第5話 苦しみの始まり

 次の日、事情を私から聞き出した圭介が仕事を休んで付き添ってくれ、二人で心療内科を受診した。待合室でアンケート用紙のようなものに記入し、ドクターの診察を受けた。診察といっても問診のみだ。

 1年間の嫌がらせ、私の恐怖感、昨日の異常な震え。あらかじめ整理してきたことを順序立てて話した。

「パニック発作ですね」

 ドクターは、あっけないくらいにさらりと病名を告げた。私にとっては初めて聞く病名だった。

「うつ病と全般性不安障害も併発されているようですね」

 ドクターに更に2つの病名を追加され、それらの症状を説明する冊子をもらった。そして、気分を上げるためだという抗鬱薬と、不安な気持ちを落ち着かせるという安定剤、ぐっすり眠れるようにと睡眠薬が処方された。

「うつ病のお薬というのはすぐに効き目は出ません。最低2週間は続けていただかないと。自分に合うお薬が見つかると、かなり楽になりますからね」

 ドクターは、感情の見えない声でそう言った。

「何か質問はありますか?」

 そう聞かれたけれど、何をどう質問すればいいのかも分からなかった。それは圭介も同じで、私たちが何も言わないでいるのをドクターは質問がないと判断したらしい。

「では、また1週間後に」

 その言葉を最後に私たちは診察室から出た。診察時間としては、10分もかからなかったと思う。

 待合室へ戻り冊子を読んでいた圭介が「早期だったら完治できるって書いてあるよ。大丈夫。治るって!」と元気づけてくれた。自分でもある程度は予想してきた病名ではあったけれど、ドクターから「うつ病」と告げられ、自分がまぎれもないうつ病だと確定したことにショックを受けた。私はおかしい人の仲間入りをした。そう思えてならなかった。

 落ち込む私の所へ、一人の看護師が来て「これから」の話しをしてくれた。

「うつ病」の一番の薬は、静養らしい。ストレスを減らして静養することで、気持ちの揺れを落ち着かせるという措置だ。だからとりあえず会社に電話をして、1か月の休みを取ることになった。

 新人という立場の私にとって、職場は確かにストレスだった。上司や先輩、同僚たちとの人間関係、こなさなければならない仕事。終業時間で帰れる日なんてほとんどなく、残業になるのが普通だった。今の私の状態で仕事を続けるのは正直かなり辛かった。だから、仕事から離れることが出来るのはありがたいことだったけれど、自分の分の仕事が誰かに課されることを思うと、申し訳ない気持ちが生まれてしまう。

 また一番のストレスになっているアパートの部屋からも一旦離れよう! という結論に達した。とはいえ、新しいアパートを探しての引っ越しは、今すぐというわけにはいかない。

 実家に帰ることも考えたけれど、私がうつ病になったなんて分かったら、うちの親はきっと私のことを「おかしい人」として扱うだろうと思った。これまでの経験から、母は絶対に私の存在を隠したがるに違いなかった。母にとって、世間の目は、一番怖く大事にしたいもののようだから。

 どう過ごせばいいんだろう? そう悩む私に、圭介がいとも簡単に言った。

「俺んとこ来ればいいじゃん? 今更遠慮するような仲かよ?」

 あの部屋が怖いと思うようになって、圭介の部屋に泊まることが多くなってはいた。でも私たちは結婚しているわけではないし、その約束をしているわけでもない。だから、お互いのプライベートな部分をきちんと分けておきたい気持ちがあって、同棲にはならないように……と私は気を付けていた。圭介には圭介の生活があって、私には私の生活がある。お互いを縛りあうのは避けたかったからだ。

「じゃあ、2、3日泊めてもらえる? その間に部屋を探すよ」

 働き始めてまだ1年。貯金はわずかだったけれど、贅沢を言わなければ小さな部屋くらいなら借りられるはず。そう思って私が言うと、圭介は私の肩を両手でぐっと持ち、怒った顔で言った。

「お前さ、なんで俺にまで遠慮すんの? 俺たち、もう付き合って5年だぜ? 今回のことだって、なんでもっと早く言わなかったんだよ? こんな病気になるまで我慢してるなんてありえねえ。俺んちに泊まるのが増えたなって思ってはいたけど……っていうか、気づかなかった俺も悪いんだけど、俺、そんなに頼りない?」

