ようこそ、マナニアへ

 泥と塩と雪を蹴立てて、馬は荒野を走った。昼ごろになって、三つ目の棄てられた伝馬町を見出した。そこで彼女たちは北に転進した。

 塩の荒野は枯れた平野に転じた。雪解け水があちこちで瀬になって、わずかなくぼみを音立てて流れた。単調な光景だった。端と端がつながった、筒の上を走っているような錯覚を三人はおぼえた。

 午後になると再び層雲がわき出して、きれぎれの隙間からとぼしい光を投げかけた。空気が灰色に濁り、雪が降りはじめた。ルイーズは手綱を長く持ち、アーシェラを強く抱いた。雪と同じ温度だった。でも、生きていた。かすかな呼吸があった。

 足もとで、ハイネズの枝が雪の重さにたわんでいた。三人は顔を上げた。雪と大気の膜を透かして、平野の果てに山塊があった。痩せた土の上を、貧弱な針葉樹が這い上がるように生えていた。

「もうすぐですね。急ぎましょう」

 軌道を微修正しようと、ヴァージニアは手綱を引いた。馬は首を振り、弱々しい息を鼻から吐いた。

 馬がひどく汗をかいているのに、ヴァージニアは気付いた。食事も与えず、走らせ通しだったのだ。慣れない土地で、襲撃だの爆発だのとストレスもかけた。

「そうですね……ごめんなさい」

 ヴァージニアは馬の首を抱き、たてがみの際を撫でてやってから、降りた。ルイーズとテルマもそれに倣った。

「歩きっスか。しんどいな」

「ウチ一人分空いてっけど」

 アーシェラを背負ったルイーズが冗談を言った。テルマは笑った。

 ヴァージニアは馬の背をやさしく叩いた。馬は首を振り、四人に背を向けた。

 馬は首を下げ、雪の降り込める平野を粛々と歩いていった。揺れる尻尾が灰色の大気に呑み込まれて消えるのを、三人は突っ立って眺めていた。

 沼の中にいるような倦怠と疲労があった。三人はしばらく動けなかった。誰かが一言、たった一言、いっしょにやろうと言ってくれれば、それで歩き出せるはずだった。それは最初からアーシェラの仕事だった。

 飲みに行こうと誘った。隠し財産を盗み出そうと三人を鼓舞した。ルイーズとテルマの諍いを止めた。銀影団との争いを勝利に導いた。ダンジョン街で迷わず湯治場に向かった。マナニア市街で最高級の宿に泊まった。まぬけな地方貴族をぶちのめした。

 人生を変えるような大事なことも、心の底からくだらないことも、なにもかも、アーシェラに導かれて三人はここまで来た。

 誰かが最初の一歩を踏み出して、誰かがそれに続いた。そのようにして、三人は歩き出した。どのみち、雪が積もる前には動かなければならなかったのだ。

 平野は、木々がまばらに生えるゆるやかな斜面に、次いで鋭い傾斜の山になった。ルイーズはマントでアーシェラの身体を包み、胸の前で両端を縛って、両手を空けた。

 風化した岩に掌を傷つけ、たわんだ枝から落ちた雪を被り、三人は登攀した。下生えや低木が、何度も三人を阻んだ。

 降り続く雪はあちこちに吹きだまりを作っていた。一度ならず、三人は腰まで雪に埋まった。誰も笑わなかったし、怒らなかった。

 ヴァージニアが、ときどき方向修正のために声を出した。一言二言だけだったし、返事はなかった。

 夜が来た。三人は雪を掘り、狭い雪洞で身を寄せ合った。天井から冷たい水が滴るので、アーシェラに覆い被さり、守ってやらねばならなかった。

 アーシェラの呼吸は細く弱くなっていた。ルイーズは脈をはかり、何も言わなかった。

 自明の事実を口にするべきなのは、三人とも分かっていた。それでも三人は、アーシェラにぴったりくっついたまま黙って夜を過ごした。そうすれば体温を分け与えられるのではないかと、しかし、三人ともそんなことをすこしも信じていなかった。

 悪夢ばかりのわずかな眠りを、朝陽が終わらせた。よく晴れた冬の朝だった。

 獣化したヴァージニアが雪を掘り、フユイチゴを集めた。赤く、ぷくっとして瑞々しい果実だった。ぬるっとして青臭く、甘く、酸っぱかった。

 三人は風裏に乾いた枝を見出して、踏み固めた雪の上で火を焚いた。わずかに生き残るむかごを集めて火の側に並べ、暖まる側からかじった。ねっとりしていて土くさく、ほのかに甘かった。

