せーのっ
エステルは、いつでもそうだ。他人を呼び出し、焦らせ走らせ、自分は説教の準備をしながら待っている。
「おまえたちは大したものだ。これから私は、他者の評価にもう少し慎重になると決めた。約束しよう」
陸戦隊の兵士に小突かれ、ルイーズたちは崖際に追い詰められた。
「おまえたちには、ぜひとも慈悲をかけたい。だから選ばせてやろう。殺されて原盤を奪われるか、原盤を差し出して死ぬかだ。尊厳を保ちたいのならば、後者を選ぶといい」
エステルは背後に十八人の手勢を抱え、堂々と立っていた。一方で崖を背負ったルイーズとヴァージニアは、いま這いつくばっていないのが奇跡なぐらいぼろぼろだった。
「荷物を降ろせ。おまえたちの背中にぶらさがる、二つのごみだ」
エステルが命じた。ルイーズはアーシェラを、ヴァージニアはテルマを、岩の上に横たえた。テルマは痛みにうめいた。
身体は軽くなったが、立ち上がる気力は失われた。ルイーズとヴァージニアはうずくまった。
これでなにもかもが終わりだ。そしてエステルは、できる限りこちらの絶望を引き延ばすだろう。だがヴァージニアもルイーズも、抵抗の意志を失っていた。
十九人の男が迫った。多くは心ここに在らずの、そわそわした表情で。陸戦隊の兵士にとってもギルドの職員にとっても、無力な女を殺すことなど、大義だの職場での待遇向上だのに比べればどうでもいい話だった。資金を提供してくれたエステルの余興に付き合っているだけだった。石をどかすようなものだ。どうやらエステルにとっては、それがおもしろくて仕方ないらしい。
だから一人は残虐な笑みを浮かべ、残り十八人はまったく興味なく、四人を殺そうとしていた。
「あのさ」
声がした。
絶望を割るように、アーシェラの声がした。
「いいこと思いついた」
その一言で、残り三人は、ここがどこだったのかを思い出した。
「いいですね」
「いいじゃん」
「っスね」
三人は、よたよたと立ち上がった。ルイーズがアーシェラに手を貸した。意識があるのかないのか、アーシェラは頭を揺らしながら、それでもなんとか立った。近づく男たちに背を向け、四人で手をつないだ。
最初から、そうするつもりでここに来たのだ。ちょっと余計な遠回りをしただけだ。
アーシェラは荷物から原盤を引っ張り出した。背後のエステルに、見せつけた。
だがもはや、どうでもよかった。何もかもがどうでもよかった。これから先マナニアがどうなるかだとか、エステルがどんな顔をしているかだとか、四人が四人でいることに比べれば完全に心の底からどうでもよかった。大事なことなど他に一つもなかった。
四人は強く強く手をつないだ。怖くはなかった。世界の全部がなんだか突然なにもかも議論の余地なく美しかった。
「国境、越えられるね」
アーシェラが言った。三人は笑ってうなずいた。この世のありとあらゆることが一つの滞りもなく完璧だった。
「思ったより時間かかりましたね」
「結果が全てっスよ」
「それな!」
はなればなれにならないように、もっと強く、手を。
「せーのでいこうよ。いつもみたいに」
アーシェラの言葉。三人のうなずき。いつの間にかいつも通りになったやりとり。
「せーのっ!」
四人は青空めがけて跳んだ。
深く鋭い谷を静かに落ちて、四つの肉体が国境を越えた。
血相を変えたエステルが崖際に膝をつき、眼下に横たわる鋭い谷を見下ろした。死体はなかった。法面の突起にも突き出した木々にも引っかからず、まっさかさまに谷底まで落ちていったようだった。あるいは――高く鋭く冴える空を見上げかけ、エステルはたちまち我に返った。
「あああああっ!」
エステルは絶叫し、拳を地面に叩きつけた。
「ばかだとは思っていた、愚かものの集まりだとは! 八つ当たりのために死ぬとはな!」
「あの、マスター・エステル」
声をかけたギルド職員を、エステルは殴り飛ばした。
「探してこい! 死体を四つ、今すぐに! ここから降りて、這い回って、見つけてくるんだ!」
「ひっ、あ、す、すみません」
「おまえたちが目を離すからだ! なぜこうなることを予想できなかった! 女は考え無しに動くんだぞ、おまえたちも分かっていたはずだろう! どう補填するつもりだこの失敗を!」
