春の夜の空笑い

 急上昇、急下降。四人は三十度の角度で地面に叩きつけられ、岩を削りながら数メートル滑走した。おろし金に押しつけられたようなものだった。背中の皮膚が服ごと岩に掻き取られ、四人は悲鳴すら許されない激痛の中に放り込まれた。

 エステルは完全に変形した崖に着地し、四人の前に立った。

「付きまとうなだと?」

 血みどろの四つの肉体が、地面から引きはがされた。

「ふざけているのか! おまえたちだ、おまえたちが私を邪魔した!」

 四人は再び叩きつけられた。

「ここまで、ずっと! おまえたちはみじめにこそこそ逃げ回るくだらん鼠だ!」

 かすかな意識を保つばかりの四人が、浮かび上がる。

「死ね! ここで、今すぐに、人生最後のたわごとを後悔しながら!」

「うわあああああ!」

 突然、叫び声が響き渡った。視界の端に映るものが、エステルの意識をわずかに奪った。

 ウグルクだった。

 めちゃくちゃに剣を振り回しながら走っていた。エステルめがけて。

 エステルは右腕をウグルクに向けた。魔法の対象から外れた四人は地面に落ちた。つんのめったウグルクの肉体が浮遊した。

「うわっうわっやっぱりだ! ちくしょう!」

 それでもなお走ろうと、ウグルクは両脚で空気をかきまわした。

「なんのつもりか分からんが死ね」

「それは無理」

 金の被毛が斑紋の残像を残しながら閃いた。豹の牙がエステルの右腕に深く食い込んだ。

 マウフルはエステルの右腕に前脚をかけ、両顎にありったけの力をこめた。牙は筋肉を裂きながら突き進み、骨に到った。

「無能なクズが!」

 エステルは右腕を振り下ろし、マウフルを地面に叩きつけた。跳ね上がった豹にすかさず魔法を投射し、浮き上がらせて吹き飛ばす。マウフルは焼け残った木々をへし折りながら数十メートル後退し、舞い上がった灰と塵埃に呑み込まれた。