 ふとヴァージニアは、うなじの毛が逆立つのを感じた。冬の雷の臭いがした。テルマがいきなり立ち上がり、ヴァージニアとルイーズの頭を抑えつけた。ヴァージニアは雪に顔を突っ込んだ。

 世界が閃いた。

 爆音に耳が高いうなり声を上げる。焦げた臭いと熱をヴァージニアは感じる。

「――っス! 攻撃されてるっス!」

 音が戻った。雪から顔を上げると、雪がえぐれ、焦げていた。

「水平の落雷とオゾン臭、軍用の制式長距離魔法っス! 身を低くして!」

 次撃は、はっきりとヴァージニアの目に見えた。空中にぎざつく輝線が走り、針葉樹の幹に触れた。輝線に沿って、雷が走った。幹の中央三分の一が燃えながら弾け、上三分の一がヴァージニアたちめがけて倒れ込んだ。

 三人は雪をかきわけて逃げ、すぐ背後の焚き火を木が押し潰した。

「軍? なん、は? は? 軍がなんで!」

 国境付近に軍が展開することなど、ありえない。軍用の制式魔法を放つなど、もっと考えられない。だが軍用魔法は放たれたし、目の前で木が燃えていた。

「エステルが、頭を下げたんでしょうね」

 ヴァージニアがうめいた。

「まずは逃げるんスよ! 焚き火を狙われたんスから!」

 テルマは四つ足で這い、ほとんど雪に埋もれながら斜面を登った。

 背後に、前方に、左右に、落雷の魔法が炸裂した。雷撃を浴びた木々が煙を上げた。

「平野から狙ってるはずっス! 精度は高くない! うわあ!」

 目の前の木が燃えながら倒れた。精度の高さはともかく、二次被害でも十分に殺される。

 風が唸って、熱波が吹き付けた。テルマは反射的に無文字の盾を生んだ。放物線を描いた炎の魔法は、盾もろとも破裂した。熱の余波に三人は吹っ飛ばされ、数メートル滑落した。

「なんっ……今、ぶえっ!」、テルマは泥と雪を口から吐き出した。「今のも国際条約認可の制式魔法! 頭いかれてるっスよ!」

「きちぃ!」

 叫んだルイーズが、首をぶんぶん振って髪に絡みつく枝を払った。

 見上げる山肌ではあちこちで木々が倒れ、燃えていた。炎は疎林を焼きながら山肌を這い上がり、尾根に達していた。雷の魔法と炎の魔法が飛び交い、オゾンと煙の不快な臭いが満ちていた。

 進む道はほとんど残されていなかった。

「動きましょう」

 ヴァージニアが立ち上がった。

 三人は、とにかく進んでいった。何も考えていなかった。狩猟者におびえたうさぎが、やみくもに走り回るのと同じだった。

 三人は不意に、雪ばかりが積もる開けた場所に出た。攪乱によって生じたギャップだった。迂回しようと転進したところで、なにかが空気を切り裂いた。テルマが真横に倒れた。左腕を、矢が貫通していた。

「ああああ……」

 矢柄を伝った血が雪を染めた。テルマは力なくうめき、立ち上がろうとして雪の中を転がった。雪をかきまわして掌に地面を捉え、膝立ちになり、次の矢が背中に突き刺さり今度はうつぶせに倒れた。

「テルマ!」

「抜かないで、ルイーズ!」

 駆け寄ったルイーズを、ヴァージニアが制した。

「私が運びます」

 背にマントでテルマをくくりつけ、二人は森を進んだ。散発的に矢が飛んで、二人の行く先を制限した。テルマへの直撃は、誤射のようなものだったらしい。

 敵は姿を現さず、矢と魔法で二人を翻弄した。男だけで組まれた軍隊が、ひとつの指示のもと、忠実に行動しているのだ。抵抗できるはずはなかった。

「追い立てているんでしょうね」

「っスね」

 テルマはうなずいた。進路を限定し、歩兵で追い詰める。巻き狩りよりはずっと効率的だ。

「エステルの趣味もあるんでしょうけど」

 おそらくエステルは、自らの手で殺したいのだ。屈辱の底に突き落とし、汚泥の中でのたうつ姿を十分に愉しんでから、一息にひねり潰したいのだ。巻き狩りでは、兵がうっかりこちらを殺しかねない。