「申し訳ありません! マスター・エステル、申し訳ありません!」
「黙れ! 謝罪を繰り返せと誰が言った! おまえたちがすべきは、あのこそ泥の死体とアーティファクトを見つけ出すことだ! 今すぐに! 改元までに! 跳び降りてでも!」
ギルド職員を蹴飛ばしたエステルは、退屈そうな顔で立っている陸戦隊に向かってずんずん歩いていった。
「仕事を増やしてすまない。直ちに降下し、遺体を捜索してくれ。マナニアの未来がかかっている」
将校は寡黙に頷き、部下に指示を出した。三名の兵士が、迅速に靴を履き替えた。垂直歩行の魔法陣が刻まれた降下用装備だ。
三人の兵士は抜剣し、断崖を一気に駆け下りていった。その様子を見送ったエステルは、その場に腰を下ろし、苛立ちに強く握った拳の振り下ろす先を探した。
怒りに冷静さを奪われたエステルは、一つの異変を見落としていた。
体重をかけた石がぐらついて、転んだウグルクは雪上を数メートル滑落した。
「ぶえっ! っざけンな! ナメやがって!」
立ち上がりながら悪態をつく。少し上で、マウフルが苦笑する。
「誰に言ってるの」
「ただの口癖だよ!」
差し伸べられたマウフルの手を掴んで、ウグルクはよたよたと立ち上がった。
二人が進む先では、やせた針葉樹が横たわり、燃え上がっている。魔法の痕跡はあまりにも露骨で、マナニア軍ここにありと触れ回っているようなものだった。
「戦争してえのかよ、あのバカは」
「多分」
「急ぐぞ、マウフル。あいつら危機意識やべえからな。どっかで蒸し焼きになってるかもしれねえ」
グリシュナッハを追うと決めたウグルクだったが、アーシェラたちの動き出しは予想以上に速かった。駅鈴の入手先を探してぐずぐずしている内に強盗事件の噂が流れ、駅路を利用する使者たちは慌てて護衛を雇った。結局ウグルクは、最寄りの伝馬町まで徒歩で向かい、ぼったくり同然の値段で馬を借り受けることにした。
西へと馬を走らせたふたりは、廃墟で戦闘の痕跡とグリシュナッハの死体を発見した。グリシュナッハの宗派は知らなかったから、ウグルク流のやり方で弔った。つまり、荼毘に付した。
本来ならば、ここで二人の旅は終わるはずだった。だがウグルクとマウフルは、青く霞む北の山に稲妻が走るのを見た。
徴兵経験のあるウグルクは、すぐさま魔法の正体に気付いた。なにかが起こっている。アーシェラたちに、悪意が向けられている。
ふたりは迷わず、馬を走らせた。なんのためにかは分からなかった。エステルは軍を動員しているのだ。中堅冒険者が二人増えたところで結果は変わらないだろう。それでも二人は国境を目指した。
入山すると、爆撃は終わっていたものの、あっちこっちが燃えていた。火災が尾根筋を越えて隣国に到ることのないよう、発射数と着弾点を慎重に調整したのだろう。なんにせよ国際問題には違いないが、程度というものがある。
採れるルートは限られていた。なにしろそこかしこで森林火災が発生していたのだ。煙に燻され炎に煽られながらも、マウフルがアーシェラたちの足跡を発見した。
「三人分……ここから、二人分。誰かが、怪我した」
泥水に鼻を寄せ、マウフルは首を横に振った。水たまりには数本の矢が浮かんでいた。
「出血が、ひどい」
「だからなんだよ? 間に合うか間に合わないかだろ」
ウグルクに背を叩かれ、マウフルはふらついた。
「おい、あのクソガキにもらった毒はもう治ったろ。ちょっとステータスボード見せてみろよ」
それはちょっとした冗談で、マウフルは気楽に応じてステータスボードを取り出し、首を傾げた。
「動かない」
掌に収まる灰色の板は、起動しなかった。
「あア? なんだよそれ、壊れるもんなのかこれ……壊れてるわ」
ウグルクも自身のステータスボードを手に取り、振ったり表示面を突いたりして、動かないことを確かめた。
ふたりはしばし立ち止まった。ここまでに起こったいくつかのできごとを、頭の中で並べ替えたりくっつけたりしてみた。
「これって」
「やめてくれ、マウフル。言うな、考えたくねえ」
ウグルクは頭を抱えそうになった。
「やらかしやがったんだ。あいつら、なんか信じらんねえことやらかしやがった」
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