△1二香(あるいは、ここが混沌アンダー/グラウンド0)


 新緑の芽吹く御苑の小路をひとり歩く。桜の季節は終わってるから、人通りはあまりないけど、逆にそれが今の私には心地よい。


 部活はあっさり体調不良を理由にスルーして、将棋のことも将来のことも、何も考えずにただただぼーっと歩く。涼しさを伴った風が制服ブレザーの裾を吹き上げるくらいに強く体に当たってくるけど、それもそれで気持ちがいい。


 このままどっか遠くへ行けちゃったらいいのになあ……出来っこないことが分かってて、そんな考えを頭の中にぷかり浮かばせて遊んでみる。海、とか。山あいの田舎の村みたいなとこ、とか。もっと行って外国? 私のイメージする「外国」って、小さい頃住んでいたオランダのデン・ハーグの、整然とし過ぎていて、どこかミニチュアみたいで可愛らしい街並みが思い浮かんでくるけど、もっと……ごちゃごちゃしてるけど活気のある繁華街の裏とか、そんなところで誰にも構わず構われずに雑に暮らしてみたい、そんな想いもあったりして。


 ……将棋から離れた生活。離れた人生。考えてる事の行き着く先は、やっぱりそんなとこだったりもするわけだけれど。将棋……将棋。付きまとうのはいつもそれだ。この国で生活していくのなら……人生を送るのなら、そうするしかないのかも知れない。詮無い思いはいつだって頭の中でぐるぐる回るばかりだ。


 その時だった。


「そこな、お嬢さん」


 いきなり背後からそんなしゃがれた低い声が。え? 私?


「……」


 芽吹き前のまばらな芝生の上に、声を掛けて来たと思われる人影が、まわりの平穏な風景からは浮き上がるような妙な存在感を持ってそこにあったけど。


 うーん、逃げた方がいいかも。黒から白に移行しつつある灰色の髪をうねりにうねらせた、結構なお年と思われる壮年男性……いやもう老人かな……でも頑強そうな体つきで背も180くらいあんじゃないの、という感じの威容、いや異様さがごんごん吹き出しているかのようであって。


 やけに糊の利いた真っサラ白衣をぴしりと着込んでいるけど、これを外出着と選択している時点で私の中のアラート指数は既にNGラインを軽くまたぎ越えてる。顔色は日に灼けているんだか、お酒飲みすぎて灼けてるのか分からなかったけど、色素が淀んだかのような赤銅色みたいな、色調からしてもはや常人離れ感ハンパないわけで、すなわち要注意。


「まさか、こんな近場に、これほどの逸材が眠っているとは、思わなんだ」


 私の不審な視線を受けてもなお全く動じない。そして第一声から、こちらの警戒レベルをぼんぼこ上げてくる物言いなんだけど。でもそれだけじゃなくて。


「選ばれし者、我らと共に、戦ってはくれぬだろうか」


 やけに物々しいというか正気から手を放したかのような言葉が、老人のひび割れた、何と表現したらいいか分からないけど、赤紫とアッシュグレイを混ぜたような色の唇から放たれたわけであって。


 うん、春だし、それは仕方ないよね……と、目の前の人物の動向と、やや開きっぱなしの瞳孔を注意深く見ながら、私はそれとなく後ずさると、万が一の用意を整え始める。あとは通報……上着の外ポケットに端末入れてるけど、あまり不自然にならない動きでそれを操作しなくちゃ……!! 


 いざとなれば、大の大人だろーと、何かしらの得物持ってない限り、即座に伸せる自信はあるけど。私は左脚をやや前に踏み込むと軽く膝を曲げていく。右脚は気持ち持ち上げて、爪先が地面につくかつかないかの所で力を抜きつつ固定。上半身は完全に脱力させて、何もしませんよ的「動作を予期させるようなこわばり」を見せないようにする。相手の反応をコンマ3秒でも遅らせられたら、もうそこで先制はぶち込めるから。大きく息を吸い込むと、私の中の何かが、かちゃりと音を立てて外れるのを感じた。同時に、ちょっと昔のことも思い出していた。


 5歳の時にパパの赴任に付いていく感じでオランダはデン・ハーグに私の家族は移り住んだんだけど、その小綺麗な街の大通りに面した目立つところにあったジムで行われている光景に、少女の私はなぜか目と心を奪われたのであった。


