<<海はなかった>>
ここは幕張だというのに、病院からは海が見えなかった。
第1病棟の隔離室はそもそも窓に触れられない。鉄格子の向こうに廊下があって、その廊下に全面すりガラスの窓があるだけだった。差す光は柔らかいが、自分がどこにいるのか全然解らない。シャワー室の窓から見えたのは、生け垣とテニスコート…。
HCUに移ると少し出世して、部屋に窓がついた。しかし窓の外は自転車置き場と物干し竿。殺伐とした眺めである。
個室には多少大きい窓があった。窓の外は駐車場になっていて、遠くに消防車が見える。手前には木が植わっていた。
でもこんな殺風景な第1病棟の病室にも利点があって、病室の中でいくら歌を歌っても(多分)部屋の外には聴こえなかったし、叱られもしなかった。
いろいろ歌ったが、結局お気に入りになったのは、合唱曲の「海はなかった」の覚えている部分と喜多郎の「シルクロード」の中の「シルクロード幻想」。後者の方はインストルメンタルなので、もっぱら♪ラララ~とスキャットで歌っていた。
さびれた入江で
白い羽根を見つけた
陽炎(かげろう)にかざして渚を走る
夏の旅びとの髪飾り
どの風待てば飛べるだろうか
※「海はなかった」より (C)作詞 岩間 芳樹 作曲 広瀬 量平
その頃、初めてこの病院で患者さんの話し相手ができた。
Aさんという男性で、年齢は私と同じくらい?(実際には彼の方が6歳年下だった) 非常に落ち着いた静かな感じの人で、短く刈った髪を金色に染めているのが印象的だった。洗面台で髭の手入れをしていたり、ナース・ステーションの入口で話をしているところを見たことがあった。
個室ゾーン(というか第1病棟全体)には患者同士がゆっくり喋れるような場所はなく、食事を待つときに2、3分話すだけだったが。
その内、食事が済むとAさんは決まって廊下の突き当たりにある白いドアを開けて出て行ってしまうことに気づいた。
看護師さんに訊いてみたけど
「あっちはデイルームだから行っちゃダメですよ」
同じく個室の患者であるN君が、扉の向こうについて教えてくれた。
彼も詳しいことは知らなかったが、
「あそこにはTVも新聞もあって、CD聴いたりDVDを見たりもできるみたいですよ」
何じゃそりゃ~、地上の楽園ではないか!
Aさんは昼間はデイルームで新聞を読んだりTVやDVDを見たりできるのか!
デイルームとはどんなところなんだろうといろいろ想像した。図書館みたいな感じなのか。それともビジネスホテルのロビーみたいな感じなんだろうか。あ、もしかしたらデイルームの窓からは海が見えるかもしれない!
見回りに来た看護師さん(前髪が長くて頬に垂らしている感じなので、私は「ゲゲゲの先生」とひそかにアダ名をつけていた)に
「デイルームって見てみたいです」
と言うと、彼はなぜか非常に喜んで
「それじゃあ月曜日に見に行こうね。今日は土曜日だからS先生(私の主治医)はお休みだけど、月曜には来るから話しておくからね。じゅりさんは舌が肥えてるから料理とか良いね」
さて、この週末の待ち遠しいことと言ったら!
しかし月曜日に言われたことは少し違っていた。
「じゅりさん、第2病棟に移りましょう。荷物を片付けておいて」
何とデイルームを外から窺うだけでなく、デイルームのある病棟に移籍することに!?
私は胸をどきつかせながら、クローゼットの衣類を自分のキャビネットの中にしまいこんで、ベッドの上をできるだけ綺麗に整えて待った。
他の看護師さんに
「一寸だけデイルームを見学してみようか」
と言われ、私はとうとう廊下の扉を開けた向こうに足を踏み入れた。
大きいTVがあった。TVの前には応接室の椅子のようなふかふかした椅子やソファーがあって患者さんたちは静かにそこに座ってTVを見ていた。Aさんもいた。
右隣りには新聞が掛かっていた。左隣りには共用冷蔵庫と白木造りの洒落た電話ボックスがあった。
手前には畳のコーナーもあり、そっと首を伸ばして奥を伺うと、書籍や漫画、碁や将棋、オセロなどのゲームもあった。すごい~!!
見るだけ見ると一旦第1病棟に戻された。デイルームを見せられたことで急に情報量が増えて悪化する患者さんとかもいるとのことだった。
午後になり、私は再び看護師さんに連れられて第2病棟の個室へと引っ越した。そして2度と第1病棟に戻ることはなかった。
衣類などを再びクローゼットにしまい、カーテンのひだなどさりげなく優雅っぽく整えて、私はおっかなびっくりデイルームへ出た。
しばらく読書やTVを楽しんだが、間もなくヘンなことに気づいた。
「海、ないじゃん…(泣)」
デイルームの窓から見えるのは芝生の庭と植わっている花と木立だった。それだって充分良かったけれど、海浜幕張って言ったら海やろが~! ドカーン!
