第4話 黒の芽生え

 私だって、最初から闇を抱えていたわけではない。でも今思えば、闇の種は幼い頃に蒔かれていて、私はそれを心の中で育んでいたのだと思う。そしてある出来事をきっかけに闇の種が発芽して、それは一気に成長を遂げた。

 そのきっかけとなったのが一人暮らしだったように思う。

 私は、実家から「通える大学」ということで、無難な近くの大学を卒業した。私の意思ではなく、母が勝手に進学を決めた大学だった。私にとっては目的もなく入った大学だったから、ここで得たものはあまりない。大卒という肩書きがついただけだ。

 大学を出ると、当然就職になるわけだけれど、母はツテを使って私を市役所に入れるつもりらしかった。

「公務員は安定しているわ。女の子なんだから、いつかは子供も産むんだし、産休があっても復職できる環境って考えると、やっぱり公務員が一番よ」

 母は私にそう言い聞かせ、自分が決めた道を歩んで行くのが、私の子供としての務めだと思っているようだった。

 大学へ入学するまで、私は母の決めた道をひたすら生きてきた。そのことに反感を感じたことはない。母の言うことは間違っていない。小さな頃からそう植えつけられてきた私にとって、それは「当然」のことだった。反抗する術すら知らなかったのだ。

 でも、大学で知り合った仲間や、恋人である圭介が、自由に自分の意思で自らの道を選択し、生きているのを目の当たりにしてからは、親のために生きることや、親の満足感のために私の意思が無視されることに、多くの疑問と反感を抱いていた。

 そこで、私自身の自由を手に入れるために、私は初めて母の敷いたレールから飛び降りたのだ。実家を出て一人暮らしをするために、今の会社に就職した。この会社に決めたのは、高校を卒業してすぐに就職した圭介の会社が近いことも理由のひとつだった。

 親に束縛されることなく自由を手にし、圭介と二人で始める未来。

 もちろん親には反対された。大反対だった。ヒステリックに怒鳴る母を見て、一人暮らしなんて諦めるべきかもしれないと悩んだりもした。でも、私はどうしても自分の意思で生きて行きたい! その思いを捨てきれず、ビクビクしながら家出同然に実家を出た。

 そして圭介のアパートの近くに部屋を借り、お互いの部屋を行き来したりて、誰にも干渉されない自由を手に入れた。最初こそ母はやたらと電話をかけてきたり、突然アパートに来たりしていたけれど、仕事を始めた私との都合が合わなくなってくると諦めたらしい。それからの毎日は楽しかった。自由というものが、こんなに嬉しくて明るいものだということを初めて知り、私は有頂天になっていた。

 でも、当初は穏やかだった暮らしが、次第に憂鬱で辛いものへと変貌していくことになる。

 私が借りた部屋の隣りには70をとうに過ぎていると思われるおばあさんが住んでいた。おじいさんとの二人暮らし。

 引っ越したその日、お菓子を持って挨拶に行ったら「うちは甘いものは食べないから、ビールに替えてちょうだい!」と言われた。初めて会った相手であったことと、私にとっては意外な返事が返ってきたことで、なんと言い返せばいいのか分からなかった。だからと言って、言いなりにビールを持って行く気にもなれなかった私は、そのおばあさんの言い分を聞くこともなく放置することにした。

 手伝いに来てくれていた圭介にそのことを話すと「相手にするな」と言われたし、私自身関わり合いになりたくない。との思いからだった。

 けれど、言い分を聞かなかった私の方が悪いということになったのだろう。隣りのおばあさんは、次々に嫌がらせを仕掛けてくるようになった。

 最初は気づかないくらいの嫌がらせ。

 届いた郵便物がポストから落とされていたり、玄関のドアがなんだかベタベタしていたり。それくらいの嫌がらせのときは、気のせいかもしれない。なんて思っていたけれど、もしかしたら? という思いも抱いてはいた。それでも無視をし続けたのは、争うことを避けたかったことと、面倒なことに巻き込まれたくないという思いがあったからだ。

 でも、私が相手にしないことが更に怒りを生んだらしい。嫌がらせは次第にエスカレートしていった。

 時間構わずのチャイムの連打。少しでも音を立てるとやってきて「うるさい!」と怒鳴られた。鍵がかかっていると分かっているくせに、ドアノブをガチャガチャと回し、不快な音を響かせた。おまけに隣の二人はよく喧嘩をしていた。その喧嘩のたびに、何かが割れる音、わめき声、叫び声。凄まじい音が聞こえてきた。

 そのうち、私は怒鳴られることに恐怖を感じるようになり、隣に音が聞こえないようにしなければ。と思うようになっていった。音をさせるのが怖くなり、自分の部屋だというのに音をさせないよう神経を使って過ごした。ましてや、二人の喧嘩が始まると、それだけで不安になりビクビクした。

