<<第2病棟の1日>>
「石田さん、奥さん寝ないんですよねぇ」
と看護師さんから主人に相談されるくらい、病院での私の睡眠時間は少なかった。
早朝、何かで目を覚ますと二度と寝つけない。
ベッドに横たわってタオルケットに身を包み、何とか二度寝しようとするのだが、30分もそうやっていれば飽きるし、同室の患者さんを起こしてはいけないからベッドサイドの電気も点けられない。
そういう訳で大体6時前にはナースコール(転倒防止のため、就寝時間後にトイレに行く時と起床するときはナースコールを鳴らすのが規則だった)を押してしまうのだった。
もっとも早朝組は私だけでなくて、まだ薄暗いデイルームにはお仲間が2,3人いたりする。本を読んだり、小声で他の患者さんとお喋りしたり、第2病棟の中を足音を立てないようにぐるぐると散歩したり。大きな音さえ立てなければ、ナース・ステーションも多少のことは大目に見てくれる。
私は絵を学んでいたA君と一緒にそっと窓のカーテンを上げて、中庭に通じる窓の外を見るのが常だった。白々と明けていく空。刻々と変わる朝焼けの色。森。中庭に咲いている花。
「夕焼けや朝焼けを描いた画家って殆どいないですよね~」
「代表的なのはターナーですか、やっぱり」
A君は森を指差して
「じゅりさん、森の木の葉はつやつやと光を反射して空に照り返しをするんですよ」
等と教えてくれた。
やがて6:30の点灯時間が来て、デイルームがパッと明るくなる。看護師さんが窓のカーテンを開けて、新聞を持ってくる。患者さんの誰かがTVを点ける。
起きてくる患者さんが増える。
新聞は朝日新聞と千葉日報の2種類で、新聞組は礼儀正しく新聞の取り合いをする。デイルームのテーブルの上に新聞を広げて隅から隅まで眺めないと気がすまない人もいる。
TVのチャンネル権は大体一番早くTVの前のソファーに座った人のもので、何故か日テレかフジTVが多かった。私はNHKを見たかったのだけど、面白いことに朝と夕方、夜のNHKニュースの時間には、TVはつけてはいけない事になっていた。おかげでNHKヘイトな患者女子が「この病院の陰謀なのよ!」と言い出すほどだった。
新聞を読み、TVでニュースや天気予報をチェックしてしまうと、また暇になる。お腹が空いてくる。朝食はまだか~! 数名が、貼り出されている1週間分のメニュー表を見に行く。
ご飯の前には手を洗うこと。めいめい、デイルームの洗面台で手を洗う。横にはほうじ茶とお湯と冷水が出る装置があるので、朝のお茶を汲む。
7時半になるとガラガラと音がして、一寸びっくりするほど大きなワゴンを看護師さんが押してくる。一人ひとりのお膳が中に入っている。
自分の名前を言って、お膳を受け取る。
デイルームのテーブルで食べる人、自室まで運ぶ人、様々だ。私は第2病棟へ移って5日くらいは病室で孤食していたが、他の患者さんと仲良くなってきたので、デイルームへ出てくることにした。
車椅子に乗っているHさんは、お膳を自分では取りに行けないので、大抵Hさんの隣に座っているW君と私は看護師さんがHさんの分を持ってくるまで、何となく待っている。
食事は概して私には美味だった。しかし「とても口に合わない」と、ほうじ茶とお漬物でお茶漬けにして無理やり食べるようなグルメ派もいた。そういう人は孤食していた。
消化の良い料理が多く、ゆっくり食べようとしても10分もあれば終わってしまう。お膳をワゴンに戻すとナース・ステーション入口に患者さんが列を作っているので、そこに加わる。ナース・ステーションでは薬を貰って看護師さんの見ている前で飲む。それから歯磨きをすると大体休息時間になっているので自室へ戻る。
各食後には休息時間というのが1時間半設けられている。自室のベッドの上で休みましょうという時間。
これが退屈でたまらなかった。しかし恐らく看護師さんたちのご飯や休憩、引き継ぎや会議等がこの時間に入っているように見受けられたので、仕方がない。
それと私の場合、ベッドの上で読書したり書き物をしたりする分には大目に見られていたので、日記とか手紙とかはこの時間に書いていた。
この時間に落ち着いて休息できない患者さんも勿論いて、デイルームをそっと覗くと、テーブルに向かってポツンと静かに座っている患者さんが大抵1人はいた。
9時半になると休息時間が終わり、全てが動き出す。