 エステルは額を抑えて俯いた。

「誰も彼もが……なぜ世界には、ばかをさらす人間の方が多いのだ。うんざりする。ばかはばからしく、黙って息を潜めていろ」

「いやほんと、そう思うよ」

 独り言に答えが返って、エステルは顔を上げた。

 アーシェラが、立っていた。

 傷だらけで血まみれで、ずたぼろで、死にかけで、堂々と立っていた。

「窓口でいろんな人見てきたからね、あたし。でも、あたしは喋るよ。黙らないし、息も潜めない」

 アーシェラが差し出した手を掴んで、ルイーズが立ち上がった。

「黙ってたってケツ触られるし、めっちゃ怒られるし」

 ルイーズはテルマを引き起こした。

「女はあほとか言われて愛想笑いしても、なんも評価されないっスからね」

 テルマの腕にすがって、ヴァージニアが立ち上がった。

「言うこと聞けば聞くほど増長されますからね。損しかありません」

 四人は手をつなぎ、立っていた。

 エステルは鼻で笑った。

「なんの宣言だ。だからどうした? 好きにすればいい。おまえたちはどの道、ここで死ぬ。おまえたちが憎む男によってな」

「違うだろ、それ。二つ違うぞ」

 まっさきに声をあげたのは、ウグルクだった。剣にすがって立ち上がり、よたよた歩く男を、エステルは視界にも入れなかった。

「憎んでるのはお前だけだ、エステル。女を……おい、もう一つはって聞けよせめて」

 エステルはウグルクを無視した。

「よっしゃ任せて! ウグルク、もう一つは?」

 アーシェラが笑いながら言った。ウグルクは懐から、ミルクガラスの香水瓶を取り出した。

「決まってんだろ。ここで死ぬってことだよ!」

 アーシェラがくすねた、役立たずのアーティファクト。その効果は、レベルに応じたステータス補正。

 山なりの軌道を描いて飛ぶアーティファクトは、エステルを狼狽させた。

「しまっ――」

 エステルは右手を持ち上げようとして、激痛に怯んだ。アーシェラは不敵に笑んで、手を差し出した。

 香水瓶はアーシェラの数メートル前に落ちた。

 ウグルクは忘れていたのだ。レベルが下がったことと、マナニア市街からここまで不眠不休で来たことと、岩に叩きつけられたことを。

 一瞬の寂寞。

 直後、アーシェラとエステルが同時にアーティファクトめがけて飛び出した。競り合いはエステルに分があった。傷だらけのアーシェラは、水中を歩くような速度でのろのろと進んでいた。

 飛び出したエステルが左手を伸ばした。指先がアーティファクトに触れた。アーシェラは数歩後ろにいた。

 金色の風が吹いた。

「ばか」

 香水瓶が目の前から消え、エステルはつんのめった。金の被毛と黒い斑紋が崖の縁を駆けた。

 アーティファクトをかっさらったのは、マウフルだった。茫然とするアーシェラの足もとに瓶を落とすと、ウグルクに駆け寄った。

「おれはまだやれるぞ! 六対一だ! 簡単な足し算だろ!」

「邪魔になる」

 わめくウグルクを、マウフルは背に乗せた。

「ありがと、マウフル!」、アーティファクトを手にして、アーシェラは叫んだ。「後で呑も! おごる!」

 マウフルは笑った。

「今度、尻尾の付け根をとんとんして」

「えっそれセクハラ……行っちゃった」

「返せ、盗人が!」

 エステルがアーシェラに飛びかかった。アーシェラはバルブを押し潰し、噴き出した紫色の煙をたっぷり吸い込んだ。

「んんー、いいね。オポポナックスかな?」

 突っかかったエステルを十分に引き込み、膝で顎を蹴り上げた。

 エステルの上半身が跳ね上がった。がら空きの脇腹に入れようとした蹴りは、しかし空を切った。

 自らに魔法をかけて浮遊したエステルが、口からおびただしい血を流し、アーシェラを睨む。

「それをよこせ!」

 猛禽の勢いで下降するエステルに、アーシェラは空の両手を差し向けた。アーティファクトが、無い。凍り付くような恐怖が、エステルの思考を加速させた。時間が蜜の中に流れるような鈍さで進み、瞳を横に向けると、香水瓶を手にしたルイーズが空中で拳を振りかぶっていた。

