第一局:棋界の中心で、奇怪なことを叫んだ少女

▲1一歩(あるいは、投了から始まる物語)


「あ、負けました」


 声に出した瞬間、一気に緊張感がほどけ溶けていく感じ。何だろう、例えるなら、水に潜って感じてた息苦しさから解放されて、清浄な空気を肺いっぱいに飲み込んだ感じ。……その冷たさに、肺の中がちくちくと痛むくらいに。


 七十一手までで後手の私の投了。


 もう少し粘れたかも。いや、でも形勢は変わらないか。だったら潔く。


 対面のコが遠慮がちに、中盤の仕掛け辺りから振り返ろうと盤面を戻していくけど、おざなりな反応しか返せなかった。卓上盤の傍らに立て置かれたタブレットの画面は、今しがたまでの対局の指し手をそのカメラで捉えていて、詳細な分析をつけて開示してくるけど。


 ……私の悪手が、数値というかたちで露わにされる。一手ごとの形勢も。だから、感想戦とか、対局者同士でやる必要なんてないじゃん、っていつも思うんだけど、「定跡」の教師、阿久津はお互い検討しあうことで見えてくるものもあるんだって、そんな精神論みたいなことを言ってくる。はっきり、めんどくさい。


 私ら1年B1組が使う「対局室」は新校舎の四階っていう、階段の上り下りが結構しんどい辺鄙な場所にあるのだけれど、いい成績を積み上げて最上級の「A組」までいけば、「いい」部屋で対局することも出来るんだっていう。


 要は、棋力。棋力が全ての、この世界。それによって露骨に扱いとか待遇が変わるわけだけど、それはこれから社会に出ても多分同じだろうから、あんまり気にはならない。露骨過ぎて逆に清々しいくらいだ。


 静寂。


 教室ふたつ分くらいの広さのこの「対局室」には、一年生の男子女子合わせて40人くらいが、長机の上にずらり並んだ将棋盤の前で、息を詰めて盤面に集中している。窓から差し込む午後の柔らかな光が、水中のように静かなこの空間に舞う埃をきらめかせている。


 背中を伸ばすふりをして、ちらりと他のコたちの局面を覗き込んでみると、まだ中盤の入り口やら終盤の難解なところとかで、ああー、やっぱり投げるの早すぎたかな……みたいな、あまり心にもないことを思ってみたりもするけど。


 上の空の感想戦から、視線を、意識を窓の外へとずらす。鮮やかな緑色。人工芝の敷かれた結構な広さのグラウンドでは、ほかの組の体育の授業が行われていて、男女分かれてのサッカーのミニゲームが展開しているのが見えた。


 男子の中でひときわ機敏なパス回しをしているコのことをずっと目で追っていたら、「対局」の時間は終わっていた。さっさと駒を片付けて自分の教室へと戻っていく。


「ミロカ!! どうだった……って、ごめん、聞かなくてよかった」


 うつむき加減で廊下を力無く歩いていたら、背中から明るい声がかかったけど。振り向いた表情から察してくれたみたい。途中から声が萎んだ。いいよー、ナヤは勝ったの? と隣に並んでこちらを申し訳なさそうに見つめてくる小動物のような可愛らしさを醸した顔のコに、作り笑顔で応える。大きな黒い瞳は、見ていると吸い込まれるっていうか、呑み込まれるっていうか、何と言うか厳然たる力を宿しているように思われるのだけれど。


「序盤は完全に作戦負けだったけど……粘ってたら相手に緩手が出て……」


 トレードマークの高い位置で結ったポニーテールが、謙遜気味の言葉とは裏腹に楽しそうに踊っている。粘り。それやっぱり必要なんだろうねー、と、私はどこか他人事のように思うと、隣の美少女には気付かれないように鼻から息をひとつつく。そして、


「じゃあ『春順』いま『7勝1敗』かー。『今順位』が『5位』なら、これもう『A』狙えるっていうか、ほぼ確定?」


 努めて明るくそんな言葉を出してみる。「春の順位戦」と銘打たれた同学年生全員参加のリーグ戦は、4月の入学から6月まで、ひとり10対局行う。その勝敗結果によって、上のクラスへの「昇級」、下のクラスへの「降級」、というものが学期途中でも為されるという、露骨にもほどがあるんじゃないの的、厳然とした格付け社会なのである……そう、私らの通う、この中高一貫の「国立千駄ヶ谷棋青舎中等部」は。


 まあ望んで入学したわけだし、望んでもおいそれと入れるわけでもない超難関であることは自覚してる、つもり。だからそれはいいんだけれど。


 入試の成績順につけられた「順位」によって、1学年136名は、5つのクラスに分けられていて、私とナヤは上から二番目の「B1組」に在籍している。ナヤは、入学式から隣同士で普通に話すようになった、いちばんの友達だ。真面目でおとなしいコだけど、親が離婚したとかで、小学生の弟と妹の面倒を見てるって言ってた。そんな複雑な家庭事情の中でも、これだけの成績を残しているのは、はっきり脱帽。対照的に私は家に帰れば何をすることも強制されず、ただ勉強さえしてればいい環境。恵まれてんだろうけど。


「……残り2局に、とにかく集中するしかないかも。昇級とか、それはその結果だし」


 またもその思いつめたような言葉とは裏腹に、高揚感を押し殺しているような、そんな表情。達観してるねぇ、ナヤは。そして思い出したかのように私の方をその大きな目で見つめてくる。優等生的美少女とでも言うのだろうか。こんな上目遣いで迫られたら、男子なら抗う事、不可能レベルと思われる。


「……もしクラス変わっちゃっても、お昼はこれからも一緒に食べようね?」


「もちろん。ナヤが昇級しようがしまいが、それは変わんないし。てか私が降級する可能性も否めないけど」


 最後うまく取り繕えなかったか。微妙なトゲみたいなのを自分でも感じてしまう。ナヤもその小顔をちょっと強張らせたけど、何とか微笑みで流してくれた。


 だるい気持ちのまま、放課後。6時間の授業の大半は将棋に費やされるけど、申し訳程度に「国語」「数学」「理科」「社会」やらはある。でもあまり真面目に受けてる生徒はいなくて、端末の画面隅で「対局」やら「検討」やらをしているコがほとんどだけど。


 私は何となく息抜き程度に聞いてはいる。縄文時代の文化とか、有機物と無機物の特徴とか、方程式の解き方とか。社会に出たら役に立つかはどうか分からないけど、将棋で食べていけないなんてこともひょっとしたらあることだから、ツブしが利くように何事も取り入れないと。


 ……てな事を考えている時点で負けてんのかも知れないけど。てか今日部活だけど、どうしよう。サボっちゃおうかな……


 私の所属する「後手番横歩取り8五飛戦法人呼んで中座飛車部」は、結構な変人スペシャリストたちの巣窟と化している。はっきり選択間違ったかなあ……と思わなくもなかったけど、実は居心地のよい私がいるわけで。他人に関してはほぼほぼ無干渉の面々だから、その中で無心に指していると何か落ち着くんだ。それに上位者がいないってことも……何だろう、日頃はガンガンに殴られてぺしゃんこになってる私の自尊心を少し膨らませてくれるような気がして。いや、結構最低なやつだな、私は。


 ま、そんな部活だけど、それにすら顔を出したくないのが今の気分。いちばん大事な「順位戦」で負け越しているのがでかい。負け越しっていうか、「2勝6敗」は降級第一候補であるわけで。ここのところ、自分でもよく分からないけど、将棋に集中できてない自分を感じている。そんな風に自分を冷静に客観的に見つめ過ぎちゃうのも、私の悪いクセなんだけれど。


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