私……初めて……なんです♡

 8月上旬。

 蝉の声がさらに勢いを増し、焦熱地獄が大焦熱地獄へとランクアップを果たし、人々を苦しめる時期に突入したこの時期に。


「先輩、暑いです……」

「うるさい、暑い暑いって言うともっと暑くなるだろ」

「だって、暑いんですよぉ……」

「なら、自分の部屋に帰ればいいだろ……」

「くふふ……いやでーす……くふ……ふ……」


 ぱたり。


「二菜……? 二菜ーーっ!!」


 ……俺たちは、文明の利器「エアコン様」を失い、苦しんでいた……。


 * * *



 事の発端は、今朝方の事だった。

 いつもであれば寒いくらいに冷房を効かせているのに、なぜか蒸し暑くて目が覚めたのだ。


 恐らく、二菜が帰る前に、タイマーを仕掛けて帰ったんだろう。

 あいつめ……エアコンつけっぱなしは体に悪いとか言いやがって、お前は俺の母親かっつーの。

 しかし、目が覚めたからにはもう俺を止めることはできない。

 もう一度エアコンを起動して二度寝と洒落込もう。


 ……そう考えた俺を絶望に突き落すかのように、無情にも沈黙するエアコン様。


「あ、あれ? おかしいな……なんでつかないんだ?」


 リモコンの電池が切れたんだろうか? と考え、買い置きの電池と入れ替えるも反応なし。

 本体のスイッチ関連も無反応。

 その時、俺は戦慄すると共に、気がついた。


 もしかして、エアコン壊れてるんじゃない? と言うことに……。


 * * *



「で、修理まで1週間、ずっとこの部屋にいるつもりですか?」

「直るまで仕方ないだろ……」


 一応、すぐに大家さんにも連絡したのだが、時期が時期だけに、修理にしても交換にしても、対応までに1週間はかかるという。

 その間は、我慢して扇風機で過ごすしかないわけで……。


「せんぱぁい……もう諦めて、エアコンの使えるうちに来ましょうよぉ……」

「無理、マジで無理、それだけは無理」

「むーっ……このままだと、死んじゃいますよ……私、未亡人になっちゃいますよ?」

「結婚どころか付き合ってもいねーわ」

「くふふ……なら、私とお付き合いして、部屋に来ましょ……?」

「無理……」

「なんでですかー……先輩……斬れ味が鈍いですよぉ……」

「マジ無理……」


 ……うちの部屋に二菜を入れるのは、まぁもう慣れたからいいとして。

 俺が二菜の部屋に行く?

 ないわー、絶対にないわー。


 逃げられないアウェーに自ら乗り込んで、飲める洗剤販売員さんや

 駅前でイルカの絵葉書を配っているお姉さんに囲まれたらどうするんだ、逃げられないだろ!

 そんな怖い目にあうくらいなら……俺は……俺は我慢するね!


 俺は! この暑さにも絶対!! 屈しない!!!



「はぁ……暑すぎて、何もしてないのに下着までぐしょぐしょなんですけど……」


 ――下着まで、ぐしょぐしょ?


 思わず二菜のほうへと向きそうな視線を、理性の力でぐっと抑えた。

 待てあわてるな、これは天音 二菜の罠だ。

 俺は絶対に、あいつのほうを向いてはいけない。


「あつーいです……上のシャツ、脱いでも大丈夫ですよね? ……んしょ、っと……」


 ――シャツを、脱ぐ?


「くつしたも……脱いじゃいましょうか……暑いですし、仕方ないですよね?」


 ――くつしたまで!?

 えっ、ちょっと待って、どこまで脱ぐつもりなの!?

 今シャツも脱いで? くつした脱いで? ぐしょぐしょの下着で!?


 ぎょっとしてつい顔を上げた俺を待っていたのは、満面の笑みを浮かべた二菜で……。


「くふふー! あれあれ~、先輩、私が脱ぐのが、そんなに気になったんですか~?」

「……違うし、なんか我が家に痴女が現れそうだったから、止めようとしただけだし」

「え、先輩の中で私、どんな格好してたんですか? 先輩のえっちー!」

「想像を煽ったのお前だろ……!」


 結局、二菜は何も脱いではいなかった。

 汗をかいてはいたが、ここに着た時と同じ服装だったのだ。

 くそぉ、騙された……! これだからこいつは信用できないんだ……!


