第6話 一瞬の青

 圭介のメモを置くと窓に近寄った。グリーンのカーテンを一気に引く。窓からはきれいな青空が見えた。昨夜泣いてすっきりしたのか、久しぶりに気分が軽い気がした。青空の清々しさに、何かをやってみたい。という気持ちが生まれた。こんな気持ちになれたのはいつぶりだろう?

 そうだ! 私は急に思いついた。

 会社には電話を一本いれただけで、1か月の休みをもらっていた。あれ以来音沙汰なしで休んでいたので、それも気になっていた。きちんと自分で休職する旨を伝えた上で、挨拶をしておいた方がいいだろう。

 会社のロッカーには、うっかり外して置き忘れてきた腕時計が入っている。その腕時計は、ハタチの誕生日に圭介がプレゼントしてくれた大事な時計。圭介とのペアウォッチだ。まさかあれから会社を休むとは思ってもいなかったので、置いたままになっていた。その時計のことは気がかりだったけれど、行ける状態ではなかったために今まで諦めていたのだ。

 でも、今日は調子が良さそうだ。挨拶ついでに取って来よう。

 ここのところ着替えることさえなく、一日中パジャマで過ごしていたので、私は久しぶりにパジャマを脱いで、きちんとした服に着替えた。久しぶりにメイクをし、鏡で全身をチェックして、おかしいところがないかと確認する。

 そうして圭介の部屋を出た。合鍵でしっかり鍵をし、一度きちんと閉まっているかどうか、ドアノブを捻ってみる。ドアは無事に施錠されたようだ。開かない。それでも、何故か不安になって、数回施錠の確認をした。こんなことは初めてだったけれど、確認しなければ不安でたまらなかった。

 その後、ようやく圭介のアパートから出た。久しぶりに空気に触れた気がする。

 私が勤務する会社は、圭介の部屋からもそう遠くない。バスを使ってもよかったけれど、密閉された空間に入ることが躊躇われた。こんな気持ちは初めてだったけれど、この時の私はまだ気づいていなかった。それが不安障害の症状であるということに。

 戸惑いを覆い隠し、今日は天気が良いんだもん! 久しぶりに歩いてみよう! と自分に言い聞かせ、たくさんの人が行き交う道をゆっくりと歩き始めた。

 歩いているうちに私は変な感覚に捉われている気がして、時折立ち止まった。すれ違う人たちの視線が妙に気になる。誰かが私を見ている。そんな気がしてならず、落ち着かない。誰が見ているの? そう思うと、いてもたってもいられず、まわりを見回してしまう。

 そんなことを繰り返しながら、ようやく会社が入っているビルの前に着いた。

 私が働いている会社は、このビルの3階にある。子供向けの教材を、学校や幼稚園、保育園に届ける会社で、私は主に事務をしていた。割合としては、男女半々というところだと思う。

 そう大きな会社ではないけれど、教材の企画などもやっていて、上層部の人たちはいつも輝いて見えた。やりがいと自分の意思がはっきり感じられて、うらやましくて仕方がなかった。いつか私も企画を担当したい! 上層部の人たちを見ながら、憧れと希望を抱き入社した会社だった。

 エレベーターから降り、少し緊張しながらドアを開けると、会社のフロアの人の視線が一斉に私に集まった。その視線が自分に集まっていることを感じると、私の胸がおかしいくらいに脈打ち始めた。ドキドキどころではなく、苦しいくらいだ。

「あれ? 小浦(こうら)さん?」

 同期入社の金子くんが気づいて、近づいてきてくれた。

「体調悪いって聞いてたけど、大丈夫なの?」

 いつもと変わらない様子の金子くんにホッとする。私がうつ病だなんて、金子くんは知らないんだろうな。ううん、もしかしたら知っていて、私が気後れしないように気を使ってくれているのかもしれない。金子くんがどちらの思いを抱えているのかが気になりながらも、私は課長を探すことにした。

