第2話 何もない白

 その部屋は、縦長の構造をしていて、真っ白な壁に覆われていた。清潔なベッドと、それに並行に置かれたシンプルな木製の机と椅子。机の右隣には衣服を入れるための木製のロッカーがあって、さらにその隣には小さな個室がある。個室の中はトイレと小さな洗面台だ。

 入り口から真正面、部屋の一番奥に位置する南側の窓は大きく、太陽の陽射しが眩しいほどに降り注ぐ。でも、この窓は絶対に開かない。鍵さえなく、ガラスを割らない限り空気の入れ替えすら出来ない。ガラスにしても、分厚いガラスが二重構造ではめこまれているので、割るためには相当の体力と気力が必要だろう。

 私は薄いピンクのカバーがかけられた枕を2つ重ねて高くし、大きな窓から降り注ぐ陽射しと枕に背を預け、入り口のドアを見つめていた。

 ドアもまっ白で、横へスライドさせて開けるタイプ。

 白はきれいだけれど、なんの面白みもない色だ。ただ真っ白なだけで、数を数えるヒントにもならない。

 私はそう思いながら、その白いドアを見つめるだけの生活を送っていた。私からは『感情』が消え、ただ息をしているだけの物体と化していた。

 そのドアからは、一時間おきにその日の担当看護士が顔を覗かせた。

「具合はどうですか? 何か欲しいものはありませんか?」

 担当の看護師は日によって違うけれど、かけられる言葉はいつも同じ。誰であっても同じことばかり言う。マニュアルなのだろう。そして私も自分のマニュアルに沿って、毎回首を振る。

 薬を飲んで意識を失くした後、次に目が覚めたときにはこの部屋にいた。誰かが話しているのを断片的に聞いたような気はするのだけれど、何が話されているのかも、誰が話しているのかも理解することは出来なかった。夢の中でゆらゆらと揺れながら、おぼろげに話し声を聞いたような気がするだけ。 

 ここに来てから、私の声が出なくなった。忘れたわけではないと思うし、出そうと思えば出せると思うのだけれど、とにかく何もかもが面倒で、私はここに来てから言葉を発することがなかった。

「何もしなくていいんですよ。しばらくのんびりしましょう」

 ドクターが時折様子を見に来てはそう言うのだけれど、私は「逃避」している自分を許せず、苦しんでいた。

 生きている以上、何もしなくていいなんてことがあるわけがない。そう思っているにも関わらず、ただ白いドアを見つめるだけの生活を送ることしか出来ない自分が嫌いだった。

 規則正しく運ばれてくる食事にも閉口していた。食事は、決められた時間きっちりに運ばれてくる。でも、私はその食事に手をつけなかった。腕を動かして箸を持ち、蓋を開けて中の物を掴む。そしてそれを口に入れて咀嚼する。咀嚼すれば飲み込まなければならない。その動きひとつひとつが、とてつもなく無駄なものに思えて仕方がなかった。

 食べるという行為は、生きることに繋がる。

 何も出来ない私が、これ以上生きてどうするの? その思いが、私に食べることを放棄させていた。

 看護師たちはそんな私に「食べたいものはない?」とやたらと声をかけてくる。食べない私への配慮だろう。私は首を振るだけとはいえ、毎回その質問に答えなければならないことに疲れ果てていた。「食べる」ことに拘る必要なんてないのに。食べないことが、そんなに問題なのだろうか? おなかも空かないし、食べたいとも思わない。生きるための行為なんてご免だ。

「あら? また一口も食べてないでしょう? せめてお味噌汁だけでも飲んだらどう?」

 食事をさげにくる看護士は、同じ台詞を繰り返す。

 食べたくないという意思もあったけれど、私の胃の上部ぎりぎりまで何かが詰まっている感じがして、そこへ何かを入れたりしたら胃が暴れだしそうなのも事実だった。「ムリです」という意味を込めて首を振ると、看護師はちょっと眉を潜めながらトレーを下げる。このやり取りが一日に三回もあるのだ。