 キックボクシング。眩しいほどに鮮烈な水色のキャンバスの上で、ヘッドギアを付けた若い女のヒトたちが鋭い蹴りを放ってたり、組み合って渾身の力で膝を相手に入れ合っていたりしていた。つまりはかけはなれた「非日常」な光景がそこにはあったわけであって、その「熱」みたいなものに、私は……ずっと自分の意見もはっきり言えず内にこもっていた私は、惹きつけられたのだと思う。今でもその時の正確な気持ちはよく分からないし、説明することも難しいんだけれど、その日に体験入門してからずっと、私はのめり込むようにしてキックに没頭してきたのであった。


 ミロカは関節が柔らかいから、角度を微調整できるようになれば、無限ね、無限の強さよー、とすごい明るくてポジティブなヘラルダ先生はいつも褒めてくれてたっけ。でも日本に帰ってきてからは、諸々の事情によって大っぴらに練習できてない。将棋至上のこの国では、それ以外のほとんどの事……スポーツとか、娯楽とか趣味とかが、大幅に制限されてしまっているから……下手したら厳重通告が為されるくらいに。だからもちろんキックのジムなんてものは街中には無いし、こないだなんて、家の周りを軽く走ってただけで通達が届いた。でも家では欠かさずシャドーらしきことは今でもやってる。


 うん……回想が長くなったけど、要は、この目の前の不審者が不埒な行動を起こそうとしていると判断したのならば……即座に私の峻烈の右ローが火を噴くことになるというわけだ。


 しかし。


「キミは……」


 狂気の中の正気、というものがあるのかは分からないけど、今までの完全無欠な不審者感をふ、と消したかのように穏やかな目つきになった目の前の老人の様子に、先制態勢に入っていた私は一瞬、面食らってしまう。何だろう。でもその後の言葉の方が、よっぽど私を揺さぶってきたわけで。


「キミは、将棋に愛されていない側の人間ではないかね?」


 なに? その老人がぽつり放った言葉が、え? 意外な鋭さをもって、私の胸の内の核のようなものを突っついてきた。何なの。


「……」


 いろいろなことが頭の中を乱反射するように跳ねまわっていた。あ? 将棋に? 愛されて? 将棋に愛されてないって何だよふざけんなよ。何で初対面の不審者に、そんなこと言われなきゃならないんだよ。私の中の、先ほど外れた何かとはまた別の何かが、ブチブチと音を立てながら弾けキレていくのを感じた。老人の顔を見返して私は口を開く。


「……確かに愛されもしてないし、愛してもないけど。いけないの? 将棋が……将棋が何だっていうの。愛そうが、嫌おうが、そんなことお構いなしに向こうはこっちの方になんかまるで向き合ってなんかくれないし。それでも無理して頑張って『棋青』にまで入ったけど、それでも何にも変わらない。変わらないの。それがもう嫌になってる自分も嫌になってる。終わってんの。私はもう将棋なんか、受け入れられないくらいにぐちゃぐちゃのダメになってんだよ!!」


 初対面の相手に、いきなり胸の内を吐き出してしまった。それも最後の方は叫び混じりで。視界は何でか滲んできてたけど、どこかすっとしたような感覚はあった。周囲を巡回中のドローンがこの発言を拾っていたなら後で通告もんかも知れないけど。と、


「ダメ、ダメ、ダメ。いいではないかね」


 老人はまた不審者オーラを全開にしてきたようだ。いやにギラついた目をこちらに向けて来る。血走った、先ほど垣間見せた正気感は霧散して、どことなく常軌を逸し気味の喜悦に震えているとゆーか。要は尋常じゃない、それだけは間違いなく言える。いや言ってる場合じゃないか。老人は皺だらけの顔をこれでもかに歪めながらザラついた言葉を、重力が増してきたように感じるこの場に紡ぎ出してきた。


「将棋に毒されし侵されし、洗脳が如く病的なほどに魅入られし哀れなる人々の、その世界を、世界ごとひっくり返す。元凶たる災厄に立ち向かい、人々を清浄で正常たる世界へと導く。それこそが、われらが『ダイショウギレンジャー』」


 ささくれだった褐色の太長い指を、私の顔に突きつけながら放った言葉が、全ての始まりだった。


 私と、烏合の将棋戦士たちの、壮絶な戦いの幕開けだったのであった。


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