原盤は壊れた
ウグルクがぐったりしている頃、兵士たちも違和感を抱きはじめていた。
垂直歩行魔法の魔法陣を維持するプロセッサ役の兵士が、異常な倦怠感をおぼえた。彼らはよく訓練され、一流冒険者に比肩するほどの高レベルだ。自分の血で喉を潤す業務に最適化されている。
「なあ、なんかだるくね?」
「くっそだりぃ。なんだろ」
二人の隊員は、小声で囁きあった。
「任務がくっそくだらないから?」
「いや、そんな程度の話じゃないだろこのだるさ。なんつうか」
「レベル下がったみたいな?」
「それ。レベル下がったみたいな」
「10とかじゃねえよなこれ」
「体感30」
「分かる」
「報告する?」
「いやもういいっしょ、なんか。これ終わったら自決するだけだし」
二人の兵士は、同時に気絶した。
プロセッサが消えれば、垂直歩行の魔法もまた消える。崖をまっすぐ下っていた三人の兵士は、大地に見放されたような浮遊感をおぼえた。
「予備プロセッサを!」
小隊長は崖を滑り落ちながら瞬時に判断し、叫んだ。靴裏に仕込まれた宝珠を起動すると、三人の脚は再び崖に固定された。
宝珠に篭められた魔力は些少だ。尽きるより早く崖底に辿り着くか、安全な平坦面を探さねばならない。小隊長は立ち止まらずに考えを巡らせた。
「予備プロセッサの魔力が尽きた後は、自身の魔力で魔法を維持し前進する。遺体探しに時間をかけてはいられない」
「了解」
自身と隊員の魔力量を考えれば、十分に足りるはずだった。
宝珠が砕け、魔法陣が隊員の魔力を吸い上げはじめた。わずか数十秒で、兵士たちの身体から力が抜けた。
「隊長、なにか……なにか、変です」
分かりきったことを、兵士の一人が口にした。その身体がぐらりと揺れた。靴裏が垂直面から離れ、意識を失った兵士は頭を下に落ちていった。
言葉を失う小隊長の背中に、悲鳴が浴びせられた。振り返ると、もう一人の兵士が落下していた。駆けだした小隊長は三歩目で膝をついた。ぬるく深い泥に、ゆっくりと沈んでいくような感覚だった。あれが来る、と彼は思った。魔力を搾り尽くしたときの、溶けた下半身が、感覚を残したまま大きな渦に巻き取られていくような、あれが――
「あのー」
聞こえるはずもない声がした。眠りに就きばな聞こえる幻聴かと思い、無視した。だが、幻聴は肩を揺さぶったりしないだろう。
意思と関係なく閉じていた目を開き、かすむ視界に、彼は見た。
死んだはずの女が、宙に浮いていた。作戦目標の一人。名前は、たしか、アーシェラ。
「あなたも助けた方がいいですか?」
「幻覚だ」
小隊長はやっとの思いで声に出した。幻覚は肩をすくめた。
「だめだ、この人も連れてこ」
「なんで助けなきゃなんないんスか。この人ら」
幻聴がもう一つ増えた。
「まーあまあまあ」
担ぎ上げられた小隊長は、妙にはっきりした幻覚がどんどん増えていくことに恐怖した。
ダークエルフの女が、兵士を小脇に抱えている。
オークの女と狼人の女が、もう一人の兵士の手を一本ずつ持っている。
ゆっくり浮上している。
死ぬときには観たいものが観られるのだなと納得し、小隊長は意識を手放した。
気絶した三人の兵士を、四人は崖上に引っ張り上げた。
「はーだりぃ。きちぃ」
ルイーズは悪態をついた。
「見殺しにするよりはいいですよ。人が死ぬの、嫌ですし」
「まあそうっスけど」
「でさー、これなにがどうなってこんな感じなの? あたしおおむね寝てたし、まずそこからなんだけど」
恐怖と困惑の絶句が満ちる中、四人はなんの危機意識もなくぺちゃくちゃ喋っていた。
「なんやかやあったんスよ」
「おい」
「そっか、なんやかやか。ま、後にしようか。めっちゃおなかすいた! なんか揚げたの食べたい!」
「金ねーし」
「そうですねえ。どうしましょうか」
「おい……おい」