 いらないって言っているのに。出されても食べるつもりもないのに。そう言いたいのに、言葉は出ない。

 夜もまた、蓋を見つめるだけの食事が済んだ。

 看護師から「一口でもいいから食べましょうよ? これ以上食べなければ、明日は点滴をしなくてはならなくなりますよ」と言われたけれど、どうしても食べる気になれない。

 私が何も答えないのを見て、看護師はため息を吐き、トレーを持って出て行った。

 看護士が出て行くと、私の心は更に憂鬱感に襲われた。夕食が済むと、私が最も会いたくない人物が来るからだ。

 コンコン! 控えめなノックの音がした。あぁ、今日もまただ……。

「咲、調子どう?」

 にこやかに病室に入ってきた彼は、圭介(けいすけ)。高校生のときからだから、付き合って五年になる。仕事が忙しいはずなのに、話すこともない私に会うために、彼は凝りもせず毎日やってくる。面会は二十時までなので、残業もせずに来ているのわ分かっていた。毎日決まって十九時過ぎ、食事が終わった頃を見計らって彼はやってくる。

 私はただ圭介の顔を見つめ、心の中の葛藤、叫びたい衝動と闘う。

 バカじゃないの? 私みたいなおかしい人、もう放っておいていいんだよ! そう叫びたい反面、圭介の顔が見えるとホッとする自分もいた。矛盾する自分の思いに呆れ、圭介が来ると私の心は荒れた。そんな私の葛藤など気にすることもなく、圭介は私の頭を撫で、にこやかに笑うと、ベッドのそばに丸椅子を近づけて座った。

 グレーのスーツにブルーのネクタイ。短く刈られた髪。いつもと変わらない圭介だ。

「今日、これ見つけてさ」

 圭介が切れ長の目を細め、私の前に取り出したのは一冊の本だった。大きさは、B5サイズ。その表紙には、自由きままなたくさんの猫がいた。圭介はその本を手に持つと、パラパラとめくっていった。

「さっき本屋に寄ったら目に入ってさ。ほら、このページのヤツ。ミミに似てねぇ?」

 差し出されたページを何気に見て、その本が猫の写真集だと気づいた。

「お前、猫好きだもんな。猫って、癒してくれるしなぁ」

 圭介は一人でしゃべり続ける。私の返事なんか求めていないとでもいうように。

 私に気を遣って? 静かな空間が辛いから?

 圭介は、私に見えるように、猫の写真集を1ページずつめくり、そこに写っている猫について一人で熱く語った。写真集が終わると、会社でこういうことがあった、道端に数匹の猫が蹲って会議を開いていた、などと面会が終わるギリギリまで、あたりさわりのない話を一人で続けた。

 私は時折瞬きをするくらいで、圭介の言葉に反応すらしていない。やっぱり白いドアを見つめているだけ。圭介の声は聞こえているようで、聞こえていないような状態だった。私の脳は、もはや言葉を理解しようという気力すらないようだ。聞きたくないという、拒絶反応なのかもしれない。

 一人で話し続けていた圭介が、自分の右手首に巻いている時計をちらりと見た。もうじき面会時間が終わるのだ。圭介が椅子から立ち上がり、私の頭に手をのせ髪の毛をくしゃりと撫でる。

「また明日な。咲、おやすみ」

 そう言って入り口の方へ歩いていき、一度こちらを振り向くと、圭介は必ず手を振った。それは毎日繰り返される圭介の「また来るよ」の合図だ。

 私はやはりただ無言で圭介を送り出すだけ。

 ゆっくりと、静かにスライドされた扉が閉まっていく。

 圭介の姿が見えなくなると、白いだけの扉を見つめていた私の胸の中が荒れ狂い、苦しくてたまらなくなる。私がこんな思いを毎日繰り返していることを、圭介は知らない。

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