第3話 わずかな願い
私が入院している病棟は、女性専用の閉鎖病棟なのだそうだ。女性専用のせいなのか、病院という感じはあまりない。ほかの人の部屋に入ったことがないので、それぞれの病室の中がどうなっているのかは知らないけれど、入院患者が集うことが出来るようにと設置されたらしい談話室や廊下には、立派な絵画が飾られ、穏やかな空気が流れていた。自分の部屋の中に入ってしまうと聞こえないけれど、病棟全体にかすかにピアノの曲が流れている。
この病棟に来て以来、動くことも話すこともない私だったけれど、一週間ほどが経過した頃から、一日に一度だけ自ら進んで部屋を出るようになった。トイレや洗面台は部屋に備え付けてあるけれど、お風呂はこの病棟にいる入院患者全員で共有している。だから、お風呂に行くときだけは部屋を出なければならないのだ。
何もかもが面倒で、動くこともほとんどない私だったけど、入浴だけは無関心でいられなかった。ここへ来てからはメイクもしていないし、特にきれいでいる必要もなかったけれど、最低限の『女』としての意識が残っていたのかもしれない。
お風呂は入院患者全員での共有となるので、自分が好きな時間に勝手に入ることは許されない。希望する時間を記入する紙が待合室にかけてあるので、朝そこへ記入しておき、他の入院患者と時間が重複しなければその時間の入浴が可能となる。ただし、浴室に行く前に、看護師から身体チェックを受ける決まりがあった。カミソリなどの刃物を持っていないか、つまりは自傷行為をしないためのチェックだ。
私は無言のまま身体チェックを終え、着替えを持った袋を下げて浴室へのろのろと向かった。浴室は病棟の一番奥にあり、一番手前にあるナースステーションと待合室からは、廊下に沿って並んでいるいくつもの扉を通り過ぎなければならない。
浴室へ向かう途中、ゆったり座れるソファがいくつも並べてある小部屋がある。そこが、談話室と呼ばれる部屋だ。ここにも、やはり南側には大きな窓がいくつもあって、眩い光が降り注いでいた。
私はこの小部屋に留まったことはないけれど、浴室への通り道であることから、幾度となく通るうちに、常に同じソファに同じ女性が座っていることに気づいた。女性たちは、それぞれがバラバラに座っている。けれど、自分の定位置とでも言わんばかりに、彼女たちが座る場所はいつも同じところなのだ。
座る場所が決めてあるのだろうか?
何かを話すわけでもなく、何かをするでもなく、ただ座っているだけの人たち。
窓に一番近いソファの前には、大きなテーブルが設置されていて、そこでは、すらりと足の長い、髪をひとつに束ねた女の人が、絡まったツタや枝、色とりどりの花々を切り、花瓶に挿したり、オアシスと呼ばれる緑の吸水スポンジをカットして、フラワーアレンジメントの作品を作っていた。いつ見てもその作業をしているし、その作業中彼女がまわりを見ることはない。もちろん、誰かと話すこともない。
そんな彼女を、ソファに埋もれながら黙って眺めている人たち。
うまくいえないけれど、ここはやっぱりおかしい人の集まりだと思った。誰一人声を発することがない。
それに、空気が違う。病棟の外に流れている現実の空気とは、質も密度も違う。
だけど、この人たちをおかしいと言う私が、ここにいる中で一番おかしいのかもしれない。大体、私は人として何かが欠けているに違いなかった。そうでなければ、こんな病気になるはずがないのだ。私は絶対におかしい。変だ。
生きることを拒絶しているというのに、私の意思に反して身体は生き続けている。誰ともつながらず、つながるつもりもないというのに、現実の世界からどんどん離れていく自分が怖いと感じる。自分が自分でなくなっていくことが怖く、ひどい焦りを感じているのだ。早く元の自分に戻らないと! そう思うのに、戻りたくない自分もいて……。
浴室手前のドアの前で立ち止まると、私はドアにかけられた「空いてます」という札を「入浴中」という文字にひっくり返した。間違って誰かが入ってこないように。それから脱衣場で服を脱ぐと、几帳面にそれらをたたんだ。誰に見られるわけでもないというのに体にバスタオルを巻く。
浴室に入ったら、バスタオルを濡れない場所に置き、すぐにシャワーをひねってお湯を浴びた。お湯が顔にかかり、雫が身体を伝って床を敷き詰めるタイルへと流れ落ちていく。排水溝へとうねるお湯を見ながら、自分の中の「辛いこと」「きついこと」「苦しいこと」「汚いところ」「人に見せられないところ」そういうものもすべてが流れ出てしまえばいいのにといつも思う。
髪の汚れを落とすシャンプーも、スポンジに含ませた石鹸も、私の外側の汚れを落とすことは出来るのに、私の中にある汚れは落とせない。何度も何度も洗ってみるのに、きれいになったという思いが芽生ることはないのだ。
今日もダメだった……。
私は洗うのを諦めて、今度は浴槽の中に身体を沈めた。身体だけでなく、頭まで全部を浴槽の中に沈める。そして息を止めて、試みるのだ。自分の身体が透明になれないかと。自分の体が透明になって、浴槽のお湯と一体化できれば、きれいだと思えるようになるかもしれない。そうなれば、どんな人にでも隠すことなく、全てを見せることができるに違いない。
私は出来るだけ長く、と思い、息を詰めた。苦しい。でも、もう少し……。お湯の中で目を瞑る。口からあぶくが上がっていく。
もう少し、もう少し……そう思うのに、私の肺が酸素を求めて苦しくなり、私は耐えられずお湯から顔を出した。浴槽の縁に掴まる。
「はあ、はあ……」息が乱れる。
顔に貼りつく髪の毛をそのままに、私は自分の手とお湯を見比べた。そしてまた絶望する。
今日もまた、私の身体が透明になることはなかった。
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