「……課長はいる?」

「今、営業に出てるよ。早田主任はいると思うけど」

 金子くんがキョロキョロとあたりを見回し、フロアの奥の方に向かって叫んだ。

「主にーーーん!」

 金子くんが叫んだので、またもや私は注目を浴びた。心臓が早鐘のように打ち、苦しくて仕方が無い。でも、ここまで来たのだから、もう少し! もう少し頑張って……。

 私の様子に気づくこともなく、早田主任が人のよさそうな顔で近づいてきた。金子くんは「じゃあ」と一言言ってその場を離れた。

「小浦さん、体調はどう?」

 主任は事情を知っているらしい。小声で尋ねてきたところをみると、そうに違いなかった。病気のこと、うつ病であることを知られている。そう思うと、背筋が冷たくなって身体が震えそうになった。けれど、ひるむ訳にはいかない。

「ご迷惑をおかけしてすみません。こんな長期にお休みをいただいてしまいまして」

 私は来る途中で買ったお菓子を渡した。

「あの、お茶のときにでも」

「あぁ、ありがとう。それで、いつ復帰できるの?」

 いきなり復帰の話しになるとは思ってもいなかった私は、ドギマギしながら答えを探した。どう答えるべきなのか、分からなかった。早く復帰しろ! そういうことなのだろう。

「あの……病院からは1か月は休養するようにと言われていまして……」

 私がドクターから言われた通りに応えると、主任はあからさまに嫌悪の目を向けてきた。

「そう。まぁ、お大事にね」

 1か月もの病欠なんて、ありえない。主任の目はそう言っていた。けれど、口に出せば、パワハラ問題になるとでも思ったのだろう。とりあえず「お大事に」という言葉に押しとどめたというのが伝わってきた。

 病気になんかなってしまった私が悪いのだから仕方がない。自分に言い聞かせ、私はお辞儀をすると、ロッカー室へと向かった。圭介からもらった時計のことが気になって仕方が無かった。

 ロッカーを開くと、ハンガーにかけられたカーディガンが見えた。そのハンガーの上にある金網の棚。その棚に、私の目的である時計が無造作に置いてあるのが目に入り、私は安堵した。

 良かった! ちゃんとあった!

 私は時計をハンカチに包んでバッグに入れ、カーディガンや社内で履く靴などを、持ってきた紙袋にまとめた。ロッカーが空になったのを確認し、ロッカー室から出ようとすると、少し離れた給湯室の方から話し声が聞こえてきた。

「小浦さん、全然元気じゃん。1か月も休むっていうから、なんかすごい病気かと思ってた」

「それ、私も思った! まだ就職したばっかじゃん? いきなり1か月も休むなんてありえなくない?」

「ふつうは出来ないよね。若いからってなんでも許されるわけじゃないって!」

 誰の話し声かは検討がついた。同じ部署にいる先輩たちだ。

「大体さ、仕事は半人前のくせに、男に愛想振りまくのだけは一人前じゃん?」

「あー、金子っち?」

「企画の中里さんも、小浦さんのこと気に入ってるっぽくない?」

「うそ! えーーーーー。私、狙ってたのにー」

 二人の話し声は止まらない。クスクスと笑っている気配もする。

「でもさー、1か月も休むことを会社がOKしたってことはさ、今流行りの『うつ』とかそんなんじゃないの?」

「きもーい。小浦さん、精神状態おかしいってことぉ?」

「精神科に通うなんて、ふつうに見えるけど、あの子、きっとおかしいんだよ」

 私は荷物を持つと、走って階段を駆け下りた。エレベーターが来るのを待つ余裕もなかった。ここを出たい。それだけがぐるぐる頭を占領して、とにかく走るしかなかった。

 いわれのない中傷だと思う自分もいたけれど、彼女たちが言っていたことは『現実』で。うつ病というのは、現実社会で受け入れられる病気ではないのだ。

 言い返せない自分がはがゆくて、こんな病気になった自分を許せない! と思った。

 悔しくて、悲しくて、どうしたらいいのか分からなくて……私は走り続けた。 

 空は雲に覆われ、今朝見た青空はもう見えなくなっていた。

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