正直者のルール

中村ゆい

正直者のルール

「よくわかんないんだけど……」


 明美あけみは困惑した笑みを浮かべてそう言った。ああ、やっぱり言わなきゃよかったかも。


「要するに翔多しょうたは、私のことは好きじゃないけど付き合ってあげてもいいよって言ってるの?」

「そうじゃなくて。人としては好きだよ。ただ、恋愛感情は持てないっていうか……」


 しどろもどろになって説明しながらも、彼女の目と眉が怒りの形に吊り上がっていくのがわかって頭痛がしてくる。


「いやあの、ほんっとに意味がわかんないんだけど。やっぱり私が言ったこと全部忘れて。翔多がそんなに失礼な奴だとは思わなかった」


 じゃあね、と冷たい声を残して最寄り駅に向かってさっさと歩いていってしまった明美を俺はぼんやりと見送った。

 そっちじゃん。サークルのコンパで隣の席に座って上機嫌に話しかけてきたのは。

 1次会がお開きになった段階で一緒に帰ろーって誘ってきて、隣を歩きながら私たちどっちも彼氏彼女いないじゃん? 付き合う? って提案したの、そっちじゃん。

 なんか俺が振られたみたいになってんじゃん。

 でも変なことを言って怒らせたのは本当だし、明美を責めるわけにもいかない。


「そもそも、このルールが間違ってるのかな……」


 悩みながら一人で考えた、正直者のルール。嘘をついたほうが、本当のことを隠していたほうが、人を傷つけずに済むのだろうか。

 でもそんなの、俺が苦しい。

 小さな明美の後ろ姿がとうとう見えなくなったのを確認して、俺は彼女に追いつかない程度の速さで駅へ歩き出した。



 俺には恋愛感情がない。

 友だち、家族、先輩、後輩。好きな人も大事な人もたくさんいるけれど、そういう好きとみんなが言う特別な好きの違いがわからない。

 好きな人はみんな平等に好きだし、異性にも同性にも性欲はわかない。特定の誰かに対する独占欲もない。

もしかしたら初恋がまだなだけで、これから恋をするのかもしれない。けど、心のどこかでは自分は一生このままだという予感もしている。

 だから中途半端な行動を取って揉め事を起こさないように、俺はルールを作った。


その一。誰かに性的指向や恋愛対象を尋ねられたら正直に答える。

その二。自分にも相手にも好きなふりをしない、嘘をついて付き合わない。

その三。もしも自分のすべてを預けてもいいと思えるくらい信用できる人が自分を好きになってくれたら、正直に恋愛感情がないことを話す。受け入れてもらえるなら付き合う。


 今回はルールその三に従ったはずだった。明美のことは友だちとして信頼していた。

 だけど、駄目だった。思えば、自分のすべてを預けてもいいほどは彼女を信じていなかったかもしれない。言うんじゃなかった。ただ一言「付き合えない」って断ればよかった。 


「翔多ー? 難しい顔してどしたー?」


 昨日の夜のことを悶々と後悔しながら学食のメニューを睨んでいると、同級生の男子が俺の隣に立った。


「なに、なに? みそ汁か豚汁か悩んでる? わかるー、みそ汁は安いけど豚汁のほうが美味いんだよなあ、でも値段が高い」


 全然悩んでいない。俺はいつでもみそ汁だ。的外れな内容に理解を示されてしまった。


「なあ……お前、彼女いる?」


 メニューを見ながら質問したけれど、返事がない。どうしたんだろうと思って隣を見ようとすると、小声で答えが返ってきた。


「いない。彼氏ならいる」


 目を見開いて横を向くと、強い眼光で見つめ返される。何言われても負けねえぞって顔。こいつはこいつで自分にも相手にも正直に生きている。

 そんなこいつにほんの少し期待しながら、俺は口を開いた。


「アセクシャルって知ってる?」

「無性愛者だっけ。同性も異性も好きにならないっていう性的マイノリティのことだよな?」

「そう」


 こいつなら俺のこと、わかってくれたりしないだろうか。自身も少数派の、こいつなら。


「俺、あれはねー、恋愛から逃げてる人間が言い訳してるだけだと思うわ。誰も愛せないってそんなの、もしそういう人が本当にいるなら可哀想だよ」


 彼は、きっぱりと言い切って俺の肩を叩いた。膨らみかけていた期待が泡のように消えてしまう。


「好きな女の子に私アセクシャルなのー、とか言われた? それ遠まわしに振られただけだと思うよ。次の恋探したほうがいいって、どんまい」


 胸のあたりがぎゅっと手でつかまれたように痛い。お前アセクシャルなの? とか訊かれなくてよかった。そうしたらルールその一が発動して、俺は可哀想な人であることを告白するはめになるところだった。




※ ※ ※




 午後の授業とバイトを終えて、電車で帰宅する。地元の駅で改札を通ったところで肩を叩かれた。振り向くと重そうなビジネスバッグを肩にかけた青年が、よう、と俺に向かって片手を上げた。


「あ、誠司せいじ

「おう。翔多、大学からの帰り? 途中まで一緒に帰ろ」

「うん」


 実家から大学に通っているから、こうして通学のときに地元の友人と鉢合わせることはたまにある。誠司は俺よりも3つ年上だけど、近所に住んでいて俺が幼稚園の頃からの仲だ。


「元気?」


 家までの道を歩きながら、誠司がのんびりと俺に話しかける。彼は無口というわけではないけれど、いつも穏やかに話す。同級生にはあまりいないタイプの物静かな友人で、俺にとっては落ち着いた兄貴みたいな存在だ。