「すんって国境越えてさ、なんとか基金に行ってみようか。ほら、おじいちゃんが教えてくれたとこ。紹介状だけで意外にいけるかもよ」
「おい!」
エステルがありったけの声で怒鳴り、四人はようやく彼の存在を思い出した。
「やば! まだいた!」
「だから言ったじゃないっスか。ほとぼり冷めるまで待ってるべきだって」
「でも人が落ちてきちゃったからねえ。助けちゃうよねえ」
「自殺志願者でも考え無しに助けますからね、わたしたち」
そしてすぐに忘れ、また喋りはじめた。主観的に言って、四人でおしゃべりできるのがけっこう久しぶりだったからだ。
「なにを……している? なぜ生きている? 原盤はどうした、アーティファクトは! マナニアの未来を、おまえたちはどこにやった!」
「ごめん」
アーシェラは、お椀にした両手をおっかなびっくり差し向けた。手の中には、粉々に砕け散った原盤があった。
「壊しちゃった」
「殺せ!」
エステルは絶叫した。指令を受けた陸戦隊の、ある者は両手を突き出し、ある者は矢を番えた。
「放てッ!」
将校の指示と同時に、炎が、雷が、矢が、四人をめがけた。
「ほらこうなる。わかってたんスよ」
テルマは不満げに盾を生んだ。橙色に微発光する無文字の盾に炎が着弾し、弾けて消えた。掻き散らされた稲妻が盾の表面を滑った。突き刺さった矢はかすかな波紋を生んだ。
一斉射は、無文字の盾になんの傷も残さなかった。兵士たちは当然びっくりしたが、この場の誰よりもぎょっとしているのはテルマだった。
「やば……」
テルマは言った。
「私たち、ありえないぐらいレベルアップしてるっスよ」
「なんかそんな気はしてた、体調よくなってるし。あれだよね、原盤壊しちゃったからだよね」
原盤を利用すれば、経験値の分配を自由に操れる。かつて一人のろくでなしは、勇者となり魔王となった。
どこかの誰かが、ある日ふと思いついたのだろう。経験値に男女で勾配を作ろうと。意図は分からない。どうせくだらない理由だ。女は子どもを産んで仕事を辞めるからとか、男よりレベルの高い女は嫌だとか、女は家庭に入るべきだとか女を支配する立場でありたいとか、あらゆる時代のあらゆる場所で唱えられ続けてきた束縛の魔法を、そいつは完璧なものにしようと考えたのだろう。
だから女性の得られる経験値は、男性の10~30%に据え置かれてきた。それがこの世の理だと誰もが諦めてしまうぐらい長い間、ずっと。
今この瞬間、それは終わった。
原盤が失われ、ステータスボードは機能停止し、経験値の流れは正常化した。男が不当に得ていた経験値は、女の下に戻された。
「えっなに? ウチらめっちゃレベル上がって、男の人めっちゃレベル下がったってこと?」
「そうなるっスね」
「やば!」
「殺せ! 今すぐに! この女どもは世界の敵だ!」
エステルが絶叫した。戸惑っていた兵士たちが抜剣し、四人に襲いかかった。
「わっわっ! ルイーズ!」
「まーかせろい!」
ルイーズは考え無しに走っていって、先頭の兵士を蹴り飛ばした。兵士は縦回転しながら吹っ飛び、何人かの男を巻き添えにひっくり返った。
「やば! ごめん!」
ルイーズは叫んだ。思った以上に飛距離が出てしまったのだ。
「怯むな! 押し切れ!」
将校は果断に指示し、自らアーシェラに斬りかかった。
「ひええ!」
アーシェラは手を突き出した。それがなんか、うまいこと将校の剣をまっぷたつに折った。
「あっ」
「あっ」
アーシェラと将校は同時に変な声を上げた。どうしたらいいのか分からなくなったアーシェラは、拳をぎゅっと固めてみた。親指を握りこむ、あんまり力の入らない拳骨で、ぶん殴ってみた。将校は地面に叩きつけられ、鞠みたいに弾んだ。
「囲め! 囲んで焼け!」
