日付変更線の手前と奥2
「いや、よく覚えていたね。確か城壁の隠し通路になっていたような……」
夜空に浮かび上がる、古びた教会を見上げ、ノキシスが感嘆の声を上げる。
歩く速度の遅い彼に合わせて進んだオーティスは、自身との歩幅の違いに凄まじい高揚感を抱いていた。
――今なら、いける!! 流れを掴め!! 婚約を申し込むんだ!!!
教会の軋んだ扉を開け、埃っぽい内部へノキシスを連れた。
崩れた長椅子が多くある中、無事なひとつに
不安そうにオーティスを見上げるノキシスへ、彼は口火を切った。
「左手を出せ」
「左? ああ」
高圧的な物言いを受けながら、素直にノキシスが指示に従う。
――こういう場合、手っ取り早く相手の要求を聞き、満足させて解放してもらうに限る。
思考回路が、完全に人質にされた被害者のそれである。
田舎の領主は領民と和解するため、この5年の間に様々な無茶に耳を傾けてきた。
差し出された左手を、オーティスが掴む。
次期当主第一候補と名高い男は、自身の胸ポケットに手を差し入れた。
「……お前の婚約についてだが、全て破談にした」
ぶっきら棒な声が、唐突に話を始める。
きょとんと顔を上げたノキシスは、不思議そうに首を傾げていた。
「わたしに縁談など、あったのかね?」
「全て潰したと言っただろう。この先も、お前にその手の話が来ることはない」
「……そうか」
なるほどなあ。ノキシスが納得する。
これまで見合いの話はあれど、実現に至らなかった縁談、婚約の話題。
どうやらそれらを捻りつぶしていたのは、本家の人間、オーティスだったらしい。
――ここまで徹底されるほど、わたしは彼に嫌われているのだな。
棺桶に片足を突っ込んでいる彼の指に、ひやりと冷たいものが触れる。
びくりっ、ノキシスは顔を上げた。
深刻な仏頂面が、暗い影を背負っている。
「いいか、ノキシス。俺は、お前のことを――」
ガッシャアアアアアアンッ!!!!!!
月明りを透かしていたステンドグラスが派手な音を立て、ずざざざざッ!! 何者かが床を擦る。
ぎょっとしたノキシスを庇うように、オーティスは前に出た。
「何やつ!?」怒声が砂埃を断つ。
「ノキさん!!」
「ぅえぇぇ……っ、目がまわる……ッ」
「マリア!? サミュ!!」
着地の体勢から立ち上がったメイド服が、颯爽と戦闘の構えを取る。
床に膝をつく私服の執事は、よろよろと目を回していた。
驚愕から立ち上がったノキシスが、ふたりの元へ駆け寄る。
「どうしたのだね、ふたりとも!?」
「聞きたいのは俺たちの方ですよ! ノキ、こんなところで何してんですか! みんな心配してるんですよ!?」
おろおろするノキシスへ、ひざに手をついて立ち上がったサミュエルが説教する。
マリアと相対するオーティスは、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「おのれ……、またしても邪魔立てするか……ッ」
「ノキさんを、返していただきます」
「自動人形が生意気を言う!!」
「何とでも。私は、私の最愛を守るだけですわ!」
マリアの目に、闘志が浮かぶ。
オーティスは舌打ちし、右手をスラックスのポケットへ突っ込んだ。
びしり、人差し指をノキシスへ突きつける。
「ノキシス。お前の行く末は決まっている。……わかっているな?」
低く、腹の底に響く声だった。
サミュエルの背を撫でていたノキシスは顔を上げ、諦めたように肩を落とす。
「……わかっているよ」
「ふん。ならば覚悟していろ」
行け。追い払うように手を払い、オーティスが身体ごと顔を背ける。
敵意に満ちたサミュエルと、戦闘モードのマリアを連れ、「では、失礼するよ」ノキシスは古びた扉を閉めた。
「…………くそぅッ」
残されたオーティスは、先ほどまで愛しの妖精が座っていた長椅子に腰を下ろし、がくりと項垂れていた。
スラックスから取り出した、銀色に光る華奢な指輪。
手のひらにのせたそれを見つめ、彼は思い描いたプロポーズができなかったことを悔やんでいた。
「そうか……。みんなには心配をかけてしまったね。すまなかった」
