第7話 生きている赤

 気が付いたら、自分のアパートにいた。

 走って乱れた髪の毛、ずり下がったシャツ。靴は脱いでいたけれど、走りこんだそのままの姿で、私は自分で借りたアパートの床に、茫然と座り込んでいた。

 一週間留守にした私の部屋。私の自由な『城』になるはずだった部屋。誰にも干渉されず、誰にも遠慮なんてせず、本当に自分の好きなものだけで整えられた部屋。ベッドカバーもカーテンも、食器だって、少しずつ買い揃えている途中だった。

 私が初めて手に入れた自由。これからだと思っていたのに。これからは一人でしっかり生きて行くんだって、そう思っていたのに……

 私はずいぶん長いこと座り込んでいたようだ。さっきまで曇っていた空が、また明るくなっていた。その陽射しは既にオレンジ色になっており、カーテンの隙間から部屋の中に細長い光となって差し込んできている。オレンジ色の夕焼けが、カーテンの向こうに広がっているのだろう。そう思えたことに、ホッと息をついた時だった。

 ガッシャーーーーン! 

 それまで静かだった部屋の中に、突如何かが割れる音が響いた。隣の部屋からだ。またあの二人が喧嘩を始めて、物の投げ合いでも始めたのだろう。

「あんたが悪いんじゃないの!」

「お前がいつまでも同じことを言うからだ!」

 罵り合う言葉が聞こえ、物を投げる音、割れる音。音は続き、声も時間と共に鋭さが増していく。

 私は急いで耳を塞いだ。身体が強張り、緊張の糸がぐるんぐるんに私の身体を縛っていく。言いようのない不安で背中がゾワゾワし、つつつ……と汗が流れていくのを感じた。息が乱れ、胸が苦しくなって、私は耳を塞いだまま身体を縮こめた。

 このまま死んでしまうのかもしれない。

 ふとそんなことが思い浮かび、私の恐怖は加速していった。手足も身体も震えだした。異常な震えだった。キーンという耳鳴りが全ての音を遮断したけれど、その時間は私にとって、永久に続くかのように思えた。

「発作」は、とても長い時間のように感じたけれど、10分も経っていなかったようだ。次第に呼吸が落ち着き、私は少しずつ苦しさから解放された。

 でも苦しさから解放されると、今度は自分の意思が私に襲いかかってきた。

 こんなはずじゃなかった。こんなことになるなんて想像もしていなかった。私は充実した毎日を送って、仕事だってバリバリこなして、圭介に頼らないくらい自立した女になって、圭介にも『カッコいい女』だと言ってもらうんだ。そう考えていたのに! なのに、今の私には何一つ当てはまるものがない。圭介に頼ってばかりで、迷惑ばかりかけている。


 私はなんのために生きているの?


 恐怖や痛み、自責の念から、私の平常心が崩れ去っていた。自分を見失った私が目に留めたもの。それは、キッチンに置いてある小さな果物ナイフだ。

 何かを考えていたわけではない。自然にそのナイフに引き寄せられた。考える暇などなく、私はナイフを手に持っていた。ナイフは十センチほどの小さなものだ。刃は薄いけれど、切っ先が恐ろしいほどに鋭い。

 私はそのナイフを手に取ると、ほとんど無意識に左手首に当てていた。死にたいと思ったわけじゃない。でも、『切りたい』と思った。深くは無理だった。痛いのが怖いという思いはあったし、自分で自分を傷つけることへの後ろめたさがあった。何度か迷い、自分を止めるべきだと思った。でも迷っているうちに『私』はいなくなり、そうなると止められる人は誰もいなかった。

 ほんの少し肌に刃をあててナイフを引くと、すぅっと左手首に一本の赤いラインが入った。赤ペンで引かれたようなライン。そのラインから、深い赤がじわりと染み出た。もうラインと呼ぶことは出来ない。もはや線ではなかった。赤は紐のように膨れ上がり、あちこちへと破線していった。

 その『赤』を見たとたん、私の中で何かがこみ上げてくるのを感じた。狂気の波が一瞬にして私の神経を侵し、「感じる」という神経がやられてしまったのだ。

 一度やってしまえばもう同じだった。『私』ではない『私』は、何度も行為を繰り返していた。 はっと我に返ったとき、私の左手首にはたくさんの赤い線が交差しており、赤い滴が指の方へと流れていた。その滴を見ながら、自分の体にちゃんと赤い血が流れていることが感じられて、心の底からほっとした。ジクジクとした痛みがあるのも、『生きていること』を実感できた。

 私は『赤』を見ることで、自分が生きているということを確信できたのだ。

 何も音が聞こえなかった。隣りの喧嘩が止まったからなのか、私の耳が聞こえなくなったのかは分からない。

 私は床に寝転がり、天井を見ながら、ゆっくりと目を閉じた。

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