ピアノはお好き?

狭倉朏

ピアノはお好き?

「ピアノが好きなの?」

 私はひとつ訊ねた。

「音が好きなんだ」

 彼はそう答えた。


 放課後の音楽室。

 いつもなら吹奏楽部が占拠している空間。

 テスト期間の今、居るのはセーラー服の私と学ランの上を脱いだ見知らぬ男子生徒だけ。

 私の突然の質問にも動じずに、彼は動かす指も止めずに、言葉を続けた。


「音なら何でも良いんだ。連続している必要もない」

「連続」

「アナログじゃなくてもいいってこと」

「アナログ?」


 彼が弾いているのは電子ピアノではない。本物のグランドピアノだ。


「アナログとデジタルの違いはね、簡単に言えば連続してるかしてないかなんだ。音というのは波の形をしているものだけれど、デジタルに変換された音楽は元のようになめらかな波の形をしていない……棒グラフのかたちをしているんだよ」

「よく分からない」

「うん。そうかい」


 彼は肩をすくめると沈黙に戻った。

 沈黙と言ってもせわしなく指は動いているので音を奏でる装置に戻ったとでも言おうか。


「何か音楽系の部活には入らないの?」

「面倒なんだ。人と何かをやるのがね」

「そう……私と話をするのも面倒?」

「面倒だね」


 素直な人だ。いっそ私は感心した。


「その曲は何という曲?」

「即興だよ」

「そうなんだ」


 音をいくつも重ねて響くそれは即興というにはあまりにまとまりがあった。

 小学生の数年間、戯れにピアノを習わせてもらっただけの私にすら、それが即興としてはきちんと音楽として成り立っていることはわかった。

 穏やかな音、流れるような音、軽やかな音、病院の待合室でかかっているような音。

 まるで演奏者の心のようだ、などと言うのはあまりに気取り過ぎだろうか。


「……君は何をしにここに?」

「……別に」


 言えない。ピアノを弾きに来たなんてこの人の前では言えない。

 自分がピアノを弾けますなんて、この才能の前ではとてもじゃないけど言えない。

 考えただけでも顔から火が出そうだ。


「ふうん」


 彼はとうとう演奏を止めた。

 鍵盤の上を跳ね回っていた指が顎に持っていかれる。


「君と僕は知り合いじゃないよね? クラスメイトでもない。どうして僕が音楽部じゃないって知ってたの?」


 それは見たことがなかったからだ。

 私が見ていた音楽系の部活のどこにも彼の姿がなかったからだ。

 しかしそれを言えばバレてしまう。私が音楽に興味があることがバレてしまう。


 こんな日に音楽室にいる時点でその葛藤はバカバカしいものだったけれど、私は沈黙を選んだ。


「推理、してみようか」


 どこか楽しそうに彼はそう言った。

 人と関わるのは面倒だと言ったその口でそう言った。


「要するに君は僕と同じだと仮定しよう。部活禁止のテスト期間。わざわざ音楽室を訪ねる君と僕。何のために? 簡単だ。音楽のためだ。それもピアノ。ピアノ以外なら……僕のことなんて無視すればいいのだから。好きに他の楽器を使えばいい」