「すげー良いじゃん、オポポナックス。ウチ好きだなこれ」

 身を護るため持ち上げた左腕が、ゆっくり砕けていった。

 痛みが時間の感覚を引き戻した。エステルは垂直に落ちる自分と岩盤に叩きつけられる自分を同時に知覚し、血を撒いて絶叫した。

 殺意を熱い血で研ぎ、エステルは右腕で岩を引っ掻いた。冷たい風が吹き荒れ、崖に亀裂が走った。魔力を振り絞り、岩と風の大渦を――

「テルマ!」

 ルイーズがアーティファクトを放った。受け止めたテルマは紫色の霧を嗅ぎ、

「これがオポポナックスなんスね。喉によさそう」

 軽口を叩くと、エステルの魔法に自らの無文字魔法をぶつけた。崩れかけた岩が震えながら位置を保った。風と風が拮抗し、擦れあった大気は小放電の花を無数に咲かせた。

「ヴァージニア、よろしくっス」

 テルマは足もとに香水瓶を落とし、バルブを踏んだ。霧を浴びたヴァージニアは、

「これラベンダーですよ」

 アーシェラの知ったかぶりを暴くと疾駆し、エステルの右手首を両顎でとらえた。

 かつての夫婦は、一瞬、目が合った。

 ヴァージニアはきつく目を閉じ、慈悲と躊躇に囚われるよりもはやく噛み砕いた。

 左腕を壊され、右手を失い、魔法の源は失われた。

 戦いは、終わった。

 のたうち回るエステルをそのままに、四人はよちよち歩きで寄り集まった。虚脱感と焦燥感と後悔だけがあった。

「意味なかったよ、エステル。お互いこんなぼろぼろになって、なんの意味もなかったじゃん」

 うつぶせのエステルに、アーシェラは声をかけた。返事はなかった。

「よーし、行こうか。まずはなんかの基金!」

 四人はエステルに背を向け、歩き出した。

 背後で崖が崩れた。

 振り返ったアーシェラは、見た。岩塊と共に落ちていくエステルが、嗤っていたのだ。女に負けたのではないと。自ら尊厳ある死を選ぶのだと。おまえたちとはなんの関係もなく、死ぬのだと。

 アーシェラは飛び出した。落ちていくエステルの腕を掴んだ。老人の、やわらかくてぬるい肌だった。

 ゆっくりと落ちていきながら、アーシェラは見た。

 最初に走り出したのは、テルマだった。テルマは、一歩目でローブのすそを踏んづけて「ぶぎっ!」とかそういうニュアンスの声を上げながら派手に転んだ。

 次に、ヴァージニアが飛び出した。銀色の長い被毛を風に波立たせながらアーシェラにぐんぐん近づいた。崖を蹴り、アーシェラのマントを咥えた。

 アーシェラとエステルの体が崖からぶら下がり、ヴァージニアは前肢を地面に突っ張った。

 だが、傷ついたヴァージニアは二人分の体重を保持しきれず、ずるずると前進した。このままではまとめて滑落するだけだから離して、とアーシェラは言おうとしたが、

「ぐええええ」

 みたいなうめき声しか出てこなかった。マントで首が絞められているのだ。

「待って待って待って待って!」

 ルイーズがヴァージニアに抱きつき、反り投げの要領で持ち上げた。凄まじい勢いで、三人の体が浮き上がる。いつも通りのばか力だった。

 しかしながらルイーズの立っている場所は、風化した岩石が、度重なる魔法でめちゃくちゃにされた一部分だった。岩は当たり前のように崩壊し、四人といっしょに落下をはじめた。

「うそでしょ!」

 アーシェラは叫び、やっぱり死ぬときに出てくる言葉は変わらないのだな。と痛感し、その数瞬後、ぼむん! と奇妙な音を立てて弾力のある物体の上に着地した。

「ま、間に……間に合った……間にあったぁあああうひひひひ!」

 転んだ姿勢のまま、テルマがうめいた。アーシェラは、自分たちが着地したものに触ってみた。橙色に微発光する、全体としては皿のような形をしたものだった。旅の最中、何度も命を救われたテルマの魔法だった。

 いざってきたテルマが、崖から顔を出した。

「ほんと、いやほんと、あほなんスか? え、なに? なんで助けたんスか? あほなんスか?」

 アーシェラは笑ってテルマを見上げた。

「みんなそうじゃん」

 なにひとつ冗談になっていなかったけど、四人はげらげら笑った。

「……余計な、ことを」

 エステルはうめいた。

「なんのつもりだ。なぜ、助けた。私をあざ笑いたいのか? みじめなさらし者にしたいのか?」

「言っても分かんないかもね」

 アーシェラは冷たく応じた。

「目の前で誰かが落っこちてたら、まあたいていは助けようとしちゃうものなんだよ。なんのつもりもなく」

 エステルはうなだれ、口を閉ざした。



 四本目の環状運河沿いにある“銀の鹿角”は気の置けない酒場である。冒険者は夜ごとに集い、薄いワインとウォッカを空けながらダンジョンの情報交換に勤しむ。

 元号が改められてからも、それは変わらない。

 栄羽元年の春、酒場には冒険者。男も女も混ざって、おしゃべりに興じている。

「えと、じゃあ、あたしから」

 乾杯を済ませ、アーシェラが口を開いた。

「いやめっちゃ大変なんだけど! 戻んなきゃよかった冒険者ギルド! ステータスボード壊れちゃって管理が紙ベースになったからだるさがやばいし新人教育もばかしかいなくて辛い!」