指揮権を引き継いだ副官の指示が飛び、四人はおろおろしている間にたちまち包囲された。熟練の兵士たちは既に意識を切り替えていた。まぬけ面をさらす四人の女は、死力を尽くさねば勝ち得ぬ強敵。同士討ちを厭わぬ飽和攻撃で地上から消し去るしかない。
「撃わあああああ!」
振り下ろそうとした腕に激痛が走り、副官は叫んだ。どこからか現れた銀の狼が、犬歯を橈骨に到るほど深く突き立てていた。
さざ波に似た、かすかな動揺。わずかな隙があれば、十分だった。テルマは落下制御の無文字魔法をでたらめに振りまいた。数人の兵士が宙に浮き、悲鳴を上げながらもがいた。
「ほんっと申し訳ないっス!」
謝りながら、落下制御を解く。岩盤に叩きつけられた兵士は背を反ってうめいた。
棒立ちの兵士を、ルイーズとヴァージニアがなぎ倒していった。小麦を刈るようなものだった。マナニア海軍陸戦隊の未来に夢を見た十三人の兵士は、数十秒で全員ぶちのめされて這いつくばった。
「はい終わり! 終わり終わり! もういいでしょ!」
アーシェラは手をぱんぱん鳴らすと、
「いやそれは結果だけ言えばあたし達が壊しちゃったの悪いとは思ってるよ。でもこんなになるまで追い詰めたのも悪いっていうか、そっちはそっちでやり過ぎだしその辺さっぴいたらどんなに悪く言っても行ってこいじゃない? もうしょうがないから割り切ってこ!」
“いや”と“でも”を駆使して早口で言い訳した。
沈黙が降った。巨大な感情があっという間に増幅し、爆発を待つような、不穏な寂寞だった。
エステルは右手を持ち上げた。手の甲に刻まれた魔法陣が青く発光した。
くすぶる疎林の木々が浮かび上がった。コンパスの針のように、くるりと回転して先端を一方向に向けた。
「無理かー」
アーシェラは、まあ分かってたけどね。の顔で両手を広げた。
「っしゃ! さあ来い!」
木々が降り注ぐ。同時に、地面が崩壊した。
「うわわわわそっちも!」
崖だったものが無数の小岩塊に分裂し、アーシェラたちも横たわる兵士もまとめて落下した。
「テルマ! ヴァージニア!」
アーシェラは叫んだ。テルマが落下制御で岩と人を宙に縫い止める。ヴァージニアは空を泳いで負傷した兵士を咥え、一つの岩の上にまとめていく。
「ルイーズ、行くよ!」
「せーのっ!」
ルイーズとアーシェラは、投射された燃え上がる木々の群れに飛び込んだ。殴って砕き、蹴り上げて軌道をずらし、手刀でまっぷたつに裂き、頭突きで粉みじんにした。
ひときわ大きな針葉樹を払いのける。大きくえぐれた崖の縁に立ったエステルが、純然たる殺意をたたえた瞳でアーシェラを見下ろしている。
「付き合いきれんわ」
アーシェラの呆れ声が、聞こえたのか聞こえていないのか。エステルは飛んだ。自ら冒険者を殺すために。
「ふぎゃっ!」
ルイーズの声。振り返ると、二つの巨岩に挟まれたルイーズが、両手両脚を突っ張ってぎりぎりのところで圧死を防いでいた。
「やば! きっちぃ!」
ルイーズは岩に繰り返し後頭部を叩きつけていた。割ろうとしているのだ。
「わー! ルイーズ! わあああああ!」
助けに行こうと動いた身体の自由が奪われた。血が身体の右側に全て押しつけられたような、急旋回の感覚。全身の痛み。岩に叩きつけられたのだと、アーシェラは激痛の中で理解する。それも、わざわざルイーズを押し潰そうとする岩塊にだ。
アーシェラとルイーズと岩が、まとめて急上昇した。大の字の格好で岩にへばりついたアーシェラは、これから自分がどこに飛んでいくのかすぐ理解した。
兵士とギルド職員を集めた、大きく平らな岩盤だった。
「テルマ! 守って!」
アーシェラの声が届くよりはやく、橙色に微発光する巨大な盾が生じた。岩が、振り下ろされた。
古い戦に使われた鎖付き鉄球のように、アーシェラとルイーズと岩は何度も盾に叩きつけられた。血が頭に、足に、右半身に集まり、アーシェラの視界は点いたり消えたりを繰り返した。