翌日からお庭での散歩が許可されたけど、そこからも海は見えなかった。替わりに見えたのは、パワーショベルやクレーンが工事をしている風景だった。
中庭から見たこの病院の建物には2階があった。2階に上れば多分海が見えたのだろうが、そこはデイケア用に使われていたので、入院患者、しかも第2病棟に来たばかりの新入りが行く機会はなかった。
洗濯物を庭に干している時に、私は付き添ってくれている看護師さんに、例によって
「歌を歌いたいので、聴かなかったことにしてくださいね~」
と断って、「海はなかった」を歌った。
「この歌どっかで聞いたことがあるね。何の歌?」
「合唱コンクールの課題曲です」
簡単に言うと若者の挫折を海鳥の死に例えた歌なのだが、私にとっては、せっかく第2病棟までやってきたのに海は見られなかった、という歌なんですと説明した。
そのときその看護師さんに教えてもらった。
「ここの近くには小さいけど砂浜があって、遊歩道みたいになっているみたいだよ」
そのときからその遊歩道に行くのが私の楽しみになった。
締め付けが厳しい第1病棟の隔離室にいた頃は、毎日毎日どうやればここを出ていけるのかと嘆いていたが、第2病棟でのんびり暮らしている内に、
「私、退院するより海を見に行きたい」
等と精神病院にいるという自覚がないたわけたことを抜かすようになっていた。
そして主人と、
「退院したら幕張の海岸へ行こうね」
と約束した。
やがて待望の試験退院。
私の場合は金・土・日と2泊3日の帰宅を2回。これをつつがなく切り抜けたら本当の退院が可能になる。実際にどうなったかは別に書くとして、私は久々の"我が家"を満喫した。2泊3日はあっという間に過ぎて、日曜日は病院に帰る日。
松戸から幕張に行くにはどう頑張っても2回乗り換え。1時間半はかかる。海浜幕張の駅についてもシャトルバスに乗らねばならないし、バス停から病院までも少し距離がある。
「15時くらいには戻ってきて下さいね」
と病院から言われていたが、着いてみたら少し時間が余った。
「早く退院できるように、っていうゲン担ぎで海岸に行ってみようか」
と主人が言った。
海岸へとつながる遊歩道は病院の手前から始まっている。
私たちは手をつないで、足許の砂と落ち葉とどんぐりを踏みしめながら木立の中を歩いた。
その内不意に、視界が開けた。
青い空と青い海の間に砂浜があった。
ビーチバレーを楽しんでいる人々、犬を連れて散歩をしている人。
遠くに工場やガスタンクのシルエットが見えた。
砂浜には白い貝殻がたくさん落ちていた。2つ3つ拾っている内に私は珍しい物を見つけた。
シーグラス。
海へ流れたガラスの破片が、波と砂とに徹底的に磨き抜かれて全体が丸みを帯び、表面は曇りガラスのような不思議な質感を持つようになったものである。
おはじきより少し大きいくらいのサイズが多い。私は沖縄でお土産に買ったことがある。
日光に反射してキラリと光るので、慣れてきて3つ4つほど見つけた。沖縄で買ったような綺麗な水色のシーグラス。東京湾のような汚れた海で見つかるものとは思っていなかったので、思わぬ収穫に心が弾んだ。しかし病院には持って行けないので、主人に家に持ち帰って貰った。
しばらく砂浜を散策し、時間が来たので、私たちは病院へ戻った。
私を送り届け、一人になった主人は涙したという。
しかし私は意外とケロリとしていた。病棟の友人たちが喜びそうな本をたくさん抱えていたのだ。いつの間にか幕張の病院は、私のもう一つの"家"になっていたのである。
結局、このときの試験退院の成績が良かったのか、唐突な展開が私を待っていた。
試験退院から帰ったばかりの私に、火曜日、主治医のS先生が笑顔で
「今週の土曜日に退院が決まりました」
えええええっ!?
もちろん嬉しいのだが、嬉しさを前面に出すと患者仲間たちに申し訳ないような気がしたのだ。
それでも退院日までに一人ひとりに別れを告げ、自分の荷物を整理して、私は土曜日に迎えに来た主人に手を引かれて病院を去った。
この先海浜幕張の街に用があるだろうか。まして駅前からバスに乗らないと、徒歩ではなかなかに遠い病院。
もう、2度と来ることもあるまい。
主人と私の足は再び幕張の砂浜へと向かった。
この日は砂浜に人は誰もおらず、私たちはのんびりと浜歩きを楽しんだ。
シーグラスもまた拾った。最初に見つけたような綺麗な水色のものは見つからなかったが、鮮やかなグリーンやチャコールブラウンのシーグラスが私の手の上に乗った。
散々遊んで、海浜幕張駅までバスに乗って、私たちは家路についた。
シーグラスはしばらく家の玄関に飾っていたのだが、退院後最初の精神科主治医の許へ診察に行くとき、不意に私は先生へのお土産としてこれを持って行きたくなった。
幕張に海はない。そんなことはなかった。
このシーグラスこそが証拠。私の思い出の幕張の海は、この小さな石の中に豊かに眠っている。
私の歩く道はまだまだ長い。その彷徨の中、幕張に足を止めた。そこで拾った小さいが重い一里塚を先生に差し上げたく思ったのだ。
私は、一つの試練を乗り越えたのだと。
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