『音』が私の神経をすり減らし、何よりも怖いものになっていた。

 そんな部屋に帰りたいはずがなく、私は何かと理由をつけて、圭介の部屋に泊めてもらうことが多くなっていた。同棲は避けるべき。その考えは変わらなかった。だから、自分なりに大丈夫そうなとき、耐えられそうなときは自分の部屋に帰るようにして。

 そうして一年、耐えた。

 次の場所へ引っ越すにしても、敷金や礼金の準備が出来なかったし、親の反対を押し切っての一人暮らしだったこともあって、都合のいいときにだけ親に頼りたくなかった。

 一年が経った頃、私はある自分の変化に気づき、戸惑った。

 私は窓が開けられなくなっていた。

 隣りの音が聞こえるのも、自分の部屋の音を聞かれるのも、怖くてたまらなかった。怖いという一言では片づけられない恐怖を感じるようになっており、チャイムが鳴るとドキドキして、背中を冷たい汗が流れた。気分が落ち込んで、楽しいと思えなくなった。食欲もなくなり、眠れない。圭介にさえ会いたくなくなって、自分の部屋にいるのが怖いというのに、部屋から出られなくなった。人に会うのが怖かった。

 自分でもどうにかしなくちゃ……と思い始めてはいた。でも、踏ん切りがつかなかった。

 こういうとき、どこへ行けばいいの? 精神科なんて、おかしい人が行くところでしょ?

 仕事も忙しかった。就職したばかりの新人が、簡単に休みをもらえるわけもない。ただでさえ、先輩たちに「早く仕事覚えてよね!」と嫌味を言われている状況なのに、休むなんてことになったらなんて言われるか……。想像するだけで、ゾッとした。おまけに体調が悪いなんて言ったら、根掘り葉掘り聞かれるに決まっている。

 自分で何とかしなくては。そう思う私の意思に反して、私のこのおかしな症状は、いとも簡単に圭介にバレた。

 会社帰りに、圭介に誘われて食事に出かけた。静かなオシャレなお店だった。 

 私より4年早く社会に出た圭介は、社会人としては大先輩だ。圭介は先輩なだけあって、当然私より飲み会などの経験も多い。飲み会のセッティングも仕事のうちだ。なんて言うこともあるくらいだから、こういうオシャレなお店を利用することも多いのだろう。

 そして、私が気に入りそうなお店があると、時折誘って連れてきてくれるようになっていた。

 高校生の頃には出来なかった大人のデート。私たちは大人らしく、ビールで乾杯し、食事を楽しんだ。私はせっかく圭介が連れて来てくれたのだから……と、楽しく見えるように努力していた。

 前菜に始まり、スープ、サラダが続き、メインの肉料理が運ばれてきた。圭介は豪快にナイフで切り分け、口を大きく開けて頬張った。その様子はとてもおいしそうに見えたし、楽しそうだった。

 私はというと、お肉の塊を小さく切り刻む作業ばかりを進めていた。少しでも食べなくては。そう思うのに、肉片を口に入れる気になれなかった。そんな私を見て、圭介が心配そうに声をかけてくる。

「食欲ないのか? それに……お前、痩せたんじゃないか? 仕事そんなに大変か?」

 引っ越した日以降の嫌がらせについては、圭介に話していなかった。心配をかけたくなかったし、こういうふうに自分がおかしくなっていることを知られるのが怖かったからだ。

「大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ」

 曖昧に笑って、食べたくもない肉片を口に入れた。味のしない肉片を噛み砕きながら、なんとか食事を進めていると、少し離れた場所で明るい機械音が流れた。誰かの携帯が鳴ったようだ。すぐに男の人が大きな声で話し始めた。まわりの人たちが声を潜め、その男の人を非難している様子が伝わってくる。お店のスタッフはまだ気づいていない。

 圭介さえ眉を潜めたというのに、スタッフには聞こえていないのだろうか?

 男の人の声は相当に大きかった。そうしているうちに、私たちのテーブルから3つ離れたところに座っていた客の中の一人が立ち上がり、電話中の男の人の方へ歩いて行った。

「君、話すのなら外に出たらどう?」

 声をかけられた電話中の男の人は、不愉快そうに相手を見上げ「何だよ?」と声を荒げた。二人の男たちは、お互いに険悪な顔つきになり、何か言い争いを始めた。まわりで様子を見ていた人たちも次々に立ち上がった。そこで初めてスタッフが気付き、慌てた様子で奥から飛び出してきた。

 時間にして数分。たったそれだけ。それだけのことだったのに……。

「咲? 大丈夫か? おい! 咲?」

 圭介の声が遠くから聞こえてくる。

 自分の体が震えていた。寒いわけではないのに、震えが止まらない。これまで生きてきた中で初めての、言いようのない恐怖が体中を蝕んでいた。額から吹き出す冷や汗。胸の中で荒れ狂うガチガチとした痛み。何に対してか分からない嫌悪と吐き気。

 その後、喧嘩がどうなったのか、私は知らない。

 圭介によってすぐに私は店から連れ出され、私が落ち着いたのを見計らって、タクシーに押し込まれた。

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