「うわ、あれ大丈夫なんスかね。私だったら絶対に嫌だ」
振り回されるふたりを盾越しに見上げ、テルマはあんまり危機感なく言った。いまの自分たちがどれぐらい高レベルになったのか、ステータスボードが機能停止した以上、さっぱり分からない。だが、あれぐらいの打撃で死ぬようなことは無いはずだ。故に、テルマは呑気だった。
だったというのは、岩がどいたら盾の前にエステルがいたので、へらへらしていられなくなったのだ。
エステルは左手の五指を盾に叩きつけた。手の甲に刻まれた魔法陣が紫色に光ると、盾がひときわ強く輝き、破裂音とともに消滅した。
背を丸め、手を突き出したテルマに向かって、エステルが矢のように降った。その横腹に、狼が食らいついた。
獣化したヴァージニアは下腿に力をこめて宙を蹴った。銀の被毛をなびかせて斜めに上昇し、エステルの身体を浮き上がる岩に押しつけた。
「おまえっ、はっ」
エステルが腕を伸ばす。ヴァージニアはエステルの腹肉をいくらか引きちぎりながら飛び退いた。
「せめて、名前で呼んでください」、ヴァージニアは冷たく言った。「どうして他人に敬意を払えないんですか」
「その勘違いが見下される原因だ。男と女は対等ではない」
「なにも期待していませんよ。最初から」
ヴァージニアはエステルに飛びかかった。エステルは右手を突き出した。魔法陣が青く光り、ヴァージニアは悲鳴をあげて吹っ飛んだ。
「やば!」
枯れ葉のように回転する狼の身体をルイーズが受け止め、二人はかつて岩肌だったなめらかな岩塊に着地した。
後頭部を叩きつけていた箇所がたまたま劈開面だったため、何度かの挑戦で岩は割れた。解放されたルイーズはヴァージニアのところに、アーシェラはテルマのもとに、それぞれ向かったのだ。
「お待たせ。こっちはもう大丈夫」
アーシェラとテルマが合流した。気の毒な兵士とギルド職員を崖下に降ろしていたのだ。
「さあて、どうしようか。なんかすごいやる気だねエステル。意味ないのに」
「向こうにはあるんスよ。多分」
「エステル強くね? いけっかなーって感じしないんだけど」
「そうですね。思ったより強いですね」
おしゃべりをはじめた四人に、礫片の雨が降った。無文字魔法の盾が全てを受け止めた。嫌がらせのようなものだ。
「いつもそう」、ヴァージニアはため息をついた。「大きな音を立ててアピールするんです。おれは怒ってるぞ。おれに注目しろ。おれの気分を察しろ」
「それすごい分かるよ。大変だったねえよしよし」
アーシェラはヴァージニアの背を撫で、尻尾の付け根をとんとんしてやった。
「それ猫が喜ぶやつですよ」
「わっごめん、もしかしてこれセクハラになる?」
「なりますね」
「わーごめん、ごめんね。もうやんないから」
「おい」
外套を血に染めたエステルが、太陽を背負い四人を見下ろしていた。
「次の攻撃で、おまえたちを殺す。その前になにか、言っておくべきことがあるだろう」
「出たよ」
アーシェラは即座に言った。エステルは面食らった。
「あのね、もう労使関係ないからはっきり言うけど、そういう尋問みたいなやつ、ほんっと腹立つからやめて。そっちで答え用意してから質問するのって――」
「なにを、おまえは言っている」
「人の話を最後まで聞いて。遮らな――」
「女の言うことを、なぜまじめに聞かなければならない」
「いやだから――」
「答えろ。問うているのは私だ」
アーシェラはため息をついた。
「分かった。なにか言っておくべきことね。一つあるとしたら、これだけかな。付きまとわないでくれる?」
エステルは右手を持ち上げた。四人の身体が意思に反して宙に浮いた。
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