 少し当たりで、少し外れだ。

 彼の才能を前にしたら、私の目当てがピアノだろうが、アコーディオンだろうが、ティンパニーだろうが、演奏はためらうだろう。

 そんなことは才能あふれるこの人には理解できないのだろう。

 才能の前に立ちすくむ凡夫の姿など、想像もつくまい。


「というわけで、はい」


 彼は立ち上がった。

 私のためにピアノの前を開けた。

 ご丁寧に手で椅子を示して私に座れと促してくる。


 逃げたい。逃げたかった。

 あんな演奏のあとに、私のたどたどしい演奏など音楽の冒涜にも等しく思えた。

 こちらのそんな息苦しさなどどこ吹く風、彼はニコニコとまるでいいことをしたと言わんばかりの顔で私を待つ。


「……わ、私は」

「ピアノが嫌いなの?」


 その問いは彼の時間を邪魔した私への意趣返し、というわけではないのだろう。

 私の言葉を遮る形になったのもただの偶然だろう。実際ちょっと彼は気まずそうな顔をしたから。


 私は答えに窮した。


 ピアノ。小学生の頃に数年間だけ習っていたピアノ。

 何でも良かった。ただお習い事というものをしてみたかった。

 今思えばそろばんか水泳にでもしておいたほうが実用的だっただろう。

 私には才能も根気もなかった。

 あの時、買ってもらった電子ピアノも引っ越しと同時に売り払ってしまった。


 それでも弾きたくなるのは何なのだろう。

 一度ピアノを奏でた感覚が忘れられない。

 楽譜ももうロクに読めなくなった。

 ト音記号がせいぜいでヘ音記号なんてさっぱりだ。


 クラス対抗の合唱祭にはクラスにいるピアノを続けている子が伴奏をする。

 それでいい。そういうもの。

 私は肺活量が足りなくて下手くそなリコーダーでも吹いていればいい。


 そう思うのに、ピアノが恋しい。

 弾きたいと思ってしまう。


 しかし思った心はしぼんでしまった。

 すごい才能を前にしおれてしまった。


「……嫌いならしょうがない」


 私の長すぎる沈黙に、彼はそう結論を出した。

 そのままピアノの椅子に戻ろうとする。

 私にピアノの道を閉ざそうとする。


 私は、駆けていた。


 彼から椅子を奪うみたいにピアノの前に座り込んだ。

 まだ他人の体温が残る椅子は座り心地が悪かった。


 彼の顔はなるべく見ないように私はピアノに指を伸ばした。


 あまりにそれはたどたどしかった。

 そもそも私の爪はろくに切られてない。

 カツカツと鍵盤に当たる音がうるさい。

 彼が本当の推理家なら私の爪を見た時点でピアノを弾きたがってるなどとは思わなかっただろう。


 それでも弾いた。

 久しぶりだった。

 運指は間違えるし、和音はズレるし、左が追いつかないし、音量はてんでバラバラ。

 それでも私は唯一覚えていたその曲を弾ききった。


 弾き終えた私は肩で息をしていた。

 羞恥心と体力の消耗でボロボロだった。

 彼の顔が見れない。

 見たくない。

 俯いて固まった。


「驚いた」


 時を動かしたのは彼のそんな一言だった。


「下手くそだね」

 

 その言葉に悪意は感じられない。純粋な本音。

 実際、小学生の頃の私の方がきっとうまく弾いただろう。

 当然、腹は立たなかったし、不思議とその言葉に対して恥ずかしさすら感じなかった。


「下手くそなのに最後まで音楽を弾いたんだね」

「……どうも」


 小さく礼を言いながら私は席を立った。

 彼にピアノの椅子を譲った。


「もういいの?」

「もう十分」


 私は妙に満足していた。

 私は下手くそだ。ピアノが弾きたくても弾いてもロクな音になりやしない。

 それでも弾いた。弾ききった。そのことに何故か満足できていた。


「そう」


 そう言うと彼は再びピアノの前に戻った。

 椅子に残った私の体温なんてものともせずにすぐ椅子に座った。


 両手が上がる。

 鍵盤に打ち付けられる。

 軽やかに音が響く。

 耳を打つそれは私が弾こうとしていた曲だった。

 でも私が弾いた曲ととても同じ曲とは思えない。

 あざやかに奏でられるその旋律は昔、練習用にCDで聞いたものよりも遙かに惹きつける力があった。

 私には一生かかっても産み出すことの出来ないだろう音楽がそこにはあった。


 弾き終えた彼はふうと息を吐いた。

 

