<<フュージョン!!>>
ある日第2病棟のデイルームに出て行くと、いきなり話しかけられた。
「仏様と神様とはお友達ですよね」
いきなり何じゃと相手をつくづく見る。
50代くらいかな? 坊主頭で青の縞のパジャマ姿。藤子不二雄が描いたサイボーグ007のようなルックスのおじさん(以下Tさん)である。足元がふらつく症状でもあるのか黒いヘッドギアをはめていた。
私の考えるところでは世界三大宗教の神様仏様アラーの神は皆親友設定なので、そのまま答えた。
「いや、仏様と神様とアラーの神は皆お友達なんですよ」
Tさんの顔が輝いた。
「そうですね! きっとそうですね!…フュージョン!!」
おい、いきなりフュージョンかよ、またW君(患者さん。ナリはヤンキーだが聡明で人懐っこいのでどの患者さんとも仲がいい)辺りがいらんこと教えたなと思ったが、悪い例えではない。
私は彼と私のコップで乾杯をして共に叫んだ。
「フュージョン!」
すぐに話題は変わって、今度は
「宗派は何ですか」
と訊かれた。
「天台宗です」
「そうですか天台宗ですか。天台宗の教義ってどういうものなのですか?」
なぬ? 私が天台宗信者なのはあくまでも私の実家がそうだったから、だけであって…。高校の倫理・政経の授業で教わったような気もするが、そういう本質的なことはすっかり忘れちゃったぞ困ったな。考えた末、
「あのね、最澄っていう名前は最も澄めるものじゃないですか」
と私は口からでまかせを言い始めた。
「天台宗って最初に日本にやってきた仏教じゃないですか。その名の通り最澄は中国仏教の最も澄める部分、エッセンスを日本に持ち込んだんですよ。恐らく日本の仏教の宗派の中で最も中国仏教の形を純粋にとどめているんです。
真言宗はですね、空海でしょ? 空と海。壮大でしょ? 真言宗は同じ仏教でも密教などいろいろなものを抱合しているんです」
「なるほど~」
Tさんは私がひねり出した与太話(日本史のテストだったら0点です。信じないで下さい)をすっかり真に受けて感慨深げに納得していたが、やがてまた、少々遠慮がちに質問してきた。
「仏様は、煙草を吸う人のことをどう思いますかね…」
即座に答えが出てきた。
「最澄というくらいだから、最も澄んだ空気を喉に送るのがいいんじゃないですか?」
「なるほどね~、なるほど。それはそうですよね」
彼は少々落ち込んだように見えたが、深く頷いていた。
その後、瀬戸内寂聴さんと寂庵の話題とか話は弾み、Tさんはこんなことを聞いてきた。
「お経は唱えられますか?」
「は、般若心経でしたら半分くらい覚えています(汗)」
「では一緒に唱えましょう」
覚えてない箇所は口パクでついてけるかな~?と思いながら、彼の読経についていった。さすが私の自己流読経とは違い、音の伸ばし方とか発音とか、とても年季が入っていた。プロっぽい。
その後般若心経の意味をざっと解説してくれて、
「薄いお経の本を一冊持っているといいですよ」
とTさん。
話し疲れたのでそろそろ自分の病室に戻ろうかと思った私は、Tさんにお礼を言った。
「どうもありがとうございました。とても心が穏やかになりました。私も老後は嵯峨野に引っ込んで尼さんになって読経して暮らしたいです」
お世辞でも社交辞令でもなくて、結構マジな感想だった。世の中にはまだまだ自分の知らないことがうんとある。それに腹が立つ時もあるが、新たに学ぶべきことを見つけ出して嬉しいと思うことも多いのだ。
しかし、次に見かけた時のTさんは、あの穏やかなTさんではなかった。
デイルームにある白木の電話ボックスで、電話の相手に向かって怒鳴っていたのだ。デイルームには患者さんが何人もいたが、ドン引きというか、全員いたたまれないような不安げなムード。
受話器を置いたTさんに、私は話しかけた。何という危ない真似をするのかと思われたかもしれないが、私は入院生活で患者同士の諍いを見ることがなかったので、別に警戒心もなかった。
「どなたと電話してらっしゃったんですか?」
怒鳴り声を上げてストレス解消にでもなったのか、Tさんはこの前のTさんに戻っていた。