「でもサブマスターになったんスよね、アーシェラ」

「そう! 給料上がった! でもまったく割に合わない! 現場ほっとんど出らんないし!」

 アーシェラはクワスを一気飲みし、ニャーニャをほおばった。

「あっこれおいしっ、脳の、なんか、臭みとうまみが……腎臓かな。食べて食べて、絶対ヴァージニア好きだよこれ」

「うん、いいですね。ワインがすごく……んふー」

 すすめられるがままにニャーニャを味わい、ワインをやったヴァージニアは、鼻から息を抜いた。

「じゃあ、わたしいいですか?」

「おーう、いったれいったれい」

 けっこうべろべろのルイーズがぐいぐいいった。

「ありがとうございます。えーと、まず給料が上がりました。仕事も大変ですけど」

「おーめっちゃいいじゃん。なんか全体的に忙しくなったよね。冒険者増えまくったからだけど」

 “銀の鹿角”も満席だ。今や、男も女もダンジョンに潜っている。経験値流入が均等になった以上、これは当然の成り行きだった。

「それと……娘に会いました」

「やば!」

「会った、というよりは、ちょっと喋っただけですけど。あの子、養護施設で働いていました。皮肉を言われちゃいましたよ。私みたいな子どもを増やしたくないって」

「そかそか」

 アーシェラは誰よりもはやく頷いた。

「無理して会うことないと思うけどね、お互い。家族だからって、仲良くしなきゃいけないってことないしさ」

「多分、そうなんでしょうね」

 ヴァージニアは気丈に笑って、ニシンの油煮をつまんだ。

「それで? テルマとルイーズはどうなんですか? 二人暮らし、うまくいってますか?」

「ウチ? めっちゃ料理つくってるよ」

 ルイーズは豚の脂身をかじってウォッカをなめ、満足げにうなずいた。

「意外に上手なんスよ。食べてびっくりしたっス」

「ただの手順だし料理って。つか仕事でやってた」

「私は最高っスよ。好きなだけ研究できるし」

「なんとか基金、やっぱりすごいんだねえ」

「アディンダ基金。まあ、私は頭が良いっスからね。マナニアから出てよかったっス」

 テルマは気負わず言って、リャビーフカをすすった。

「そういえば、エステルってどうなったんスか? 向こうにいるとマナニアのこと分かんないんスけど」

 アーシェラはまゆをひそめ、困ったように笑った。

「死刑だってさ。あれだけのこと、やっちゃったからね」

 兵士を扇動して国境付近で大暴れした結果、マナニアと隣国の関係は開戦寸前まで悪化した。ことをおさめるためには、誰かの首が必要だった。エステルと、事件に荷担した陸戦隊の兵士は全員死刑。冒険者ギルド職員は十六年から五十年の懲役刑。

 アーシェラたちとなんの関係もなく、エステルは裁かれた。

 直後に元号が改められ、“帝盛最後の”という枕詞を冠された事件はたちまち忘れられた。誰も彼もが忌まわしいできごとを古い時代に置き去ろうとしていた。

 何も変わりはしない。これからも、不当に給料が少なかったりばかにされたり、むちゃくちゃな因縁をつけられたりするだろう。それでも四人はちゃんと四人でここにいた。離ればなれになって、ときどき集まって下らないことをしゃべって、ごくまれに、これ以上ないぐらい完璧な瞬間が訪れるのだ。冬の青空に向かって、四人で跳んだときのような。だれかを助けるため、考えるよりも早く身体が動いたときのような。

 四人はもう、そのことを知っている。

「まま、呑も呑も! そんで明日も仕事だ!」

 諦念と倦怠を振り切って、アーシェラは空笑いをした。夜のどこかでそれは本当の笑いになって、四人はいつまでもくだらないことを話しつづけた。

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女はレベルが低いから 中野在太 @aruta_n

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