日付変更線の手前と奥1

「夕飯までには帰しておくれと、いったはずだよ」


 隣へ僅かに視線を向け、ノキシスが不満を述べる。

 しかし期待した返答はなく、諦めたようにため息をつき、窓ガラスに額を預けた。


「……行き先を教えてもらっても、いいかね?」


 それでも諦めきれず、質問を投げかける。

 やはり返答はなく、砂利を踏む音、小枝を割る音、そして機械の稼働音が静寂を支配していた。


 ――逃げたい。


 いよいよ参ったノキシスは、今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。

 堪えるように、ひざの上に置いた手を握り締める。


「オーティス。きみにも仕事があるだろう」

「黙れ。お喋りが過ぎるぞ」


 隣の人物、本家の後継と名高い男、オーティスが鋭く睨む。

 その不機嫌そうな声音に、ノキシスは口を噤んだ。


 ——いや。だからといって、突然連れ込まれた上に、説明もなしに一日を潰されては、いくらなんでもあんまりだろう。

 彼が思い直す。


「せめて用件を教えておくれ。わざわざきみがこのような遠方まで赴くんだ。理由くらい聞いてもいいだろう?」


 黙殺を覚悟で問いかける。

 オーティスは眉間に皺を寄せて腕を組み、重苦しい沈黙を貫いていた。

 がくり、ノキシスの肩が下がる。


 一方、沈黙を守るオーティスはオーティスで、抱える事情が異なっていた。


 ――ついにこの日が来た……。

 愛しの妖精ノキシスを、運命の魔手から解き放つぞ!!!!!


 厳格な顔の下、オーティスは不審になりそうな挙動を懸命に押さえ込み、表情に出さないよう、眉間に力を込めていた。

 ちらと隣を見遣れば、物憂げな顔で、ノキシスは睫毛を伏せている。

 純白の睫毛は長く、天使の羽のようで、いつまでも眺めていたくなるものだった。


 ふとすれば悶え転がりそうな心境を、オーティスはぐっと堪えている。


 ここで双方の認識に悲劇的な誤差が生まれているが、残念なことに、正せるものが誰ひとりとしていない。


「……――」


 今回の行き先と目的について話そうと、オーティスの唇が開かれる。

 しかし音にはならず、沈黙のまま閉じられた。

 通算99回目の挑戦だった。


 ――100回目。100回目こそは、必ず告白するぞ……!!


 固く拳を作り、オーティスは気合を入れた。

 目視できそうなほどの覇気が、彼から発せられる。


 一方、隣のノキシスは、「そんなに怒るなら、はやく家に帰してくれればいいのに……」と、しょんぼりしていた。

 彼はベーレエーデをつなぐ橋から蒸気自動車で連れ出され、これまで延々とドライブを強要されている。

 既に外はとっぷりと日が暮れ、木々の隙間からは満月が覗いていた。


 ――マリアの晩ごはん、食べ損ねたなあ……。


 彼はひっそりと、朝食以来なにも入れていない腹を撫でた。

 お腹がぺこぺこである。


「――おい」

「……ん? なにかね?」


 不意に話しかけられ、窓を向いていた顔をオーティスへ向ける。

 真正面からまみえたノキシスの様子に、オーティスは咳払いした。

 彼の目には、お行儀よく座る妖精の姿は眩しすぎた。

 ぶんっ!! 勢い良く視線が逸らされる。


「これから――」

「オーティス様! ガス欠です!!」

「何だと!?」


 意を決して開いた口を、青ざめた運転手によって遮られる。

 同時に、ガタンッと弾んだ車体が徐々に減速し、ついには止まってしまった。


 ――くそッ! 折角の最新型の蒸気自動車で、かっこいいところを見せようと計画していたというのに! 何たる失態!!


 射殺さんばかりの眼力をオーティスは運転手へ向け、その姿を真正面から目の当たりにしてしまったノキシスは、ひえっ、とすくみ上った。


「貴様ッ、何をやっている!」

「も、申し訳ございません! し、しかし、走行距離が……ッ」

「むっ」


 運転席へ身を乗り出したオーティスは、力なくゼロを示すメーターに罵倒をのみ込む。


 彼は夕方にノキシスを連れ出し、そして現在の真夜中に至るまで、ひたすら新型車でドライブを続けていた。

 場所はノキシスの治める土地、ベーレエーデ周辺である。

 ただただ領地の周辺をぐるぐると回られ、どれだけノキシスが疑問に感じたことか。

 しかし尋ねてみても、オーティスから返答はない。

 彼の頭の中は、これから行うノキシスへの告白でいっぱいだったからだ。


 くしゅん、ノキシスが小さくくしゃみをする。

 身を縮める彼は、寒い、眠い、お腹すいたの、三重苦を味わっていた。

 ちらと懐中時計を確認すれば、時刻は日付変更線を越えようとしている。


 ――よくぞここまで耐えたものだ。


 ノキシスは自身を大いに褒めた。


「ずびっ、……失礼」

「…………」


 一方、愛しの妖精のくしゃみを聞いたオーティスは、その可憐さに悶絶していた。

 座席の背もたれを鷲掴み、転げ回りそうな衝動を抑え込む。


 その姿に、運転手は震え上がった。

 ――たったくしゃみひとつで、次期当主様は怒りに震えるほど、ノキシス様を嫌っていらっしゃる……!!

 顔面を蒼白にさせた運転手は、そっと後部座席のノキシスの様子をうかがった。


「オーティス。用がないのなら、わたしは失礼するよ」


 さっさと帰りたい。

 その一心で、車が止まったことを幸いに、扉を開けようとガタガタ揺すっている。

 ノキシスの頭の中には、早く帰って、マリアにあたたかいスープを作ってもらおうとの計画が浮かんでいた。


 しかし、ここで帰してしまっては、オーティスの計画に狂いが生じてしまう。


 厳格な顔をしかめたオーティスはノキシスの手首を掴み、慣れた仕草で車のドアを開け広げた。


「来い」

「うん? オーティス!? どこへ向かうのだね!?」


 ずんずんと夜の森を突き進む。

 オーティスは擦り切れるほど頭に叩き込んだ、事前調査の周辺地図を頼りに、ノキシスを引っ張った。

 慌てた運転手が、カンテラを差し出し追いかける。


 オーティスの歩幅は広く、速足である。

 加えて、夜の森は見通しが悪く、足元も悪い。

 運動の苦手なノキシスは簡単に息を上げ、縋るようにオーティスのジャケットを掴んだ。


「オーティスっ! も、少し、速度を、落として、くれ……!」

「!!!」


 振り返ったオーティスが、苦し気に縋りつくノキシスの姿を目の当たりにする。

 直後に顔を背け、盛大に咳払いした。


 ――愛しの妖精の甘える姿を、せめて明るい昼間に見たかった……!!


 彼のよこしまな心がじたばたする。


 一方ノキシスは、うばすて山よろしく投げ捨てられないか、不安でたまらなかった。

 ここに捨て置かれて、自力で帰られるだろうか……? うろうろと視線をさ迷わせる。

 ――今日のオーティスは、なにを考えているのか、まるで読めない。

 彼は怯えていた。


「オーティス……?」

「……この先に、朽ちた教会がある。そこへ行くぞ」

「あ、ああ……」


 ぶっきら棒に行き先を告げ、普段よりもゆったりとした速度で、オーティスが歩く。


 ――朽ちた教会? 墓標にされるのかね?


 ノキシスの顔色は、一層悪くなった。

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