「母です。年のせいで耳が遠くなっちゃってね」
そのとき私は一つ思いついた。
「あら、もしお釈迦様だったら耳の遠い人にも解るようにゆっくりハッキリお話しますよ。Tさんもそうしなくちゃ」
専門家でも何でもないのに、お釈迦様にかこつけて自分の意見を押し付けるとは我ながら大きなお世話かつ傲慢すぎたが、Tさんはそれでショボンと反省した。
「本当にその通りですね。今度はそうしましょう」
えっ(汗)。しかしその後、まぁ確かに少なくとも私がデイルームにいるときに彼が公衆電話に向かって怒号の声を上げることは二度となかった。
何だか多少はイジっても大丈夫そうだったので、Tさんが朝食前に菓子パンを持って他の患者女子さんたちに
「食べませんか?」
と薦めて回って女子チームが困っている時に
「Tさん、朝ごはんの時はお菓子じゃなくてまず出されたご飯をしっかり食べないと、ってお釈迦様は思っているんじゃないですか」
とかやんわりシメたりした。
二泊三日の試験外泊を終えた私が第2病棟に戻ってくると、Tさんは他の患者さんと将棋に勤しんでいた。楽しげだ。
ある日、Tさんはデイルームの畳敷きコーナーで幸せそうにカセットテープのウォークマンを聴いていた。近づくと音がかすかに漏れていた。お経のテープだった。病院では音楽に縁がなかったから、正直羨ましかった。
私は試験外泊の時に、第2病棟でウケそうな書籍を自宅から何冊か持ってきていた。
Tさんと元画学生のAさんのためには仏像の本を選んだ。が、本を読むにも医師の許可が必要な世界なので、結局Tさんは本に手を出せなかった。彼と私は主治医が同じS先生だったので、S先生に訊いてみようと思ったのだが、このときは私の退院日が決まっていて毎日慌ただしかったので、結局訊くチャンスがなかった。Tさん喜んだろうになぁ。
そう言えば、私が初めて退院決定を公にした時、一番最初にパチパチと手を叩いて祝ってくれたのもTさんだったっけ。
退院はめでたいが、私の場合病棟に持ち込んだ荷物が多かったので、これをどうやって減らすか、頭が痛かった。持ち込んだ書籍は古くて多分もう読まないものが多かったのでこれを置いて行くと大分楽になるのだが、Fさんが
「じゅりさん。じゅりさんの本は絶対全部持って帰ってね。じゅりさんがいなくなってからその本を見ると寂しくなるから、ね!」
というので、持って帰ることになりそう…。
デイルームに出たら、Tさんが他の患者さんたちと立ち話をしていた。鼻水が垂れている。またか。
自室からティッシュを一枚抜いて、Tさんに「お鼻拭きなさ~い」と渡した。
「ありがとうございます。でもこれはじゅりさんのティッシュでしょ?」
「私は退院が決まったので、これからはこういうものは人のために使いたいんです」
言い終わってから、私は何だか自分が物凄く高尚でカッコイイ発言をしたような気になって照れくさくなった。
そのとき思った。Tさんは、人の中から仏性を引き出す人ではないのか。
Tさんは仏の依代である…どこに出しても否定されそうな変な解釈だけど。
昔、統合失調症患者が、シャーマンとして活躍していた時代があった…。
それから2日くらいたって、私達はデイルームで、退院したらお互いどこに行けば会えるか、という話題で盛り上がっていた。
CさんとA君(共に出版系の仕事をしていた)には
「旦那の会社に電話して旦那呼び出してくれたら連絡取れるよ」
と私は言った。そして、Tさんには…。
「貴方はきっと、どこにでもいらっしゃいますね」
退院後、薄いお経の本の代わりに私は「ボールペン『般若心経』練習帖」という本を買って、しばらくの間少しずつ写経をしてみた。その本には般若心経の現代語訳がついていて、「この教えを実践するのは難しいなぁ」と思いながらゆっくりペンを走らせた。
結局途中で挫折してしまったんだけど(笑)、もしまた何か大きな悩みに直面した時、またしばらく写経に取り組めば、私は森羅万象の中でTさんに再び会えるような気がするのだ。
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