サミュエルとマリアから事情を聞き、眉尻を下げたノキシスが呟く。
真夜中の森は足場が悪く、視力の弱い彼は、下山に苦戦していた。
「全くですよ! 本当、心配したんですからね!!」
主人を背負い、サミュエルがぷんぷんと小言の述べる。
ふたりの後ろにはマリアが控え、有事に備えられるよう、暗視モードを作動させていた。
「ところで、ノキ。足、大丈夫ですか?」
「足?」
唐突に投げられた足への気遣いに、ノキシスが不思議そうな顔をする。
構わず、サミュエルは続けた。
「船でノキが転んだとき、すっごく痛がってましたよね」
「ははは、情けないことにね」
「俺、思ったんです。以前までのノキって、俺に断りもなく、勝手に自転車で脱走してましたよね」
「……脱走とは、人聞きの悪い」
「ですけど、最近のノキは大人しくて、歩く速度も遅くなった」
サミュエルの背に揺られながら、ノキシスが不満を訴える。
主人のそれを無視した私服の執事は、時折マリアに道を尋ねながら、慎重に森を進んだ。
「で、思い出したんです。ノキ、本家で足を踏んづけられたときからか、俺と城壁でシスティーナを見つけに行ったとき。あのときから、捻挫してません?」
「……だとすると、長引きすぎてはいないかね? 季節が随分巡っているよ」
「俺、ノキみたいに考えるの苦手なので、直接城壁を調べに行きました」
よいしょ、身体を弾ませ、サミュエルが体勢を整える。
「ノキが転んだ辺り、廊下の隅に、一直線に格子みたいな溝があったんです。あれ、城壁が外周だった頃の名残ですよね? 石落としの」
石落としとは、城壁や要塞に設けられる、高いところから敵兵目掛けて石を落とす罠である。
ベーレエーデの城壁は増改築を繰り返し、巨大な迷路と化していた。
中には、こうして人知れず目的を失った罠が、多数眠っている。
ノキシスは苦く微笑んだ。
「バレてしまったか。恥ずかしいことにね、あの溝に片足がはまってしまったんだよ」
「全く、何でいってくれなかったんですか? 捻挫って、放っておいたらクセになるんですよ。屋敷に戻ったら、しっかり手当てしましょうね」
「わかったよ」
決まり悪そうな顔で、ノキシスが頷く。
領主のゆったりとした歩幅は、痛みを誤魔化すためのものだった。
「……痛風かと思っていてね」
「こんなど田舎の粗食貴族がですか? マリア特製療養食の出番ですね」
「腕をふるいますわ」
「はははっ、冗談だよ」
マリアまでもが便乗し、領主はおかしそうに首を横に振る。
彼は改めて、自身を背負う少年を見下ろした。
あれほど小さく、枯れ枝のような子どもだったというのに、一体いつの間にここまで大きくなったのだろうか?
はた、領主が瞬く。
「サミュ」
「はい?」
「誕生日おめでとう。きみの成長を、喜ばしく思うよ」
「!!!」
サミュエルの歩幅が乱れる。
頬を真っ赤に染めた彼は、突然の感動に言葉を失っていた。
「折角の成人の日に、面倒をかけてしまったね……。本来なら、親御さんと祝ってもらいたかったのだが、……そうだ。休暇を一日振り替えよう」
「いりません!! あ、あのっ、ノキ!!」
逸る思いを早口にのせたサミュエルが、懸命に呼吸を落ち着ける。
「あとでもう一度、改めてお願いをします! 俺、これからもノキのところで働きたい!!」
発せられた声は震えを帯びていたが、夜の森へ真っすぐ響いた。
ひとつ瞬き、ノキシスの表情が緩む。
「きみの腕なら、都会でもやっていけるのにかね?」
「前にも言いましたけど、俺、ノキだからここまでやってこれたんです! 都会も紹介状もいりません。ノキの執事でいたいんです!!」
青少年特有の真っすぐさに、領主は眩しそうな顔をする。
口許を緩めた彼は、温和に微笑んだ。
「……ありがとう。マリアも異論はないかね?」
「もちろんですわ」
うれしそうな顔で目元を緩めたマリアが、胸の前で指を組む。
にこにこする彼女の様子に微笑み、ノキシスは頷いた。
「では、今後も世話になろうか。よろしく、サミュ」
ノキさんと助手のサミュ ちとせ @hizanoue
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