<<マリアちゃん>>

彼女もまた、第1病棟の個室で初めて出会った一人だった。

第1病棟では、患者同士が仲良くなれる機会はめったになかった。食事のお膳を取りに行くことやトイレ、お風呂に行くこと以外に共同の空間である廊下を歩く用事はなかったから。

それでも看護師さんの目を盗んでお喋りはする。

「私、キリスト教徒なのよ。マリアって呼んでね」

とピンクの花柄のパジャマをあどけなくまとった彼女は、洗いたてのような清潔な笑顔で言った。

それから、廊下で会うと少し話すようになった。

しかし私の個室生活はそう長くなかった。割とあっという間に第2病棟へ移ることになったのである。マリアちゃんにお別れを言う暇もなかった。


第2病棟での暮らしも残り少なくなってきた頃。

デイルームへ行くと見覚えのある花柄パジャマ姿で座ってTVを所在なげに見ているマリアちゃんを発見した。

「マリアちゃんじゃない!」

「あ、じゅりちゃん!」

お互いに再会を喜び合った。マリアちゃんは住所はまだ第1病棟のままだったが、午後の自由時間から夕食前までデイルームに出入りすることを許されたらしかった。その日は二人でいろいろな話題でお喋りして盛り上がった。

しかし、翌日のこと。

マリアちゃんは自分のコップの他に半透明のプラスチックの水入れを持っていた(第1病棟にいる間は、一日あたり摂取する水の量を制限されるので、一人ひとりに水入れが与えられる。恐らく水中毒を防ぐためと思われる)。

今日も彼女の隣に座ってお喋りしたが、何だかブキミなことを言い出した。

「私、生まれてからの年齢は56歳なんだけど、私は洗礼を受けた時から本当の人生が始まったのだから本当の年齢は洗礼を受けた年から数えて27なのよ。医師がカルテに本当の年齢を書いてくれないからいやんなっちゃう」

おいっ、一寸待て。

「マリアちゃん、お医者さんは心だけでなくて身体の病気の方も面倒見ているんだから、カルテには身体の年齢を書くのが本当だよ」

「あ、そっか~、そうなのか~」

当たり前じゃ。そんなところで若作りしてどうする。

それから「時計が読めない」とも言い出した。

「こっちの世界(第2病棟)では18時半からお夕飯の時間だから、時計の長い針が5のところへ行ったらそっちの世界(第1病棟)に帰ればいいんだよ」

「へぇ、じゅりちゃん凄い~。良いこと教えてくれたからお礼に私が今日持ってきたお水あげるね。これね、ルルドの聖水なんだよ」

 マリアちゃんは自分の水筒からの水を私のコップに入れようとした。

「こらこら、いらんって」

「でもルルドの聖なる水だよ」

「わ~っ、そっちの世界の水とこっちの世界の水を混ぜるな~!!」

興に乗ったマリアちゃんは、私のコップのガードが堅いと知るやその場に座っていた誰彼構わずルルドの水を振る舞おうとし始めた。引きつり笑いを浮かべながら、それぞれのコップを抱えてマリアちゃんと目を合わせないようにできるだけさり気なく席を外すデイルームの方々。静かなるパニック。


そのときようやく看護師さんの介入があり、ご飯の時間も近づいたことだしとマリアちゃんは第1病棟へ送還された。ゲッソリする第2病棟の患者さんたち。

「何だったの、あの人…?」

私は言った。

「あ、あの人キリスト教オタクだから。仏教オタクのTさんと話が合うんじゃないかな」

「え~っ!! 絶対喧嘩になっちゃうよ~」

「怖い~(T_T)」

常識人が多い第2病棟の人々にとって、マリアちゃんの天衣無縫な振る舞いはとってもインパクトがあるものだったらしい。

関係があるのかどうか解らないけど、何故かこの日のお夕飯は残した人が多かった。私は「もうこの病院で何があっても驚かねぇ」モードにすっかり入っていたので、自分の分は悠々と完食した。


マリアちゃんは毎日デイルームにやって来るようになった。

大体一人ぼっちで、私がデイルームに現れるとその都度目ざとく見つけて声をかけてくる。

なつかれるのは良いのだが、どうもここの入院女子には何気に同性愛っ気のようなのがある人が多く、時々腕にしがみつかれたりするのがちとウザい。

しかもマリアちゃんの場合、過去の男性経験が豊富だったようで本人曰く

「マリアはマリアでも私はマグダラのマリアなの」

なので予防線を張って

「私はストレートだから女の人より男の人の方が好きなのよ」

と釘を刺しておいた。その結果、マリアちゃんはだんだん殿方が占領している率が高いTV回り等にも座ったりして、他のデイルームメンバーとも話すようになっていった。


マリアちゃんに

「そんなにキリスト教に傾倒しているのなら何故修道院に入らないのか」

と訊いたことがある。

答えは簡単だった。

「修道女の制服代の13,000円(確かこれくらいだった)が払えなかったの」

それはひどいと思った。あの禁欲的な修道院にも入るためにお金が必要なんて。私がマリアちゃんに代わって払ってあげたい。この世の中、マリアちゃんがマリアちゃんのままで生きることが許される場所って、修道院くらいじゃないのか?

お金、お金。

またしても私は考えこんでしまったのである。お金って何だろう。


退院の時、私は彼女に会えなかった。

その後のマリアちゃんがどうなったかを私は知る由もなかったのだが、ひょんなところから彼女の消息を耳にすることになった。私より後に退院したMさんと連絡が取れて、私の退院後の第2病棟ワールドの話をしてくれたのである。

何とマリアちゃんは、あれから第2病棟に引っ越ししてきたそうな。

「あの人ねぇ」

Mさんは電話越しにつくづくうんざりした、といった口調で言った。

「自分のコップから手で水を取って、私の頭の上にかけたのよ!!」

「マジ!? …っていうかひょっとしてそれ洗礼のつもり!?」

「そうなのよぉ!」

私はMさんの災難に同情したが、一方で笑いを堪えるのに物凄く苦労した。

やっぱりマリアちゃんはマリアちゃんだ。

退院してから、修道院ではないにしても、どこかキリスト教に深く関わるところで暮らせるようになれば良いのにね。


※制服代の一件は裏が取れていません。修道院に入るってどうやるんでしょうか(^-^;

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