 急いで首を振る。頼りないなんて思ってない。圭介が大事だから、圭介のことが好きだから、迷惑をかけたくないだけ。

「頼りないなんて思ってないよ。でも私のことで迷惑かけるのは嫌だから……」

「だーかーらー。それが遠慮だって言ってんの! とにかく、しばらくは俺んとこに来い。仕事先には連絡入れた?」

「うん。上司に事情は話した。1か月のお休みはもらえたよ」

 病院の帰りに私の部屋に立ち寄った。隣りの部屋からは今日もまた何かを投げ合う音が聞こえていた。罵り合う声、叫び声、喚き声。

 圭介はその凄まじさに驚いていたようだったけれど、特別何かを言うことはなかった。私は『声』や『音』に恐怖を感じながらも、必要最低限の荷物を手早くまとめ、部屋を出た。

 圭介のアパートは、私のアパートより古く狭い。だけれど、その佇まいには、ホッと心を和ませるものがあった。それに圭介の部屋は、圭介の匂いに溢れている。いつ来てもそう。

 1DKの狭い部屋だけれど、この狭さがいいんだよ! どこにでもすぐに手が届くからいいだろ? と圭介は言う。

 二人で過ごすには狭い部屋。それでも、圭介と過ごす毎日は楽しかった。

 ただ私の体の中に鬱病の薬が入るようになって数日が経過すると、ぼんやりしていることが増え始めた。朝も起きられず、ベッドの中から圭介の背中を見送る。一日中ムカムカして、まともに食べることもできなくなり、夕方ようやくおなかが空いて、コーヒーを飲んだらまた食べられないという日々。

 一度病院に電話を入れて「ムカムカして辛い」と訴えたけれど、「そのうち慣れますから、飲み続けてくださいね」という返事。

 ぼんやり=眠いという連鎖で、私はほとんど一日中眠っていた。一週間ほどはその生活に疑問を持つこともなく、何もしない自分を肯定して過ごした。仕方がないことなんだ。私は病気なんだから……と。

 21時過ぎに帰宅した圭介が、狭いキッチンで何かをしている音がして目を覚ました。圭介の匂いに満たされたベッドから降りると、頭が重い上にフラフラした。それでも、起き上がって圭介のそばに行くと、圭介は買ってきたお弁当をレンジで温めているところだった。私が隣に来たのを見て、圭介が微笑んだ。

「気分は? お前の分も買ってきてるけど、食えそう?」

 何気に言われた言葉だった。圭介は悪くない。私が……

 レンジからチン! という軽快な音が聞こえ、圭介がお弁当を取り出した。

「お前、先に食ってていいぜ。俺、こっち温めるから」

 圭介から温かいお弁当を手渡されたとたん、私の中の何かがプツンと切れて、涙がとめどなく流れ出した。圭介は驚いて私の手からお弁当を取り上げると、私をベッドの方へと促した。

「どうした? 具合が悪いのか?」

 私は首を振る。何度も、何度も。

 私は自分が情けなくてたまらなかった。自分の大事な人に何もしてあげられないどころか、お弁当まで買ってこさせて、温めまでさせてる自分。圭介の部屋に来て、私は圭介のために何もしていないことに気づいた。圭介にしてもらってばかり。与えてもらってばかりの自分。

「圭介……ごめん。……ごめんなさい」

 言葉にしたいことはたくさんあったけど、「ごめんなさい」しか言えなくて。

 そんな私を、圭介はただ黙って抱きしめてくれていた。時々子供をあやすようなしぐさで、背中をぽんぽん叩いて。

 私はされるがまま圭介に抱きしめられて、泣き疲れて眠ってしまったらしい。気が付いたら、もう外は明るくなっており、圭介は既にいなかった。

 テーブルの上にメモが一枚。

『今日は飲み会があるから遅くなる。何かあったら携帯に連絡するように』

 圭介は優しい。おかしい私のことをこんなにも大事にしてくれている。でもその事実が、私を一層苦しめ始めていた。

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