<<アート・セラピー>>
患者女子のHさんが、
「私は油絵をやってみたいのよ。でも、道具は高くてね」
とこぼした。
私はHさんに、病院に来る前のお仕事(中国語の技術通訳!)のお話を聞いていたので、すっかりHさんファン。そして独身時代の元某IT企業の営業魂が思いっきり憑依して、「やっと私にもお役に立てることができた!」としゃしゃり出た。
「Painterという油彩画を描けるソフトがありますから、それとパソコンとタブレットを手に入れれば、アナログで描くよりずっと安価にできますよ!」
手許のノートで簡単に機器構成図を書く。
それから、主人に連絡して、次の面会で私が昔買ったPainterのマニュアル本を持ってきてくれるよう頼んだ。私がPainterを使って絵を描いていたのはもう20年も前のことだし、マニュアル本も同様に古くなってるからここの病院に置いてっても良い。また、私が選んだ本は作者以外の画家による作例も豊富に載っていて、作者の絵柄が好みでない人も楽しめるだろうと思ったからだ。
同様に、Adobe Illustrator(これは私が常用しているお絵かきソフト)の古いマニュアル本も1冊持ってきて貰った。古い本を選んだのは、病院の規則では紛失防止のため持ち物に名前を書かなくてはならないからである。私は本名とニックネームの"じゅり"の両方を書いておいた。ついでにEメールアドレスも(この話は後日)。
土曜日に主人がやってきて、注文した本を持ってきてくれた。面会が終わるとすぐ私は本をHさんのところに持って行った。
この本はHさんだけでなく他の患者さんたちも喜ばせた。
古い本とはいえ、全ページカラーで印刷はまだ美しい。最後の章に著者以外による作品もふんだんに載っていたので、絵を描かない人でも結構楽しめたのではないかと思う。
そこに良いタイミングでW君が、自分で上手に塗った愛らしいうさぎの塗り絵を持ってきた。
「色鉛筆も頼めば貸してくれるよ」
私はすぐにナース・ステーションに色鉛筆を借りに行った。それから、
「え~い、今日はおごりだぜぇ」
と自分のA3お絵かき帳から紙を引きちぎって皆に分けた。
Hさんは生まれ故郷の海の魚を描き始めた。いくつも描いている内にだんだんデザイン性が出てきて、塗りも複雑に、繊細になってきた。
いくつかの作品を経て、Hさんは遂に非常に美しい「水に映る富士山」を描いた。Hさんの得意とした即興の編み物の美しい色使いが見事に生かされている。あれを目にして褒めない人はなかった。
Hさんだけではない。
「見て、このページの絵を模写してみたのよ」
という人もいたし、一から描けない人も塗り絵を始めたり、私に
「こんな絵を描いて」
とリクエストしてきた。
ある日Fさんと散歩に行ってきた帰り、看護師さんに
「Fさんの顔描いてさ、メイクさせてみてくれるかな?」
と高度な頼みをされた。
Fさんの似顔絵は昨日描いたので割りと描きやすい。テレて恥じらうFさんを横に座らせて、彼女の顔を描き、色鉛筆で薄化粧。私は色鉛筆での着色がどうも苦手なので、色鉛筆の芯を崩すようにグシグシ塗り、出た粉を指でチークやアイシャドー部分にこすりつけた。
「いやぁ、これは傑作だ」
私に課題をくれた(?)看護師さんが近づいてきて褒めてくれた。Fさんの肖像は何故かナース・ステーションの引き出しにしまわれていた。
同様に"ナースちゃん"こと看護実習生の似顔絵を描きながら彼女に似合いそうなメイクの話をしたり、師長さんの似顔絵を描いたり、はたまた調理師さんの似顔絵をご本人の前でススッと描いたり、私の"お絵かきの才"は妙に珍重された。しかしこれは私自身にも役立った。他の患者さんの名前が覚えられないので、似顔絵を描いてあげてそこにモデルさんの名前を書いて貰ったのだ。この技は現在の主治医のクリニックでやっているデイケアでも役に立っている。
ある昼下がり、お風呂あがりの皆がデイルーム中央のテーブルに座っていると、Fさんが
「何か描いて」とせがんだ。
ちょうど頭に思い浮かんだので「ハムレット」で水死して川に浮かんでいるオフィーリアを描いたら、
「あら、かわいそうよ。もっと楽しい物を描いて」
私の頭の中はどちらかというと暗いので、このリクエストは難しかったが、ふと思いついて赤毛のアンとダイアナを描いてみた。
テーブルの先の方にHさんが座っていて、皆に「マクベス」のあらすじの話を始めた。もの凄く拝聴したかったが、テーブルにはHさんの話聞きたさに何人も集まっているので諦めた。
天気も良く、まったりとした午後だった。
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