「元気。誠司は? 仕事忙しい?」

「まあ普通。……今度、結婚するんだ」

「マジ⁉ おめでとう」


 学生時代から付き合っている彼女がいるのは知っていたけれど驚いた。誠司は今年24歳だっけ。別に早すぎるとは思わないけど、日本人が結婚する平均年齢よりはかなり若い気がする。


「ありがとう。翔多は彼女とか好きな人とか、いるの?」

「いないよ」

「そっか。中学や高校の頃はよくモテてたよね。今も女の子に人気なのかなと思ってたから、ちょっと意外」

「そうかな」


 しばしの間、お互い無言のまま歩き続ける。彼は、俺が高校生の頃に彼女をとっかえひっかえしていたことを知っている。生まれつき容姿には恵まれていて、なんだかんだでモテたから。だけどいつも長く続かなかった。誠司はその理由までは知らない。

 義務のように一緒に帰ってデートをして。相手がしてほしそうなときにだけキスをしてセックスをして。女の子たちだって馬鹿じゃない。独占欲もなければ嫉妬心もなく、ただ優しいだけの俺をみんな見抜いて、翔多は私のこと本当は好きじゃないよねと寂しそうに俺から離れていった。

 だから俺はルールを作った。むやみやたらに誰かと恋人になって相手を傷つけないように。俺を傷つけないように。

 だけどそんなこと、誠司にとってはどうでもいいだろう。別に今さら話さなくてもいいよな。この話はこれで終わり。

 ……でも。

 俺を見限り、置いていった女の子たち、昨夜の明美の戸惑いと怒りの入り混じった顔、昼に言われた可哀想という言葉。思い出す度に黙っていればいいことも溢れてしまいそうになる。

 例のルールには何も当てはまっていないのに俺は口を開いていた。


「変なこと言うけど、俺……男も女も好きじゃないんだ。恋愛対象じゃない」


 ぎこちない俺の声音に、誠司は少し歩調を緩めた。


「そうなんだね」


 驚きも軽蔑もしていないような、まったく戸惑いのない普段通りのトーンで返事をされた。それだけのことに俺は妙に泣きそうになってしまう。


「今日……誰も愛せなくて可哀想って友だちに言われたんだけど。でも俺……俺は、恋愛を知らないだけで他の愛ならわかってるつもりだった。友だちも親もペットも、みんな大好きで大切に思ってる。それじゃ駄目なの?」


 愛って何だ、何なんだよ。ずっと感じていた疑問が体の中を暴れまわり始める。

 震えている俺の言葉にも、誠司は動じない。黙って俺を見つめてるだけ。いつの間にか2人とも立ち止まっていた。すぐ横の車道を自動車が数台通り抜けていく。

 恋愛すらもわからない俺の友愛や家族愛は、偽物なのだろうか。恋人がいなければ、人としての幸せも手に入らないのだろうか。だから俺は可哀想なのだろうか。

 俺は不安を押し殺したくてうつむいた。


「結婚だって……別にしなくてもいいって思ってるけど、誠司みたいにいつかできたらそういう人生もいいなって憧れも正直あるんだ。恋愛はできなくてもそれ以外の愛があって大切にできて、この人なら信頼し合えて一生一緒に楽しく暮らせそうっていう人がいれば、付き合ったり結婚したりしたいと思ってた。それって駄目だと思う? そういうことするのって相手に失礼? 俺おかしい?」


 最後のほうは訴えるように叫んでいた。助けて誠司。俺の中で暴れているものをなんとかして。自分ではどうしたらいいのかわからない。

 下を向いた俺の目から足元に涙がぽとりと落ちた。小さく濡れた地面を睨んでいると、頭にぽんと手が乗せられる感覚がした。

 おそるおそる顔をあげれば誠司と目が合う。いつ見ても変わらない、静かな瞳。


「俺は女の人に恋をしてそのまま恋愛結婚するし、正直……翔多の気持ちは理解してやれない。相手に失礼とかおかしいとかも、よくわからん。けど、ちょっと羨ましい」

「……は?」


 一瞬、体も思考も固まってしまった。羨ましいなんていう言葉を予想していなくて。


「俺なんかはさ、恋愛にとらわれて生きてるから。女とは付き合えて男とは付き合えないとか、そもそも恋愛しなきゃって思いこんでたりとか。翔多はそういうのないってことだろ。恋愛や性別に惑わされずにその人そのものを好きになる生き方ができるんじゃん。人と接するとき、俺とは全然違う自由な景色が見えてんだろうなって思う」


 胸の痛みが軽くなった。昼に学食で見えない手につかまれたままだった心臓が、ふわりと解放された気がした。


「おい、泣くなよ。たぶん腹減ってるからネガティブなこと考えるんだって。おばさん、晩ごはん作ってくれてるんだろ。早く帰って何か食べな」


 俺が涙をぬぐって頷くのを確認すると、誠司はもう一度俺の頭に軽く手を乗せてから、再び歩き出した。


「誠司、」

「何?」


 数歩後ろから呼びかけると、誠司はゆっくりと振り向く。


「今、誠司となら結婚してもいいって思った」

「それは光栄。でも悪いけど俺、フィアンセがいるんだ」

「知ってるよ。言っただけだし」

「わかってるよ。俺もフィアンセって言ってみたかっただけ」


 俺は誠司に駆け寄って彼の隣に並んだ。俺の中で暴れていた感情は消えはしないものの、ひとまず落ち着きを取り戻しつつあった。

 家に着いて家族に見られる前に泣いた顔をどうにかしたくて、目と濡れた頬をごしごしと擦りながら夜の帰り道をゆく。


「大丈夫だよ。翔多は愛をわかってる」


 俺の隣で誠司がそっとつぶやいた。


「パートナーがいてもいなくてもどっちでも、大事な人たちと一緒に幸せに生きていけるさ」

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正直者のルール 中村ゆい @omurice-suki

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