「……見せつけたかったの?」

「何が?」

「お前の弾こうとしていたものと比べてみろバーカって聞かせたかったの?」

「そういう人間に見える?」


 彼は頬をかいた。


「見えなくはない」

「それは別に……まあいいか」

 一瞬、反論したげに見えたが彼はやめた。

「うん君がそう思いたいならそう思えば良いさ。僕は音を出しただけだよ。いつものように好きな音を」

「…………」


 何も返す言葉が見つからず、私は黙った。


「弾く?」

「弾かない」

 即答できた。

「ピアノが嫌いなの?」

「……嫌いじゃない」

 少し時間はかかったけれど答えられた。


 私はピアノを嫌いにはならなかった。

 上達しなくても、先生が怖くても、辞めてしまっても、売ってしまっても、覚えている曲が一つだけでも、結局ピアノは嫌いにならなかった。

 芸術の選択授業だって美術か書道を選んでもよかったのに音楽を選んだ。


「そう」


 彼は何故か嬉しそうに笑った。


 突然、音楽室のドアが開いた。


「おい、ここで何をしている!」


 見回りの教師がそこに居た。

 教師は私たちの姿を交互に見た。


「……吹奏楽部、か?」

「ち、違います」


 よそ様の部活に迷惑はかけられない。私は慌てて否定した。

 一方の男子生徒はというと淡々とピアノにカバー布を敷き、ピアノを仕舞う準備をさっさと始めていた。その動きはとても手慣れていた。


「ちょ、ちょっとお邪魔して……えっと……すいません」

「……まったく。まあいい。見なかったことにしてやるからさっさと帰れ。テスト勉強しっかりしろ」


 見回りの教師はその強面とは裏腹に寛大な人格をしていた。

 私がホッと胸をなで下ろしている間、男子生徒は学ランを羽織って通学鞄を持ち上げ、帰る準備を万端に整えていた。

 私も慌てて通学鞄を拾い上げた。

 私たちは連れ立って音楽室を後にした。


 放課後の学校はテスト期間ということもあり、静かだった。

 うちの学校は例外を設けられるような強豪の部活はない。

 放課後のこんな静けさの中を帰宅するのは私は初めてだった。

 連れになった男子生徒はと言えば懲りもせず鼻歌を奏でていた。

 音が好きというのは筋金入りらしい。


「……ねえ、あれだけピアノが弾けるなら、家にないの?」

「あるよ? あるけど今、妹が風邪で寝込んでいるんだ。だから家では音楽はお預け。まあイヤホンで何でも聞けば良いんだけどね。聞くのと奏でるのじゃ段違いだから」

「そう」


 単純な理由だった。

 この人は私とはまるで違う。

 ピアノを弾いている。

 いつからかは知らないが、今までもこれからもピアノを弾くのだろうこの人は。


「弾きに来る?」

「は?」

「もちろん妹が治ってからだけど」

「……私の演奏聴いたじゃん」


 よくもあれを聞いて弾きに来るか、などと誘えたものだ。


「下手くそだったねえ。つまらなそうだったし、必死だったし、とても音楽の楽の字を使うにはほど遠かった。かと言って僕の聞きたい音でもないけど」

「……でしょう?」

「でもピアノが嫌いじゃないって言ってたからね」


 彼は淡々とそう言った。


「嫌いじゃないなら……弾きたいのなら弾くべきだ。下手でもなんでも。音楽は誰にでもその門戸を開くのさ」


 とてもいい顔で彼はそう言った。

 楽しそうにそう言った。

 私はしばらく沈黙をし、そして口を開いた。


「……質問を、変えてくれる?」

「うん?」


 彼はきょとんとした。しかしそれは一瞬だけだった。


「分かった。質問を変えよう」


 彼は嬉しそうに軽やかに笑った。

 なかなかどうして察しが良かった。


「ピアノが好きなの?」

 彼はひとつ訊ねた。

「好きだよ」

 私はようやくそう答えられた。

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ピアノはお好き? 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki

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