<<おじいちゃんのバイオリン>>

ここは第1病棟の隔離室。

部屋にある備品はベッドと便器と今月のカレンダー1枚だけ。天井にはモニター。窓など、外界と接する部分には全て鉄格子。


看護師さんは一日に何度か部屋を訪れる。食事と歯磨き、血圧と体温測定、部屋の掃除、入浴。朝→昼→夜→深夜とシフトが変わるときに交替の挨拶。夜は当直の先生も一緒に来る。

しかしそれ以外のタイミングで看護師さんに用があるときは、ドアの横の鉄格子を握って待機(ナースコールはついていない)。運良く誰かが通りがかったら「すみませ~ん」と呼ぶことができるのだった。

もちろん、看護師さんの許可がなければ部屋から外に出ることはできない。具体的には一日一回、入浴の時に出してもらえるだけだった。


退屈だ。

入院した時に手に持っていた本は返して貰えないのかな~。

看護師さんたちも忙しそうで、余計なおしゃべりに付き合ってくれる人はいない。

仕方なく、私は延々と自分で喋って自分で突っ込んで自分でボケていた。それは精神病の一つの立派な症状だったのかもしれないが、私としてはロビンソン・クルーソーが難破した帆船から荷物を運び出すときもう一人の自分と頭の中で会話していた、というエピソードを思い出して実行してみただけだ。

ちなみに隔離室の生活を受け入れて耐えるには、とにかく主人公が幽閉される小説が役に立った。「ロビンソン・クルーソー」や「モンテ・クリスト伯」「落窪物語」「分裂病の少女 デボラの世界」等を良く頭に思い浮かべたものだった。


病室には時計もないから、今何時なのか時間の感覚も解らない。午後になり、曇りガラスから差し込んでくる光の向きと量で夜が来るのが解る、そんな感じだった。

季節は9月の下旬で、まだ暑かった。室温は24度に設定されていると聞いたが、ベッドに寝転がっていると、タオルケットやシーツが体温と汗で少しずつ温まり湿ってくる。それがたまらなく嫌だった。ここが海沿いだからこんなにベタベタするんだろうか。群馬に帰りたい。群馬の乾いた高原のような秋が懐かしい。

主治医の来訪や院長先生の総回診も、主人のお見舞いも、この頃は間隔とかが解らなかった。今日は何があるのだろう。明日は何があるのだろう。明日こそはここを出ることができるのだろうか。それともまた一日空白の中で終わるのだろうか。

病院に入院する(これまで私は入院経験がなかった)ってこんな風だったんだ。

幽閉されるのって、辛い。

この経験は私には立派なトラウマになった。

退院して相当の時間が経った今でも、無期懲役の囚人にまでつい同情してしまうくらいだ。


することがないから、いろんなことを考えた。主人のこと、親のこと、友達のこと。

とりわけ頭をよぎるのは、もう2度と会えない人たちのことだった。

ある日、父方の祖父のことが頭に浮かんだ。

祖父は学校の教員だった。退職後は若い頃韓国で手に入れたというヴァイオリンでいつも軍歌を弾いていた。

太平洋戦争に出征、終戦後はシベリアに抑留された。

戦友と共に長い間無蓋車両に揺られて着いた町の名前はカラガンダと言った。現在はカザフスタン領なので、シベリアというよりシルクロードと呼んだ方がピッタリする感じはするが、真冬の気温はマイナス40度にもなったという。まぁ、雪は降らなかったろうけれど。

そこで祖父は石炭を掘る仕事を与えられた。

「炭鉱の中は暖かかった」と祖父は言ったそうだが、宿舎での寒さは厳しく、

「火を絶やすな」

が合言葉だった。万一炉の火が消えたら、部屋で眠っている者たちが凍死してしまう。夜中でも常に誰か火の番は起きていないとならない。

食事は貧しく、寝室は狭く、皆、折り重ねるようにして寝た。当然たくさんの抑留兵が死んだ。今でもかつて収容所のあった地近く、日本兵の慰霊碑が残されている。


夜はどうしたろう。

淋しい夜。娯楽といえばラジオくらいか。いや、ソ連兵に取り上げられてしまっただろう…。

私は、祖父のバイオリンが大活躍したのではないかと想像した。祖父はポケットサイズの軍歌の本をたくさん持っていた。軍歌なら戦友たちも一緒に歌える。

いつ解放されるのか、いつ日本に戻れるのか。

祖父は耐えた。日本に戻り、妻と子供たちに再会する日まで。


祖父に比べれば、こんな隔離室なんて大したことはないと思われるかもしれない。

でも幽閉されて、孤独で、自分の今後の運命が解らないという点では似たようなものだ。

人間、一番辛いのは自由を奪われることだ。

隔離室のベッドの上で私はそう思った。

まして祖父は、自由をこよなく愛する人だったのだから。



P.S.

これを書くにあたって父にシベリア抑留時の祖父のエピソードを聞いてみた。

「う~ん、バイオリンは戦地に持っていかなかったんじゃないかなあ」

と父は答えた。

しかしインターネットでカラガンダ抑留について調べてみると、楽器製作が出来る兵がバイオリンを作った、という記述があった。

楽器を演奏できる有志が集まって演奏会を開いたというエピソードもあった。

やはり祖父もカラガンダの空にバイオリンの音を響かせていたのではないかという気がしてならない。


※参考文献

Караганда / カラガンダ 慰霊碑訪問

http://punkte.exblog.jp/11793605

カザフスタン 日本人抑留者が未来に残したもの。

http://tokuhain.arukikata.co.jp/astana/2014/07/post_45.html

カラガンダ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る