結婚しよう! 俺、お前を一人にしておくのが心配でたまらない。もう5年付き合ってるし、そろそろそういう時期だと思うし、お前一人くらい食わせていけると思うし」

 圭介なりに考えてくれたのだろう。私を守るために。

 圭介は真剣だった。必死に言葉を発していた。

 付き合っている人がいて、23歳ともなれば、『結婚』は憧れだ。それに、こんな風に自分が弱っているときに支えてくれる人は、これからを共に生きていくパートナーとしては素晴らしい相手なのだと思う。でもそれは私にとってはの話で、私にとって都合がいいだけのことだ。圭介にとって私は、ただのお荷物でしかない。私が圭介のメリットになるとは到底思えなかった。

 私は圭介の手を振り払らい、圭介に背中を向けて部屋の隅に蹲った。

「結婚なんて無理! 私、おかしいもん。圭介に一生私の面倒見させるなんて、私、嫌だもん。私、圭介の足手まといにしかならないもん。結婚なんて、圭介に負担をかけるだけなんて、私には無理……」

 涙が溢れてきた。

 何故? プロポーズだよ? 嬉しいはずなのに、私は何故断って、泣いているの?

 圭介が、後ろから私を抱きしめた。

「ごめん。咲のこと混乱させるつもりはないんだ。だけど、俺は咲のことを負担だなんて思ってないし、俺が結婚するなら咲しかいないって思ってる」

 耳元で囁かれる言葉は優しかった。何よりも嬉しいことのはずなのに、私はただただ首を振り続けた。

「嫌! 嫌だよ! ムリだよ! ムリだよ!」

 こんな私のために、圭介は自分を犠牲にしようとしている。私の面倒を見るための結婚なんて、そんなことを受け入れられる訳がない。

 私は首を振った。必死で振った。気づかないうちに、私は大声を上げて泣き叫んでいた。それをなだめるように、圭介が抱きしめる。

「結論を急いでるわけじゃないんだ。俺、待つから。咲が元気になるまで待つから……」

 涙が止まらなかった。好きな人のプロポーズを断る日が来るなんて。それでも、待つなんて。どこまで優しいの? 待つなんて、言わないで。私のことなんて、待たなくていいんだよ。置いてけぼりでいいんだよ。捨てちゃっていいんだよ。

 高校生の頃から変わらず、圭介は優しい。私は圭介の優しさに甘え、利用している自分を許せない。と思った。




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