<<そば打ち院長先生>>

院長の平田豊明氏。少し小柄だったような気がするが、いかめしい風貌であった。

基本的には週に1度、火曜日、総回診で顔を合わせる。お医者さん、看護師さん、その他謎の白衣の天使さんたちを引き連れて20人位でやってくる。

第1病棟にいると基本患者は防音設備のある個室に住んでいるので事前に気配は察知できなかったのだが、より開放的な第2病棟の患者たちは落ち着かない。普段よりベッドを綺麗に作って机の上も片付けて、廊下などを所在なげにうろうろしている。


私は総回診の回数を指折り数えていた。

「総回診、総回々診、総回々々診、総回々々々診、総回々々々々診…」

してみると入院一ヶ月半、総回々々々々々診くらいで出られたことになるのかな。

この病院にいる間、私はこの病院にいるのは「どっきりカメラ」か「絶対に笑ってはいけない精神科病棟24時」か何かであるという思いから離れることができなかった。

だって第1病棟の隔離室で、何故ここにいるのか解らずパニックになって、私が

「責任者出てこ~い!!」

と叫んだ瞬間部屋のドアがバーンと開いて院長先生を先頭に総回診一行が姿を現すとか、やっぱり冗談の世界じゃないか。


回を重ねるに当たってその総回診のやり取りもユルいものになっていった。

あるとき、何でそんな話になったんだか、院長先生が自慢した。

「どう、ここの病院食は美味しいでしょう」

確かに病院食は、他の病院と食べ比べた訳ではないけど美味しかった。鉄火丼が出た時には感動したくらい。刺身ありか~! たまには地雷料理もあったけど(ボソッ)。

しかしこの時の私は前の日に楽しみにしていた献立のラーメンが食べられなかったので(例によって私には特別に糖尿病食が用意されていたのである)ムクれていた。そんな訳で反射的にこう答えてしまった。

「でも、ラーメン食べられませんでした。楽しみにしてたのに(T_T)」

おいじゅりよ、それがこの病院で一番偉い院長先生とのやり取りか。

院長先生は気にすることもなく、私の机の上に置いてあったロザンナさんのイタメシ献立本を指さして

「楽しい研究をしているねぇ」

と言って笑顔で去っていった。


時には火曜日以外にも病棟で見かけることがあった。

私がマララちゃんと両手をつないで輪になって、病棟の廊下の端っこの誰もいないところで

「♪どんぐりころころどんぐりこ~」

とくるくる踊っていると、いつの間にか私達の背後に院長先生がニコニコしながら立っていたのである。暖かく見守られていたらしい。

A君と色鉛筆でいろいろ描いたり折り紙で何か作っていた時も、私達の背後から覗きこんで

「そろそろビールに合うような美味い枝豆の入れ物が欲しいな」

(確かこう仰ったと思う)

A君は

「きっと院長先生の冗談ですよ」

と笑ったが、私は念のためお絵かき帳を1枚剥いで枝豆の絵を描いて、それを箱形に折って入れ物のようなものを作っておいた。


そして退院。

主人は院長先生にはお会いする機会に恵まれず、残念がっていた。


その後、私は「救急精神病棟」(野村進著、講談社文庫、2010)という本を買った。この本は著者の方が約3年間に及び、私が入院した千葉県精神科医療センターを取材した体当たりルポである。

そこに院長先生が出ていた。この本の中ではまだ院長にはなっていなかったが、20pに衝撃の記述があった。

「大晦日には、平田豊明診療部長が自ら腕を振るった手打ちの年越しそばが振る舞われた」

う~ん、同姓同名かもしれないけど…いや、こういうことをするグルメキャラは絶対院長先生だ。間違いない。


それ以来、院長先生というと、先生がねじり鉢巻でおそばを打ってるシーンしか思い浮かばなくなってしまった。

当直の先生や看護師さんだけが食べられるのかな。患者さんたちも食べさせて貰えるのだと良いな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る