「くふふ……先輩が見たいならー……ほんとに脱いでもいいですよ?」

「お願いします、本当にやめてください……ていうか、俺がじゃあ脱いでくれって言ったらどうするんだよ」

「まぁその時はそのときで……暑いから脱ぎます!」

「よしわかった、もう帰れお前」

「なんでですかー……」


 ここまで言ったところで、二菜が崩れ落ちた。

 俺も同じく、フローリングに張り付くように崩れ落ちる。


 あー、ダメだ、今日は本気で暑い……。

 かといって、外に涼みに行くほどの体力もすでに残されていない。

 俺のHPゲージはすでにレッドゾーンに突入しているのだ……。


 そういえば、去年の夏は中央図書館で朝から晩まで涼んでいたなぁ、電気代浮かせようとして。

 ふふ、今思うとなんて無駄なことをしていたんだろうな、去年の俺……!


「せんぱーい、諦めてもううち来ましょうよぉ……ここじゃ料理もできないですよ?」

「うーん……」

「熱中症とかになってからじゃ遅いですよ? 大変なんですよ熱中症って」


 確かに、それは二菜の言うとおりなのだ。

 このクソ暑い中で意地を張って体調を崩したって、何もいい事はないんだよな……。


「それに、ここで倒れちゃったら、夏休み残りは病院になっちゃいますよ?」

「それは……」

「バイトもいけなくなりますし、遊びにも行けないなんてつまらなくないですか?」

「そうなんだよなぁ……それを言われるとほんと辛い……」


 特にバイトを休むことになるのはなぁ。

 唯一の収入源だし、小遣いが目減りするのはかなり厳しい。

 店長にも迷惑をかけることになるし、それは俺もあまりよろしくないことはわかる。


「何より! 私とデートが出来なくなるなんて哀しいですよね!」

「それはどうでもいい」

「なんでですかー!!」


 最後のデート云々はどうでもいいとして、二菜の言うことはもっともなんだよな。

 流石にここは、背に腹は変えられない……か……?


「……わかった、二菜の世話になることにする……」

「それがいいと思います!」

「甚だ不本意だが……っ!」

「くふふ! それでは、私の部屋に早速行きましょう!」

「はぁ……まさか、お前の部屋へ行くことになるとは……」

「あ、先に先輩に一つ、言っておかないといけない事があるんです!」


 あ、そうだよな……こいつも女の子だし、当然男の俺に見て欲しくないものなんかもあるだろう。

 そうなると、先に一度帰らせて、少し遅れて行ってやる方がいいかな?

 くそ、こういうとき、ほんとに気が利かないな、俺は……。


「クローゼットの中の収納の一番上が、私の下着が入っている場所ですからね?」

「よし黙れ」


 隠すどころか自分から収納の場所を教えるとか、何考えてるのこの子!?


「先輩も男の子ですから、そういうことするかなって……」

「しないよそんなこと!? ていうかそういう知識、どっから持ってくるんだよお前!」

「音琴先輩が、『あいつはむっつりだから絶対探すわよ』ってアドバイスを」

「よし、あいつからのアドバイスは全部忘れろ、それらは全て無駄知識だ」

「そんなー」


 本当にろくな事を教えないなあいつ!

 今度会ったら、思いっきり説教してやらねばなるまい。

 ……なぜだか、遠くでてへぺろっとした音琴が見えた気がしたが、きっと気のせいだろう……。


「それはそうと、そろそろ私の部屋に行きましょうか」

「いいのか? 先に片付けたいものとかあるんじゃ……」

「? 先輩に見られて困るものなんて、私は持ってないですよ?」

「さよか……」


 イルカの絵葉書は、流石に玄関には置いていないか。


「ちなみに、私の部屋に来る人は、先輩が初めて♡ なんです!」

「友達を呼んだことはなかったのか」

「先輩より先に招きたい人がいると思いますか? いえいません!」

「なぜ反語?」

「――さぁ、お待たせいたしました先輩。私の部屋へ、ようこそ!」



 そして、二菜の部屋の扉が、ついに開かれた……。

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