ありふれた

Natsumi

ありふれた

 雨粒が目の前を垂れて、曇った窓ガラスに透明な亀裂を走らせる。自重に耐えられず落ちていく水滴の後を追うように、荒んだ東京の街灯りが私の網膜を照らした。

 きっと、そこに理由なんて無かった筈だ。毎日祭りのような騒がしさの東京に――強いて言うならば、ただ憧れていたのだろう。いつの間にか辛気臭い故郷ふるさとを蹴って、私はこの大都会に溶け込んでいた。まるで、大いなる雲を飛び出しては目の前の窓ガラスに降り注ぐ、雨粒のように。

 でも、降り立ってみればすぐに分かることだ。この世界は、この東京は、思っている程素晴らしい場所じゃない。寧ろここは、私みたいな何もしない、何もできない人間の人生を窮屈にさせるような――掃き溜めみたいなものでしかなかった。曇った部分を拭っても、現れるのは誰が吐いたかもわからない陰鬱な溜息ばかり。一昔前には東京はキラキラしていて自由に溢れたものとばかり思っていたのに、私のそんな期待はみるみるうちに音を立てて崩れていった。


 私には両親がいなかった。その代わり、幼い頃からずっと祖母が私の面倒を見ていてくれた。祖母の作る温かい晩御飯が楽しみで……そのために毎日生きていたようなものだ。情のこもった夕食を六畳ばかりの居間で味わいながら、祖母と他愛のない会話を交わすのが好きだった。

 でもそんな幸せに満ちた空間も、もう記憶の中だけのものとなってしまった。

 ここに越してきて半年ほど経った、ある日のことだ。そのとき私は新しく始まった大学生活に追われて、暫く祖母の家に帰省できないままでいた。


 祖母が死んだ――。それだけを告げる電話が、私の知らない電話番号からかかってきた。


 その電話を寄越してくれたのは、私が幼い頃から顔見知りの新聞配達のおじさんだった。ポストに溜まった新聞と嗅ぎ慣れない微かな腐敗臭を妙に思い家の中を確認したところ、祖母が倒れているのを発見したらしい。

 死因は急性アルコール中毒とのことだった。でも、私を引き取ってからは、祖母は飲酒を一切していない筈だった。

 何故祖母が飲酒を再開していたのか、その時の私には分からなかった――いや、心の内ではきっと分かっていたのだろう。ただそれを受け入れるのに堪えられなくて、ずっと見て見ぬふりをしてきただけだ。

 祖母は、私が東京に旅立ってから、今までにないほどの孤独感を覚えていたのだと思う。

 だから。その寂しさを紛らわすために、長年我慢し続けていた酒に手を出した。愛する夫もうの昔に亡くしてしまった祖母は、私をも手放したせいで酒の他に頼るものを失ってしまったのだ。

 本当の事は私にだって分かりっこない。だけど、きっとそうして祖母は酒に溺れて――それを止める者もいないまま――独りで死んだのだろう。


 目の前でガタガタと、窓が音を立てて揺れる。小雨はいつの間にか大雨に変わり、風が建物の隙間を通って私の住むマンションにも届き始めていた。

 はぁ、と溜息にもならない声が出る。

 今日は久しぶりに友達と会う約束をしていたのに、結局すっかり日が暮れるまで悪天候が収まることはなかった。少し前まではかなりいい感じに勢いが収まってきていたが、今はこの通り、昼のような荒天にぶり返しだ。

 おもむろに席を立った。そういえば、今の今まで座っていたこの椅子も、いつからこんな窓際に置かれているのか覚えていない。

 玄関に向かいながら、今日になってからは家の電気を初めてつけることに気が付いた。

 部屋に明かりを灯してから真っ先に目をやったのは、棚の上に置かれたデジタル時計だ。

 午後7時23分。

 少し、物思いにふけり過ぎてしまった。

 鉛のように重い体を鞭入れながら、晩御飯を作るためにキッチンへと向かう。強い光に目が慣れないまま冷蔵庫の扉を開いた。

 あるのはコンビニで買った開封済みのベーコンと、生卵が少し。あとは大量に置かれたスト缶の奥に、賞味期限の切れた納豆が2パック。

 女子の家の冷蔵庫にしては、余りにもシュールな光景だった。まあここ数週間は就活に追われていて、自分の食事などにこだわっている暇は無かったのだが。

 有り余ったスト缶を一本取りだし、栓を開けてガラスのコップに注ぐ。日々の疲れとストレスを洗い流すように、多めの一杯を呷った。

 どこか満たされない幸福感に包まれながらも、納豆と生卵を取り出す。手持ち無沙汰な今日の夕食は、たまごかけ納豆ご飯に決まっていた。

 不意にリビングの方を一瞥する。思えば、このマンションに住み始めてからは生活感のある何かをほとんど買っていなかった。

 私が高校生だった時は、将来の自分がこんな人間味のない生活をしているなんて予想もしなかっただろう。あの頃の私は希望に満ちていて、自分の人生が素晴らしいものになることを微塵も疑っていなかった。

 ――あの頃に戻れるならば、真っ先に自分自身に謝りたい。

 あなたのなりたかったあなたになれなくてごめんね、と。


 東京は残酷だ、と言うと少し語弊があるかもしれない。正確に言うならば、私はこの東京で、社会の残酷さを思い知らされた。

 東京は人であふれ返っている。みんな何かを求めて、或いは何かを期待してここに来たのだろう。でも、現実はそう甘くはなかった。

 この社会でブルジョワになれるのはほんの一握りの人間だけだ。

 それ以外の者は右も左も自らの才能の程度に絶望して、壁にもぶつからないまま挫折し、ありふれた一般人として余生を過ごす。

 大抵の人はそこで、否が応でも自分の夢を諦めざるを得なくなるのだ。

 でも。

 私には、それがどうしてもできなかった。自分の可能性に見切りをつけて、何もできない凡人として社会に染まることが、どうしても許せなかった。


 ――しかし、やはりこの世の中が私に情けをかけてくれることは無かった。

 どう足掻いても自分の力では夢を叶えられないと悟ったとき、私は他人以上に絶望した。息を継ぐために水面に這い上がろうと他人ひとよりもがいた分、溺れるときも他人より苦しかった。

 バカだ。私はどうしようもないバカだった。最後まで自分の才能を過信し続けていた。忍耐力さえあれば誰もが自分の夢を叶えられると信じて疑わなかった。

 でも、それは違ったんだ。




 コップに注ぐ動作すら煩わしくなって、遂に私はスト缶を直接飲み干した。

 いつもなら夕食と共にじっくりと、僅かな幸福感を噛み締めているところだ。でも、今日は何故だかそんな気分にはなれなかった。

 茶碗についだ白米に納豆と卵をかけてかき混ぜる。

 窓奥では遠方のビル群から射す無機質な光がベランダの床を照らしていた。


 雨は既に止んでいる。

 全く、なにもかもうまくいかないものだ。


 私は視線を目の前のたまごかけ納豆ご飯に戻して、そして考えるのをやめた。

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