看護師さんが患者さんひとりひとりの検温と血圧測定に来るし、病室の清掃も始まる。清掃のお仕事の人が病室の床をモップでこすっている間に、患者さんは自分のベッドの上をコロコロクリーナーで転がして髪の毛などを取る。毎週水曜日はシーツを交換する日で、木曜日はタオルケットを交換する日だった。私は共用洗濯機の使用時間を9時半に予約しておくのが常だったので、合間を縫って洗濯物を抱えてトイレ横の洗濯機へ急ぐ。
10時半には買い物の時間になり、ボヤボヤしていると抜かされることがあるためだ。
第2病棟では、10時半になると患者さん2人1組に看護師さんが一人ついて、病院の売店まで毎日の買い物をしに行く。廊下の途中にデイケアで患者さんが製作した絵画や焼き物などが陳列されているコーナーがあって、そこをちょこっと覗くのが楽しみだった。
ジュースなど買って帰り、ペンで自分の名前を書き入れて冷蔵庫に入れていると、11時。体育館でラジオ体操の時間だ。自由参加だが、参加者は多かったように思う。
終わった後は、体育館のドアから中庭に出て軽く散歩することもあった。ただ、私は洗濯物を干さなきゃと気が急いて、ラジオ体操第一が終わると慌てて一人洗濯機へ向かうことがよくあった。
11時半に昼食、13時半に休息時間が終わると、私は自分の本やお絵かき帳を抱えてデイルームへ行った。皆で雑談しながらお絵かきや塗り絵や折り紙で遊ぶ。色鉛筆と折り紙はナースステーションにあるのを貸して貰う。しかし折り紙は一人1枚と制限があるので、私は病院の売店で買ったり家から差し入れて貰ったりした。そうすれば何枚でも好きなだけ使えるし他の患者さんにも気前良く分けられる(どういう訳か文房具や折り紙をやり取りすることは禁止されていなかった)。
将棋セットが空いていると、テーブルの上に持ってきて、皆で崩し将棋(私が子供の頃祖母の家で教えて貰ったゲーム)をすることもあった。
TVでワイドショーを見る人もいたし、自前の便箋に何か書き物をする人もいた。
天気が良いと散歩が許されることもある。私はUV系の化粧品を持って来なかったので、日焼けが少々気になったし、散歩と言っても病院の庭の中をぐるぐる回るだけなのだが、
「じゃ、散歩行きましょうか」
ということになったらとりあえず付いていった。こういう幽閉生活をしていると戸外が恋しい。
そしてその合間にお風呂、となると結構忙しそうだが、実際には誰も彼も時間を持て余していた。何しろ刺激がない。
17時になると、色鉛筆や折り紙は(各患者さん毎に許可の"強度"が少しずつ違う。例えば私の場合は読書や書き物、絵を描くことは一日中OKだった)おしまい。出した人がナースステーションに片付けに行く。
私は自分の洗濯物の様子を見に行くのが通例だった。9時半に洗濯して、戸外か病院の廊下に干しておけば17時には9割方乾いているので、乾燥機にかけて30分も待てばカラッとした仕上がりになる。
デイルームの雰囲気は、夕食はまだか~!
またまた献立表を見に行く者数名(私もその一人だ)。あ、手を洗わなくちゃ!
夕食が済むとお薬を飲んで、また1時間30分の休息時間。それが終われば20:30まで、一日で最後の自由時間。この時間帯には患者女子は少なかった。患者男子はTVの周囲に集まってスポーツやバラエティを見て盛り上がっていた。
私は大河ドラマの「軍師官兵衛」を見るのが大好きだったが、20時半になればTVは消され、皆ナースステーションに列を作って寝る前の薬を飲む。
21:00消灯。あの~、あんまり眠くないんですけど~。
しかしここは目を閉じてベッドの上でじっとしていないと、結局寝つけずに当直のお医者様に頼んで入眠剤(翌朝口の中に独特の苦味が残るあのアモバンだ)追加という流れになるので、とにかく寝ることに集中する。
看護師さんが見回りに来た時など、一瞬起きてしまうこともあったが、第2病棟では結局アモバンが必要になったのは一度だけだった。
結局この頃の私の睡眠時間は一日5時間くらいだったのだが、どうも軽躁状態だったようで、余り日常生活には響かなかった。
夜中。ナース・ステーションの中の人の数は少なくなったが、24時間煌々と灯りがついていた。
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