 分かっていながら、どうしようもなかった。火の無い方へと逃げることしか、二人にはできなかった。

「女はレベルが低いから」

 ルイーズが呟いた。グリシュナッハの最期の言葉だった。頭から考える力を奪い、身体から動く力を奪う、深い断絶の言葉だった。

「そうですね」ヴァージニアは静かに同意した。彼女の服はテルマの血に濡れていた。「わたしたちは、なにも……」

 その先を、ヴァージニアは言わなかった。

 魔法が熱風と共に飛来し、雪と下生えを焼き払った。あちこちで煙と炎が上がり、夏の真昼のように暑く眩しかった。足もとはぬかるみ、靴に流れ込んだぬるい泥が冷たい指先をかゆくさせた。こんなときにそんなことが気になるんだなと、ルイーズはすこし笑った。滑稽と悲惨。つまるところ、これが人生だ。いつでもどこでも無思慮なろくでなしに蹴散らされ、こっちが何を考えていようと大きな力はおかまいなしにルイーズたちを押しやっていく。とある場所に。支配される側の場所に。

 女はレベルが低いから。

 満ちた煙の中を、咳き込みながら二人は歩いた。希望はない。どこにもない。けが人と病人を背負ってただ歩いているだけだ。

「なにか、秘密でも言いあいますか?」

 ヴァージニアが言った。ルイーズは笑って首を横に振った。

「みんな起きてたらできっけど。二人しかいねーし」

「起きてるっスよ」

 テルマがぼそぼそ喋った。

「たぶん、じきに死ぬっスけど」

 なにひとつ冗談になっていなかったので、だれも笑わなかった。

「事実じゃん」

 ルイーズがぼそっと呟いた。それはちょっと面白かったらしく、ヴァージニアがくすっと笑った。

「ですね。もうただ単に」

 そこから先の会話はなかった。もう道はどこにも繋がっていなかった。それでも歩き続けた。なんのためにでもなく。

 もしもアーシェラの意識があれば、彼女らは襲撃のからくりに気づけたかもしれない。あるいはグリシュナッハを、もっとうまくかわせたかもしれない。罪悪感と徒労の烙印を刻まれることなく、国境を目指せたかもしれない。

 エステルの動きは迅速だった。アーティファクトに付けておいた“紐”が切れるなり、動かせる駒の全てを突っ込んで足取りを追った。彼が動員できたのは、冒険者ギルドから五名、海軍陸戦隊から十三名。エステルを含めてたったの十九名だった。

 陸戦隊はマナニア軍のごくつぶしと揶揄されている。まず、マナニア国境と接する海岸線は白海以外に存在しない。次に、白海の南に今のところ脅威はないからだ。

 白海を挟んだ山がちな大半島では、お家騒動に端を発した泥沼の内戦が百年以上繰り広げられていた。陸戦隊の主な仕事と言えば、小舟に乗ってやってくる――というより、ほとんど漂い寄ってくる――不法入国者を海の底に沈めることだ。

 これは内務省が兵務省を叩く格好の口実となっている。つまり、不法入国者対策なら、入管と公安を抱える内務省に預ければワンストップだというのに、兵務省は予算獲得のため陸戦隊を維持しているのだと。

 つまるところ陸戦隊は、外側から批判され、そのせいで内側からも叩かれている不満の温床で、エステルはそこに目をつけた。戦争さえ起きれば、陸戦隊にも活躍の場が与えられるだろう、と。

 国境付近での動員は政治的動揺を引き起こす。巨大な公国が分裂し、合従連衡を繰り返す中つ原では、いつでも誰かが誰かを狙っている。

 この“軍事演習”が終わったあと、“首謀者”の将校は檄文を残して自決する。士官は後を追う。世論はどう傾くだろうか。

 戦争は良い。なぜなら雇用と愛国心を生むからだ。どちらも今のマナニアに欠けているもので、本来ならばすべての国家に必要なものだ。

「魔王か」

 ふとエステルは、ルイーズの言葉を思い出した。経験値を自分ひとりのものとし、旗印を掲げてよその国を端から順に焼いていった男。

「マスター・エステル?」

 隣の男が、独り言に反応した。エステルは首を横に振って男を黙らせた。サブマスター・アルはギルドに置いてきた。ここに連れてきたのは、後で処分しても構わない愚鈍な連中だけだ。エステルの関与は、誰にも知られない。

 魔王はばかをさらし、歴史に名を残した。つまり、もっとうまくやる必要があった。合理的に動き、歴史に名を残さぬべきだった。

 真に支配するとは、そういうことなのだ。

 女どもをいたぶり、原盤を奪い返し、女への経験値流入を止める。国力は飛躍的に増大するだろう。ダンジョンから神秘の衣服を剥ぎ取って深奥を暴く。他国を組み伏せ、嬲ってものにする。ここがその始まりだ。

「ようこそ、男の国マナニアへ」

 這いずりながらやってきた四人の女に、エステルは微笑みをかけてやった。

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